経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝  岩本栄之助(一部付加)

2020-04-23 15:39:47 | Weblog
経済人列伝  岩本栄之助(一部付加)

 11月13日午後7時から大阪中ノ島中央公会堂の大ホ-ルで「愛が降る町」というミュ-ジカルが、劇団SHOW-COMPANYにより公演されます。主演の阪上めい子さんが演じる岩本栄之助は明治大正期にかけて活躍し、北浜の風雲児と呼ばれた、有名な相場師でした。相場師は株(だけとは限りません)の売買で生活する、金融業者でありかなりな程度、賭博師でもありました。先に述べた野村徳七なども同様です。野村は手堅く経営して、賭博性を極力少なくし、現在ガリヴァ-といわれる野村證券の基礎を作りましたが、岩本は相場に失敗して、ピストル自殺をとげます。二人は親友でした。
 栄之助の父、岩本栄蔵は和歌山県下津町鰈川の旧家に生まれ、大阪に出て銭両替を始め、成功します。栄蔵は北浜の聖人と言われたほど人間のできた人で、慎重かつ冷静でした。栄蔵は大阪証券取引所の仲買人になります。仲買人は当時定数60名、三井や住友また鴻池と言われる江戸時代からの名門商人と名を並べたのですから、栄蔵はすでに大阪でも名の通った商人でした。
 栄三郎は明治10年、栄蔵の次男に生まれます。大阪市立商業学校(現在の大阪市立大学商学部)を卒業します。卒業後父親の仕事を手伝っていましたが、日露戦争に陸軍中尉として従軍します。満州方面軍参謀長の児玉源太郎大将の副官として勤務し、戦後除隊しますが、児玉大将から、軍人にならないかと、勧められたそうです。日露戦争の戦闘指導者であり、名将の誉れ高い児玉大将の勧めですから栄之助には軍人としての優れた資質があったのでしょう。確かに彼は軍人、それも野戦軍の指揮官に向いています。決断力に優れ剛腹で義侠心があります。ただ相場師として生き抜くには義侠心だけは余分であったかもしれません。29歳で家督を継ぎます。(兄は夭折)
 栄三郎の生まれた明治10年に、東京と大阪に証券取引所ができました。それから10年ほどして、松方財政が一段落したころから日本は好況を迎えます。多くの官営企業が民間に払い下げられます。併行して鉄道建設が盛んになりました。関西でも、阪堺、大阪、三宮、山陽鉄道などが、造られます。これらはすべて投機の対象になりました。例えば参宮鉄道という鉄道が建設されます。大阪方面から伊勢神宮に出かける人は非常に多いので、この鉄道はドル箱路線です。株が発行されると買う人は多く、うなぎのぼりでした。こういう時株を買い占めてもいいし、適当なところで売りさばいてもいい、いずれにせよ投機は盛んになります。日清戦争で日本は勝ちます。かかった経費が2億3000万円、清国からの賠償金が3億5000万円でした。まるまる1年分の国家予算を儲けたようなものです。この頃から外資導入も始まります。
 岩本栄之助が活躍したのは日露戦争の時です。多くの売り方が売りに出ます。戦争でピ-クに達した株価が、反落するだろうと思い、売りに出ます。もちろん空売りです。一定の時点で買い戻さねばなりません。株価が上がったままでは売り方は大損です。そこで売り方一同が栄之助に泣きつき、大きく売ってくれと頼みます。栄之助は承諾し、資産をすべて売り方に投じます、東京の投機家の売りもあって、株価は大きく下落し、売り方は儲けます。もちろん栄之助も大儲けします。これを当時、義侠の成り行き売り、といったそうです。すでに父親の代で相当の資産を持っていましたから、栄之助のキャピタルゲインは膨大なものになったのでしょう。
 32歳で渡米実業団に属し米国に旅行します。団長は渋沢栄一、栄之助は渋沢とも昵懇になります。同年父親が死去します。この事に関係あるのかも知れませんが、同年栄之助は大阪市に100万円を寄贈します。現在の貨幣価値で計れば50億から100億円になります。大阪市の公会堂はこの寄贈金でできました。
