西山弥太郎
西山弥太郎といえば、川崎製鉄千葉製鉄所の設立で有名です。千葉製鉄所がなぜ、それほど画期的な試みで、弥太郎の名をいやがうえにも高くさせたのかと、言いますと、次のような理由が考えられます。それまで鉄鋼御三家といわれた、八幡、富士、日本鋼管が独占していた銑鋼一貫製造メ-カ-の中に食い込んだ事、のみならず将来の鉄鋼需要の増大を予想して、三社独占では日本の鉄鋼生産が不十分であり、工業立国たるに相応しくないという見地から、果敢な挑戦を成し遂げた事にあります。
(注)八幡と富士は後に合併して現在の新日鉄になっています。なお文中「弥太郎」と表記しますが、「弥」は略字であり、本来は難しい旧字を使うべきですが、ワ-ドにないので失礼とは思いますが、略字の方を使用します。
弥太郎は1893年(明治26年)神奈川県ゆるき郡吾妻村に生まれています。先祖は北条氏に仕えていましたが、秀吉により北条氏が亡ぼされると、帰農し代々酒造業を営む一方、本陣を経営する村の有力者でした。屋号は井筒屋、当主は豊八を名乗ります。父親豊八は養蚕業を営み、網元も兼ね、村の収入役を堅実にこなす、実直な人柄でした。弥太郎は豊八の十男に生まれます。本当は十一男でしたが、長男が夭折したので十男になりました。履歴書を書くときなど、なにかの間違いではないかと、よく反問され恥ずかしかったと述懐されています。少年期は運動万能、特に水泳大好きで、遊びまわっていました。成績はまずまずの上というところです。小学校(4年)高等小学校(4年)を卒業すれば、特に本人も両親も、それ以上の高等教育を望まず、親戚の金物屋の手伝いにやられます。ここで弥太郎は鉄や他の金属でできた製品がいかに高く売れるか、に仰天し、鉄の研究を志したとあります。すこし怪しそうな話です。しかし弥太郎という人物は、徹底した技術屋であると同時に、後年川崎製鉄社長に就任した時のやり方からわかる様に、営業における商才も充分持ち合わせています。だからこの話は伝説に限りなく近い事実でしょう。
弥太郎の生き方は一変します。私立錦城中学に進み、そこから一高、東大工学部というお決まりのエリ-トコ-スを進みます。工学部では競争の激しい冶金工学科に入り、俵国一教授の指導を受けます。一高・東大時代の弥太郎は黙々と勉強する特徴のない優等生であり、同期のものが逸話を語るに困る、と言われました。学生時代八幡製鉄で実習し、また川造船を見学しています。1921年東大を卒業し、川造船に就職。26歳ですから少し遅れた卒業になります。なぜ川かといえば、どうも見学した時川崎が一番新鮮に写ったからのようです。入社早々労働争議に出会います。ともかく戦前戦後を通してこの川造船(製鉄)というのは争議に縁の深い会社です。当時友愛会という日本で始めての労働者の団体ができ(鈴木文治の項を参照)、室蘭製鉄、川・三菱の両造船所で大争議が持ち上がりました。結果は友愛会側の敗北ですが、会社が無傷というわけには行きません。ただ入社早々のホワイトカラ-である弥太郎には直接の関係はありません。しかし歴史に残る大争議ですから、事情によっては弥太郎の人生に影響を与えたかもしれません。多分彼はかなりの興味をもって、この争議を見ていたと思います。第二次大戦後弥太郎を経営者として有名にさせた理由は、戦後の争議を解決したからです。経営者としての実力を認められたから、千葉製鉄所建設という破天荒な事業をかなり強引に推し進める事が可能になったのでしょう。
入社した弥太郎は葺合(ふきあい)工場の製鋼掛に任命されます。神戸市には以前葺合区という区がありました。葺合区は生田区と合併して現在、中央区になっています。つまり弥太郎は関東から関西の神戸にやってきました。以後人生の大部分を関西で過ごし、彼の名を不朽にする事業では、再び関東の千葉に進出して大仕事をします。弥太郎は製鉄製鋼一本に生きますが、彼が就職した会社の主力は造船業です。徐々に製鉄部門の比重が大きくなり、製鉄所を兵庫、葺合、久慈(岩手県)、西宮、保土(長野県)、知多(愛知県)、千葉、水島(岡山県)と増設拡張してゆきます。入社当時の社長は松方幸次郎、正義の子供で、幸次郎も明治大正の経済界に波乱を呼んだ男の一人です。後に列伝で取り上げようと思っています。
