経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

皇室の歴史(15)

2021-02-26 14:37:05 | Weblog
皇室の歴史(15)

 白河法皇(天皇、上皇と年代により異なりますが、法皇で統一します)の事績は大きく三つになります。武力と僧兵と醜聞です。院政期には武士団が台頭し政治的実力を発揮し始めます。荘園制が発展するとともにその地の実力者である武士の力は強くなります。大量の武力を用いた戦闘が起こります。その代表が前九年の役(後冷泉天皇の時代)と後三年の役(白河執政期)です。奥羽の戦闘を主導した源氏、源義家は武士の棟梁となり、位階を昇進させます。しかし清和源氏一族は内部闘争で力を失います。代わって台頭してきたのが義家の長男で西国で暴乱を繰り返していた義親を征伐し、更に西国の海賊を掃討して彼らを家人に入れた桓武平氏です。白河法皇は彼らを適宜利用しました。武士の力に頼らなければならなかったのは、先に述べたように荘園と公領の矛盾が激化し、地方の治安さえ武士なしには維持できなかったからです。白河法皇は宮中に武者所とか北面とかいう武装機構を作りました。これには白河法皇の皇統政策も影響しています。彼が強引な事をするので皇族貴族の間には不満は溜まっていました。クーデタ-を恐れていたのです。
 僧兵に関しても荘園と武士に関して述べたのと同様の事が言えます。当時の寺院は大荘園領主でした。自らの権益は自らの力で守ります。寺院の僧侶以下の各員はすべて皆武装でした。僧兵は自己の利害を主張して都に乱入します。この行為を強訴といいます。その数は時として数千を数えます。武士の都における役割の大半は僧兵の乱入阻止でした。特に比叡山延暦寺と南都(奈良)興福寺は僧兵で有名で、たびたび武士と衝突を繰り返しました。ともかく都の周囲をぐるりと寺院が取り巻き僧兵を擁しているのですから、物騒です。後年平氏が都落ちしたのも、究極的には寺院との争闘に敗れたからです。
 醜聞に関しての話はゴマンとあります。肝心な部分のみ書きます。白河法皇は中宮藤原賢子をすごく寵愛していました。この賢子が死去します、それから法皇の性生活は乱れます。法皇の子供はすべて潜在的皇位継承者ですから、記録しなければなりません。法王は仔細を尋ねる側近に「詳しくは解らない」と述べました。そういう次第です。法王は鳥羽天皇(法皇の孫)の中宮であった藤原たま子を偏愛します。たま子がまだ少女であり中宮候補であったころから自分の寝床に入れて可愛がりました。たま子が長ずるに及びこの偏愛は性愛に移行します。鳥羽天皇は未だ幼少で事態が解らないのをいい事に二人は不倫を続けます。女を知り尽くした男によって可愛がられ愛されるのですから、当然たま子も淫乱になったでしょう。鳥羽天皇も長じるに従いうすうす事情は解ります。問題は鳥羽天皇とたま子の間にできた顕仁親王の血縁です。この親王は嫡子であり、また白河法皇の影響もあり即位しました。崇徳天皇です。前後の関係から崇徳天皇は鳥羽天皇の子供でもあり、また白河法皇の孫でもありえます。鳥羽天皇は崇徳天皇を「叔父子」といって避けたと、言われます。問題の真偽は解りません。しかし叔父子説の方が有力なようです。この問題は保元の乱の導火線になります。また白河法皇には祇園女御という愛人がいました。この女御(あるいわ彼女の妹)が孕んだまま平忠盛に下げ渡されます。できた男子が平清盛です。この話は事実のようです。そうなると保元の乱は別の意味で、兄弟同士の争いにもなります。崇徳上皇は乱の張本人であり、清盛は反対側武力の中軸だったのですから。
 このようにして「ままならぬものは、加茂の水と、双六のめと山法師」と言った白河法皇は子孫に業縁を残しつつ幸せな一生を終えます。1129年死去、享年76歳、在位14年、実質的執政期は57年の長きに渡ります。長すぎた一生とも言えましょう。
 白河天皇の次代が彼の長子である堀川天皇です。7歳即位、幼帝です。白河法皇はこの皇子を得て、異父弟による皇統を阻止しえたのですが、堀川天皇はその点を除けば影の薄い君主でした。父親の白河法皇の存在があまりにも大きく、天皇は実際の政治に参画できません。堀川天皇は賢明の聞こえが高かったと言われております。晩年は管弦など風流の道に精進しました。28歳で夭折します。天皇の闘病記は藤原長子の「讃岐典司日記」に克明に記されていますが、病気との戦いや死への恐れは強烈鮮明に描かれています。
 次代の天皇が鳥羽天皇です。堀川天皇の皇子で4歳に即位します。在位13年、この間は白河法皇の院政期で天皇には政治への実権はありません。退位して三年後幸いなことに白河法皇が死去します。以後死去するまでの30年間上皇そして法皇として院政をしき政治を領導します。白河法皇の時院政が確立され、上皇・法皇は治天の君と呼ばれるように、実際政治の名実ともの執政者でした。先に申しますと白河、鳥羽、後白河、後鳥羽の四人が実際の院政の主でした。なおこの治天の君の皇族への絶対的影響力は強く、江戸時代に入っても永続されます。