栄之助は一時投機から身を引きます。大阪電燈(現在の関西電力)の常務取締役になります。実直にかたぎの生活を送ります。第一次大戦勃発を機に、再び相場に戻ります。これが彼の命取りになりました。彼は売り方専門でした。空売りは、株価の下落を前提として成り立ちます。栄之助もそうにらみました。大戦で日本はかってない好況になり、株価はどんどん上がります。栄之助はやがて下がると判断します。いつかは下がるのでしょうが、下がりきってからでは商売になりません。また一度下がると途中で売り逃げする事は極めて難しい。それに日露戦争と第一次世界大戦では戦争の性格が違います。後者は総力戦でどちらかが力尽きるまで戦争は継続されます。日露戦争当時の感覚で臨んだ栄之助の思惑はことごとくはずれ(つまり株価が下がらず)、資力尽きて、大正5年10月23日、彼はピストルで自殺します。同年12月株価は崩落します。一説には栄之助はドイツの単独講和という噂を耳にし、株価が下がると読んで売り方に出たとも言われています。死の少し前、栄之助は親友である野村徳七に20万円の借財を申し込み断られています。想像ですが、失敗続きの栄之助に、もうこれ以上貸せないと野村は踏んだのかも知れません。
 株に手を出す者の心得として、絶対に必要な事項が、政治経済情勢をしっかり把握しておく事だそうです。そんな事は誰にもできません。第一次大戦の性格なぞ戦争の当事者でさえも解らなかったのですから。それが解れば苦労はない、誰でも儲けられます。また相場では勘と経験がいるとか。買いのタイミングを把握するのに10年、売りに20年、待ちに30年と言います。30年しないと熟練した相場師になれないのでは、それまでに破産するでしょう。だから相場は所詮命を張った度胸勝負です。またこういう事に命の火を燃やせる人だけが、この世界に生きられるのでしょう。
 もう一人悲劇の相場師を紹介しておきましょう。山一證券社長大田収です。相場に学問は要らない経験と勘だ、という兜町の常識に反し、合理的裏づけと独特の勘で白面のインテリ相場師大田は東電や新興財閥の株を買いまくり、儲けます。山一證券の収益は大きく伸びます。しかし昭和12年南京陥落以後の鐘紡新株の下落と経済統制の浸透により、買い方で敗れ続け、青酸カリを飲んで自殺します。東電も新興財閥も日本の重化学工業が進展する時期の成長産業です。大田はこの時代の波を見通せたのでしょう。そして南京陥落と経済統制は別時代到来の現れです。人は二つの時代には生きられません。少なくとも二つの時代にわたって栄華を味わう事はできません。大田収の仇名は、兜町の飛将軍でした。山一證券は大田に代表されるような投機体質が抜けきれず、とうとう平成不況の時に破産します。
 ではなんで相場師などが存在するのでしょうか?彼らは必要な存在なのでしょうか?結論から言うと、資本主義経済である以上、彼らの存在は絶対に必要です。銀行に預金された金を企業の資本に廻す、たしかに安全ですが、このような間接投資では経済規模は飛躍しません。企業自身が株式を発行し、資金を民間から集めれば、もっと経営規模は拡大できます。実際に金を払い込む必要は必ずしもありません。売った・買った、の約束だけでいいのです。こうして実であれ虚であれ流通貨幣量は激増します。危険ですが、こういう局面は経済にはどうしても必要です。
 そうしてこのような跳ね上がった経済行為が成立するためには、人間の財貨・消費・享楽への欲求、そして一攫千金への嗜好が必要です。心配せずともこのような性向はほとんどの人間は持っています。ただ臆病だから決断できないだけです。こういう時投機家とか相場師と呼ばれる人達は尖兵になってくれます。彼らが危険をも顧みず切り開いた道に沿って、残りの者が調子に乗って、あるいは付和雷同して、あるいはおずおずと、後を追いかけます。こうして投機行為は成り立ちます。直接投資つまり株式市場では熱気が要ります。眼を血走らせて株価を追う人々がいなければ株式市場は成り立ちません。以上のことは私だけの意見ではありません。19世紀を代表する経済学者A・マ-シャルもそう言っています。投機が無ければ、株価はほとんど動かないでしょう。サブプライムロ-ンショックあるいはリ-マンショックでアメリカのウォ-ル街は火が消えたようになり、投機抑制機構の必要性を訴える声がうるさいほど上がりましたが、浜の真砂となんとやら、またぞろ投機への欲求が盛んになり始めています。それでいいのでしょう。所詮経済は不安定をもって是とする、マグマの上の行為なのですから。
 
  参考文献
   大阪の恩人、岩本栄之助   大阪市立図書館所蔵
   日本証券史 巻1 日本経済新聞社

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行

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