工場の上司は小田切延寿という人でした。鉄鋼製造の事実上の責任者で、海軍の技術将校(大佐)から、川へ転職し、厳しい指導で知られた人です。弥太郎は火で眉を焦がすと言われたほど、現場重視に徹します。小田切の指導です。就職して以後、金融恐慌さらに大恐慌などがあり、3500名の解雇、争議と、会社は青息吐息の経営です。昭和6年満州事変勃発でやっと一息つきます。この間現場ではドイツ人技師ドリ-ゼンの指導下に、作業能率の改善を試みます。作業成果を数値で示すようにして計量化を計ります。その数値に基づき、能率給にします。弥太郎はこの改革の先頭に立ちます。どんな改革も現場の保守勢力には歓迎されません。反発、抵抗そしてとうとう暴力事件が起こります。この事件は基本的には旧来の職人と新勢力である技師との対立です。暴力事件を知った小田切は関係者を全員解雇します。のみならず改革派には警察をつけます。こういう事もありました。そしてこの事件の解決は、後年の大争議に際して弥太郎がとった対処法とよく似ています。
1933年(昭和8年)「塩基性平炉改造の経過とその成績」を雑誌「鉄と鋼」に載せ、服部賞を取ります。この賞は工業技術者の世界では最高の栄誉でした。これで弥太郎は「平炉の西山」の異名をもらうことになります。同年製鋼課長に昇進。1935年当時の社長のめがねにかない洋行し、帰国して技師長に昇進します。この間工場の一部が日本鋼管の一部と合併し、昭和鋼管という会社が生まれます。また会社自体が株主の肩代わり問題で揺れます。川は何度も危機に立ったので自己資本は少なかったようです。株主が変ると経営方針に影響が出ます。この問題は軍部が介入してかたがつきました。国家の大事の時に、株主騒動とは何たる事かと、すでに軍人の時代に入っていました。会社は昭和14年社名を「川重工業株式会社」に変更します。弥太郎は昭和17年に取締役に就任します。会社は軍需工場に指定されます。昭和18年のサイパン陥落により米軍機の本土爆撃が可能になり、日本の大都市、特に東京、名古屋、大阪は徹底的に爆撃されます。川重工業も同様、生産工程の大部分が破壊されました。しかし弥太郎はこのような状況下で、将来の鉄鋼生産の基本的青写真を考えています。それは銑鋼一貫製造工場、つまり溶鉱炉を持つ工場の建設です。川重工業の中の、6つの製鉄工場は統合され弥太郎が製鉄所長になります。
終戦。鋳谷社長以下の役員多数は退陣します。公職追放です。弥太郎は追放か否かのぎりぎりの、立場に置かれひやひやします。幸い追放は免れました。会社は当分社長なし、役員の合議制を取ります。この難しい時期弥太郎は将来の日本の鉄鋼業に関して以下のような構想を語ったと伝えられます。
既存の施設が破壊されたのだから、最新の設備を備える好機
原料を近くに持つ必要は少なくなる
日本の工業は鉄鋼業を基幹産業として復興する
銑鋼一貫過程は鉄鋼業の宿命 そこまで行かなければ意味はない
外地から引き上げてきた技術者の活用
株式売買で成績を上げるのは嫌だ、あくまで製造技術で勝負
この構想は千葉製鉄所建設で実現されます。しかしその前に弥太郎が解決しておかければならない事があります。戦後ほとんどの大企業を襲った争議の嵐です。
昭和23年に大争議が持ち上がります。組合は物価上昇に伴い、賃上げを要求します。製鉄所側は能率給と増産、そして人員整理を提案します。戦後の危機にあって組合は生活防衛を、会社は会社存続をかけて対決します。しかし当時の争議は単なる経済問題ではありません。共産党は会社の乗っ取りや壊滅を要求していました。資本主義の牙城である大企業を、ソ連型の国営ないし共有制にしようとします。ストをうち、生産管理を要求します。戦術は過激になり、暴力的になります。役員がタバコの火を顔に押し付けられるというような事もありました。(東芝での話)弥太郎は断固対決に踏み切ります。部下に「葺合工場をつぶしても良い 責任は俺が持つ」と発破をかけます。共産党の政治優先を嫌う、組合幹部の意向を見抜き、会社側に抱きこみ、管理職にして、対組合交渉の前面に立てます。第二組合を作ります。大学教授を法律顧問に雇います。組合の一部過激派が給食場に乱入したのを、好機として、警察を導入し、関係者を逮捕させ、告訴します。