 鳥羽天皇の後宮は複雑でした。先記の通り中宮たま子(待賢門院)には素行上の問題があります。しかし鳥羽上皇は彼女を愛していたようです。ところが鳥羽上皇は院の近臣の娘得子を宮中に入れて女御として寵愛します。彼女を美福門院と言います。上皇の愛情は美福門院に傾きます。鳥羽天皇の次代は白河法皇の意向により崇徳天皇です。崇徳天皇は父親(?)後鳥羽天皇の意向により退位させられ次代は鳥羽天皇と美福門院の間にできた近衛天皇になります。ここで問題が起こります。近衛天皇は崇徳上皇の「皇太子」とされると約束されたのですが、出来上がった正式文書では「皇太弟」となっております。院政をしくには天皇が直系の我が子でないといけません。そのように慣習ができていたのです。これでは崇徳上皇は院政をしけません。詐欺です。この事件は鳥羽上皇の意図からでたのかそれとも美福門院の陰謀なのかは解りません。この事件は当然崇徳上皇の不満を呼び、保元の乱の導火線になってゆきます。崇徳天皇は以後15年雌伏を強いられ近衛天皇がなくなりほぼ同時に鳥羽上皇が亡くなると保元の乱を起こすことになります。崇徳上皇は歌人でもあります。秀歌は多く、「詞歌集」という勅撰和歌集を作っています。「千早ぶる、神代もきかず、竜田川、唐くれないに、水くくるとは」は確か崇徳上皇の歌のはずです。藤原定家の作った小倉百院一首にも選ばれています。もっともこの定家の対応は後に怨霊となった上皇への鎮魂の儀礼であったかもしれません。
 鳥羽上皇の時の政治は白河法皇のそれとあまり変わりはありません。ここで藤原氏(摂関家)に内訌が起こります。藤原忠実は白河法皇の忌憚に触れ宇治に隠棲させられました。鳥羽院政になると忠実は復権します。そこでそれまで関白として政治に参画していた長男の忠通と対立し始めます。忠実は次男頼長を偏愛していました。対立は忠通と頼長の争いになります。両者は摂関の地位と藤原氏の氏の長者(藤原氏の家長ないし族長)の地位をめぐって争います。近衛天皇は病弱で16歳で死去します。鳥羽上皇も後を追うようにして亡くなります。崇徳上皇は自分の皇子重仁親王の即位を期待します。自分の院政が開始できるからです。しかし鳥羽上皇の意図があったのか、皇位は雅仁親王の皇子であり、美福門院の養子でもあった守仁親王(後の二条天皇)にまわってきます。しかし直に天皇にするのではなく中継ぎとして父親の雅仁親王が後白河天皇として建てられます。後白河天皇は中継ぎのはずでしたが即位三年後退位し院政をしき、以後34年間治天の君として政治を執行し保元平治の乱も生き抜き、平氏一門と渡り合い、源頼朝とも丁々発止の駆け引きをして、頼朝から「日本一の大天狗」と言われ1192年鎌倉幕府の成立を見せさせられて死去します。院政の主治天の君として君臨する人はどういうわけか本命でない人が多いのです。本命で院政を開始できたのは鳥羽上皇だけでしょう。
 後白河天皇の即位に不満を抱いた崇徳上皇はやはり台閣から疎外されていた藤原頼長と組み、在京の武力をかき集めて天皇方と戦闘に及びます。天皇方の武力の中心は平清盛そして源義朝でした。武力に勝る天皇方が勝ち、崇徳上皇は讃岐に配流、頼長は戦死、上皇方の武士はほぼ全員処刑されました。上皇の起こした戦は国家への反逆とみなされたので厳しい処分になったのです。院政に潜在(顕在と言ってもいいくらいです)していた矛盾は結局武力でしか解決できないことが解りました。武士は自分たちの実力に目覚めさせられます。「愚管抄」で慈円は「これより武家の時代が始まった」と書いています。
 乱後、後白河上皇の側近(乳母の夫)である、少納言入道信西(藤原通憲)が絶大な力を持ちます。彼は事実上全権力を掌握します。保元の乱で上皇方を追い詰め挑発し武士を指揮したのはこの信西入道でした。彼は抜群の秀才(むしろ天才とも言うべきか)でありマキャベリストでした。彼の子供たちもすべて優秀で政治家また宗教家として歴史に名を留めています。この信西に対立した公卿の一団があります。この勢力は藤原信頼を中心とします。これに二条天皇親政派と後白河上皇の院政派の対立がからみ、さらに源平二氏の摩擦もあり、1159年平治の乱が起こります。信西は殺され、源義朝は敗死し、以後院政と天皇親政派の対立は続きます。この状況で「あなたこなたして」つまり両派をうまく使い分けて台頭したのが平清盛と平氏一門でした。
 保元の乱であのような強引な皇統の筋書きをしたのは美福門院でした。彼女は崇徳上皇の復讐を恐れました。また清盛の義母池の禅尼は本来重仁親王の乳母で崇徳方につくのが筋ですが、あえて清盛に天皇方への参戦を勧めました。この禅尼には清盛も終生頭が上がりません。また信西入道の政治力は後白河天皇の乳母である妻に負います。

「君民令和、美しい国日本の歴史」

コメントを投稿