彼らは懲戒免職になります。そして残りの幹部に会社の置かれた実情を話し、結局3000名の解雇に同意させます。こうして川崎重工業製鉄所の争議は会社側の勝利に終わります。弥太郎という男は単なる技術屋ではありません。争議を解決した事で弥太郎の経営者としての名声は上がります。東芝の争議を解決した石阪泰三と同様です。また会社における評価も格段にあがります。西山天皇の異称が与えられました。この間川崎重工業の造船部門と製鉄部門が分離します。製鉄部門の独立は弥太郎の念願でした。1950年(昭和25年)57歳、弥太郎は川崎製鉄株式会社の初代社長に就任します。資本金は5億円でした。前後して日本鉄鋼連盟常任理事になります。5億円の資本で総計270億円の事業が試みられます。それが千葉製鉄所の建設です。
社長就任の昭和25年、銑鋼一貫工場建設計画書を沿え、見返り資金供与の嘆願書を通産省に提出します。川鉄千葉建設の資金計画は、総計273億円、第一期工事費用は114億円、うち増資15億、借入金19億、社債9億、自己資金71億円でした。場所は防府(山口県)にするか千葉にするか、最後の最後まで迷います。結局千葉の日本航空機跡の60万坪(1坪は3・3平米)を買い、加えて前面の海30万坪を埋め立てます。さらに海を掘りぬき突堤を作って港を作ります。水は印旛沼から直接引き、足らないところは井戸を掘ります。技術者には旧満州から引き上げてきた人材を大量に雇用し活用します。
川鉄千葉の建設は早くから弥太郎が胸に抱いていた計画です。なによりも溶鉱炉を持った製鉄所、つまり銑鋼一貫工場の建設を弥太郎は念願していました。彼は戦後日本の工業が飛躍的に発展すると確信していました。「鉄は国家なり」(これは彼の言葉ではありません)の確信のもとに、戦後の鉄需要の増大を見込み、計画を立てました。当時銑鋼一貫工場を持っていたのは、八幡、富士、日本鋼管の三社だけ、他の大手である川鉄、神戸製鋼、住友金属は銑鉄を他から買い、鋼鉄を作る平炉メーカ-でした。これらの三社はすべて関西に本拠を置きます。川鉄千葉の建設は、平炉メーカ-による三社独占への挑戦という意味もあります。しかしなによりも三社独占を崩して、国全体での鉄鋼の大増産を計るのが弥太郎の意図です。技術的には酸素利用とストリップミルの採用が焦点になります。二つの工法はすでに欧米では試みられていましたが、弥太郎はこれの最新式を大規模に採用します。つまり世界で一番進んだ技術を取り入れます。銑鋼一貫製造は製造費用を低下させます。遠くから重い銑鉄を運ぶのにかかる、運搬費がほとんどいらなくなります。そして新工場は簡素化を旨に、移動行程を最小化する方向で進められました。
資金計画を提出された通産省は検討に入ります。通産省としては前向きに臨んだようです。問題は日銀です。お金はここから借りる、あるいは承諾を得るのですから。時の日銀総裁は一万田尚人で法皇といわれていました。一万田はいい顔をしません。「千葉工場にぺんぺん草が生える云々」という事実か伝説か解らない話は、天皇と法皇両者の交渉の過程ででました。結局一万田は折れます。1951年(昭和26年)千葉製鉄所開設。同年世界銀行から2000万ドルの融資を受けます。当時の1弗は360円ですから、日本円に直せば72億円になります。1953年千葉工場所第一高炉火入れが行われます。こうして川製鉄千葉製鉄所は運転を開始します。なお弥太郎はくず鉄の値上がりを予想して、買い込み、約100億円の資金を作ったといわれています。単なる技術屋のできる事ではありません。
弥太郎はもう一つの銑鋼一貫工場を岡山県の水島に作っています。1961年同工場は開設されました。1966年(昭和41年)癌のため死去。享年73歳でした。
参考文献 西山弥太郎伝 鉄鋼新聞社編 非売品 大阪市立図書館蔵
日本産業史(2) 日経出版
(付)川崎製鉄h2002年日本鋼管と合併し、JEEスチ-ル株式会社となる。JEEの現況概観は以下の通り。
売上高 3兆2033億円(連結)
営業利益 4080億円
純利益 3147億円
純資産 1兆1067億円
総資産 3兆6412億円
従業員数 45317名
西山弥太郎といえば、川崎製鉄千葉製鉄所の設立で有名です。千葉製鉄所がなぜ、それほど画期的な試みで、弥太郎の名をいやがうえにも高くさせたのかと、言いますと、次のような理由が考えられます。それまで鉄鋼御三家といわれた、八幡、富士、日本鋼管が独占していた銑鋼一貫製造メ-カ-の中に食い込んだ事、のみならず将来の鉄鋼需要の増大を予想して、三社独占では日本の鉄鋼生産が不十分であり、工業立国たるに相応しくないという見地から、果敢な挑戦を成し遂げた事にあります。
(注)八幡と富士は後に合併して現在の新日鉄になっています。なお文中「弥太郎」と表記しますが、「弥」は略字であり、本来は難しい旧字を使うべきですが、ワ-ドにないので失礼とは思いますが、略字の方を使用します。
弥太郎は1893年(明治26年)神奈川県ゆるき郡吾妻村に生まれています。先祖は北条氏に仕えていましたが、秀吉により北条氏が亡ぼされると、帰農し代々酒造業を営む一方、本陣を経営する村の有力者でした。屋号は井筒屋、当主は豊八を名乗ります。父親豊八は養蚕業を営み、網元も兼ね、村の収入役を堅実にこなす、実直な人柄でした。弥太郎は豊八の十男に生まれます。本当は十一男でしたが、長男が夭折したので十男になりました。履歴書を書くときなど、なにかの間違いではないかと、よく反問され恥ずかしかったと述懐されています。少年期は運動万能、特に水泳大好きで、遊びまわっていました。成績はまずまずの上というところです。小学校(4年)高等小学校(4年)を卒業すれば、特に本人も両親も、それ以上の高等教育を望まず、親戚の金物屋の手伝いにやられます。ここで弥太郎は鉄や他の金属でできた製品がいかに高く売れるか、に仰天し、鉄の研究を志したとあります。すこし怪しそうな話です。しかし弥太郎という人物は、徹底した技術屋であると同時に、後年川崎製鉄社長に就任した時のやり方からわかる様に、営業における商才も充分持ち合わせています。だからこの話は伝説に限りなく近い事実でしょう。
弥太郎の生き方は一変します。私立錦城中学に進み、そこから一高、東大工学部というお決まりのエリ-トコ-スを進みます。工学部では競争の激しい冶金工学科に入り、俵国一教授の指導を受けます。一高・東大時代の弥太郎は黙々と勉強する特徴のない優等生であり、同期のものが逸話を語るに困る、と言われました。学生時代八幡製鉄で実習し、また川造船を見学しています。1921年東大を卒業し、川造船に就職。26歳ですから少し遅れた卒業になります。なぜ川かといえば、どうも見学した時川崎が一番新鮮に写ったからのようです。入社早々労働争議に出会います。ともかく戦前戦後を通してこの川造船(製鉄)というのは争議に縁の深い会社です。当時友愛会という日本で始めての労働者の団体ができ(鈴木文治の項を参照)、室蘭製鉄、川・三菱の両造船所で大争議が持ち上がりました。結果は友愛会側の敗北ですが、会社が無傷というわけには行きません。ただ入社早々のホワイトカラ-である弥太郎には直接の関係はありません。しかし歴史に残る大争議ですから、事情によっては弥太郎の人生に影響を与えたかもしれません。多分彼はかなりの興味をもって、この争議を見ていたと思います。第二次大戦後弥太郎を経営者として有名にさせた理由は、戦後の争議を解決したからです。経営者としての実力を認められたから、千葉製鉄所建設という破天荒な事業をかなり強引に推し進める事が可能になったのでしょう。
入社した弥太郎は葺合(ふきあい)工場の製鋼掛に任命されます。神戸市には以前葺合区という区がありました。葺合区は生田区と合併して現在、中央区になっています。つまり弥太郎は関東から関西の神戸にやってきました。以後人生の大部分を関西で過ごし、彼の名を不朽にする事業では、再び関東の千葉に進出して大仕事をします。弥太郎は製鉄製鋼一本に生きますが、彼が就職した会社の主力は造船業です。徐々に製鉄部門の比重が大きくなり、製鉄所を兵庫、葺合、久慈(岩手県)、西宮、保土(長野県)、知多(愛知県)、千葉、水島(岡山県)と増設拡張してゆきます。入社当時の社長は松方幸次郎、正義の子供で、幸次郎も明治大正の経済界に波乱を呼んだ男の一人です。後に列伝で取り上げようと思っています。
工場の上司は小田切延寿という人でした。鉄鋼製造の事実上の責任者で、海軍の技術将校(大佐)から、川へ転職し、厳しい指導で知られた人です。弥太郎は火で眉を焦がすと言われたほど、現場重視に徹します。小田切の指導です。就職して以後、金融恐慌さらに大恐慌などがあり、3500名の解雇、争議と、会社は青息吐息の経営です。昭和6年満州事変勃発でやっと一息つきます。この間現場ではドイツ人技師ドリ-ゼンの指導下に、作業能率の改善を試みます。作業成果を数値で示すようにして計量化を計ります。その数値に基づき、能率給にします。弥太郎はこの改革の先頭に立ちます。どんな改革も現場の保守勢力には歓迎されません。反発、抵抗そしてとうとう暴力事件が起こります。この事件は基本的には旧来の職人と新勢力である技師との対立です。暴力事件を知った小田切は関係者を全員解雇します。のみならず改革派には警察をつけます。こういう事もありました。そしてこの事件の解決は、後年の大争議に際して弥太郎がとった対処法とよく似ています。
1933年(昭和8年)「塩基性平炉改造の経過とその成績」を雑誌「鉄と鋼」に載せ、服部賞を取ります。この賞は工業技術者の世界では最高の栄誉でした。これで弥太郎は「平炉の西山」の異名をもらうことになります。同年製鋼課長に昇進。1935年当時の社長のめがねにかない洋行し、帰国して技師長に昇進します。この間工場の一部が日本鋼管の一部と合併し、昭和鋼管という会社が生まれます。また会社自体が株主の肩代わり問題で揺れます。川は何度も危機に立ったので自己資本は少なかったようです。株主が変ると経営方針に影響が出ます。この問題は軍部が介入してかたがつきました。国家の大事の時に、株主騒動とは何たる事かと、すでに軍人の時代に入っていました。会社は昭和14年社名を「川重工業株式会社」に変更します。弥太郎は昭和17年に取締役に就任します。会社は軍需工場に指定されます。昭和18年のサイパン陥落により米軍機の本土爆撃が可能になり、日本の大都市、特に東京、名古屋、大阪は徹底的に爆撃されます。川重工業も同様、生産工程の大部分が破壊されました。しかし弥太郎はこのような状況下で、将来の鉄鋼生産の基本的青写真を考えています。それは銑鋼一貫製造工場、つまり溶鉱炉を持つ工場の建設です。川重工業の中の、6つの製鉄工場は統合され弥太郎が製鉄所長になります。
終戦。鋳谷社長以下の役員多数は退陣します。公職追放です。弥太郎は追放か否かのぎりぎりの、立場に置かれひやひやします。幸い追放は免れました。会社は当分社長なし、役員の合議制を取ります。この難しい時期弥太郎は将来の日本の鉄鋼業に関して以下のような構想を語ったと伝えられます。
既存の施設が破壊されたのだから、最新の設備を備える好機
原料を近くに持つ必要は少なくなる
日本の工業は鉄鋼業を基幹産業として復興する
銑鋼一貫過程は鉄鋼業の宿命 そこまで行かなければ意味はない
外地から引き上げてきた技術者の活用
株式売買で成績を上げるのは嫌だ、あくまで製造技術で勝負
この構想は千葉製鉄所建設で実現されます。しかしその前に弥太郎が解決しておかければならない事があります。戦後ほとんどの大企業を襲った争議の嵐です。
昭和23年に大争議が持ち上がります。組合は物価上昇に伴い、賃上げを要求します。製鉄所側は能率給と増産、そして人員整理を提案します。戦後の危機にあって組合は生活防衛を、会社は会社存続をかけて対決します。しかし当時の争議は単なる経済問題ではありません。共産党は会社の乗っ取りや壊滅を要求していました。資本主義の牙城である大企業を、ソ連型の国営ないし共有制にしようとします。ストをうち、生産管理を要求します。戦術は過激になり、暴力的になります。役員がタバコの火を顔に押し付けられるというような事もありました。(東芝での話)弥太郎は断固対決に踏み切ります。部下に「葺合工場をつぶしても良い 責任は俺が持つ」と発破をかけます。共産党の政治優先を嫌う、組合幹部の意向を見抜き、会社側に抱きこみ、管理職にして、対組合交渉の前面に立てます。第二組合を作ります。大学教授を法律顧問に雇います。組合の一部過激派が給食場に乱入したのを、好機として、警察を導入し、関係者を逮捕させ、告訴します。彼らは懲戒免職になります。そして残りの幹部に会社の置かれた実情を話し、結局3000名の解雇に同意させます。こうして川崎重工業製鉄所の争議は会社側の勝利に終わります。弥太郎という男は単なる技術屋ではありません。争議を解決した事で弥太郎の経営者としての名声は上がります。東芝の争議を解決した石阪泰三と同様です。また会社における評価も格段にあがります。西山天皇の異称が与えられました。この間川崎重工業の造船部門と製鉄部門が分離します。製鉄部門の独立は弥太郎の念願でした。1950年(昭和25年)57歳、弥太郎は川崎製鉄株式会社の初代社長に就任します。資本金は5億円でした。前後して日本鉄鋼連盟常任理事になります。5億円の資本で総計270億円の事業が試みられます。それが千葉製鉄所の建設です。
社長就任の昭和25年、銑鋼一貫工場建設計画書を沿え、見返り資金供与の嘆願書を通産省に提出します。川鉄千葉建設の資金計画は、総計273億円、第一期工事費用は114億円、うち増資15億、借入金19億、社債9億、自己資金71億円でした。場所は防府(山口県)にするか千葉にするか、最後の最後まで迷います。結局千葉の日本航空機跡の60万坪(1坪は3・3平米)を買い、加えて前面の海30万坪を埋め立てます。さらに海を掘りぬき突堤を作って港を作ります。水は印旛沼から直接引き、足らないところは井戸を掘ります。技術者には旧満州から引き上げてきた人材を大量に雇用し活用します。
川鉄千葉の建設は早くから弥太郎が胸に抱いていた計画です。なによりも溶鉱炉を持った製鉄所、つまり銑鋼一貫工場の建設を弥太郎は念願していました。彼は戦後日本の工業が飛躍的に発展すると確信していました。「鉄は国家なり」(これは彼の言葉ではありません)の確信のもとに、戦後の鉄需要の増大を見込み、計画を立てました。当時銑鋼一貫工場を持っていたのは、八幡、富士、日本鋼管の三社だけ、他の大手である川鉄、神戸製鋼、住友金属は銑鉄を他から買い、鋼鉄を作る平炉メーカ-でした。これらの三社はすべて関西に本拠を置きます。川鉄千葉の建設は、平炉メーカ-による三社独占への挑戦という意味もあります。しかしなによりも三社独占を崩して、国全体での鉄鋼の大増産を計るのが弥太郎の意図です。技術的には酸素利用とストリップミルの採用が焦点になります。二つの工法はすでに欧米では試みられていましたが、弥太郎はこれの最新式を大規模に採用します。つまり世界で一番進んだ技術を取り入れます。銑鋼一貫製造は製造費用を低下させます。遠くから重い銑鉄を運ぶのにかかる、運搬費がほとんどいらなくなります。そして新工場は簡素化を旨に、移動行程を最小化する方向で進められました。
資金計画を提出された通産省は検討に入ります。通産省としては前向きに臨んだようです。問題は日銀です。お金はここから借りる、あるいは承諾を得るのですから。時の日銀総裁は一万田尚人で法皇といわれていました。一万田はいい顔をしません。「千葉工場にぺんぺん草が生える云々」という事実か伝説か解らない話は、天皇と法皇両者の交渉の過程ででました。結局一万田は折れます。1951年(昭和26年)千葉製鉄所開設。同年世界銀行から2000万ドルの融資を受けます。当時の1弗は360円ですから、日本円に直せば72億円になります。1953年千葉工場所第一高炉火入れが行われます。こうして川製鉄千葉製鉄所は運転を開始します。なお弥太郎はくず鉄の値上がりを予想して、買い込み、約100億円の資金を作ったといわれています。単なる技術屋のできる事ではありません。
弥太郎はもう一つの銑鋼一貫工場を岡山県の水島に作っています。1961年同工場は開設されました。1966年(昭和41年)癌のため死去。享年73歳でした。
参考文献 西山弥太郎伝 鉄鋼新聞社編 非売品 大阪市立図書館蔵
日本産業史(2) 日経出版
(付)川崎製鉄h2002年日本鋼管と合併し、JEEスチ-ル株式会社となる。JEEの現況概観は以下の通り。
売上高 3兆2033億円(連結)
営業利益 4080億円
純利益 3147億円
純資産 1兆1067億円
総資産 3兆6412億円
従業員数 45317名
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