経済(学)あれこれ

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天皇ご紹介 一条天皇

2009-04-14 02:37:24 | Weblog
   天皇御紹介  一条天皇

 一条天皇は980年円融天皇の長子として生誕されます。母は藤原兼家娘詮子、御名は懐仁(やすひと)、5歳で立太子、7歳花山天皇退位の後66代の天皇として即位されます。即位に至る事情には非常におもしろいお話がありますが、それは花山天皇のところまでとっておきましょう。一条天皇といってもすぐそのイメ-ジを描ける人は少ないと思います。天智・天武や後白河・後鳥羽、さらに下って後醍醐などの諸帝のように、強烈でくっきりした印象を一条天皇は持たれていません。しかし私はこの天皇が好きなのです。説明は長くややこしくなるので省きます。
一条天皇は日本的帝王の原像のような方と申し上げてもいいのではないでしょうか?2つ例を挙げます。枕草子241段「一条院をぞ今内裏とぞいう」の中で、人気の悪い廷臣を揶揄した文句に、節をつけて笛を吹くべく、女房達にせがまれた天皇が、当の廷臣に聞かれることをはばかる、状景があります。もう一つは紫式部日記の中で描かれる事件です。内裏(後宮)に盗賊が侵入します。女房達を裸にしてその衣服を奪って逃げます。警護の者を呼びましたが、皆眠っているのかだれも来ません。こんな無用心な政府は世界の歴史において他には存在しないでしょう。女房達に囲まれて戯れ、臣下にはそれなりに遠慮し、そしてとことん無警戒な御所の主、それがこの当時の天皇のあり方だったようです。平安時代、薬子の乱から保元の乱までの300年間、少なくとも5位以上の堂上貴族には死刑は判決も執行もされていません。世界の歴史で皆無の特異な現象です。これも日本的王権の特徴でしょう。

 100年下ると状況は変ります。院政という強権的な政府ができます。治天の君といわれる上皇(法皇)は、北面とか武者所などの機関を設置して自分を警護させます。しかし日本の天皇の日常生活は基本的には一条天皇当時のそれをずっと踏襲します。応仁の乱だと思います。武士達が戦をします。双方数万の軍勢でぶっつかります。朝廷公卿は難を避けて川原に逃げますが、武士達は彼らを放置したままでした。江戸時代、ある関白が御所を訪問します。出された昼食が鰯の煮付けにひじきの薫物そして味噌汁でした。関白殿はそれを美味しそうに平らげて帰られたとか。多分天皇ご自身の生活も同様であったのでしょう。御所は土塀一重で囲まれていただけです。それでいて天皇が害されたこともありません。 

  一条天皇の御代は、天皇の周辺を彩る状景が華麗です。清少納言の枕草子と紫式部の源氏物語が代表です。ともに世界に誇る作品であり、日本文学の淵源の一つです。二人はそれぞれ、定子(ていし)彰子(しょうし)という中宮に仕えました。定子は兼家の長男道隆の娘です。天皇が11歳の時入内しやがて中宮(皇后)になります。定子は15歳、姉さん女房です。定子、彼女の父親の道隆(関白)、兄の伊周(これちか)は皆才能豊で衒学的、そしてなによりも猿楽言(さるごうごと、ユ-モアと冗談)の好きな陽気な一族でした。彼らに取り巻かれて天皇は大きくなられます。この雰囲気を天皇はいたく好まれました。天皇ご自身も明るい親しみやすい性格であられたようです。これらの情景は枕草子に詳しく書かれています。

 995年の流行病でこの一族のボス関白道隆が死去します。後継首班(つまり摂関政治主催者の地位)を巡って、伊周と道長が争います。天皇は定子中宮を寵愛しておられました。定子は当然兄の伊周を押します。天皇の生母である詮子は弟の道長の政治的素質を見抜いており、道長に肩入れしました。天皇は生母と正妃に挟まれて迷われますが、結局道長に内覧の権能を与えて首班とします。中関白家(道隆の一族)は没落し、以後道長の、望月の欠けたることのない時代が続きます。負けた伊周は天皇と極めて親しく、天皇にとって漢学の師でもありました。しかし天皇は伊周の若さを見抜いておられ、彼に政権を託する事は危険と判断されました。16歳で天皇は明確な政治的主張をもっておられたわけです。政権争いの後かなりのごたごたが続きます。伊周は大宰府に配流されます。これも臣下としてのけじめを忘れた伊周への当時としては峻烈な懲罰です。一方中宮定子はたまりかねて出家しますが、天皇は定子が忘れられず、出家した定子を宮廷に召して、寵愛を続けられます。当時の女性の出家は髪を肩の高さに短くする程度で丸坊主になるわけではありません。しかしこの行為は当時の風習から言えば規律違反です。

  一条天皇が20歳の時、首班である道長は長女の彰子を入内させます。彰子12歳。天皇は彰子を「雛遊びの后」といわれました。そしてほぼ同時に定子は懐妊し、やがて男児を生みます。天皇にとっては長子である敦康親王です。道長が政権をとってから以後は道長全盛時代のように思われ、帝系は彰子の産んだ子の方に自動的にいったと思われがちですが、実態はそう簡単ではなかったようです。天皇は後見の弱い敦康親王に後を継がせるか否かで迷われます。道長としても彰子の懐妊を待つのみです。もし彰子に男児が生まれなければ道長の政権は脆弱なものになります。1008年天皇28歳の時、彰子は男児を産みます。敦成親王、後の後一条天皇です。3年後32歳で天皇は崩御されます。道長としては危機一髪という思いでしょう。

 一条天皇の外戚として摂関の職についたのは、兼家、長子の道隆、四男道長です。この三人によって摂関政治が完成します。摂関政治とは天皇と皇后及び外舅である皇后の父親の合議により営まれる政治形態です。摂関の地位は藤原氏特に北家の主流が独占します。私はこの政治の意味と藤原氏の役割が解りませんでした。今では近親相姦を避けるための一種の族外婚、権力の分有と合議制の原点を形成した見事な制度だと考えます。政治行為の内容には立ち入りませんが、この摂関政治は一条天皇の時に頂点に達します。摂関政治の特徴はその柔らかさにあります。逆に言えば曖昧なのですが。その点一条天皇と藤原道長のコンビはこの政治形態にぴったりであったようです。天皇の性格については既に述べました。道長は権力意志の強い人でしたが、敵を追い詰めず、相手の気持ちを汲むことに長けた協調的な性格の持ち主でした。この時代は教科書では道長独裁のように言われていますが、一条天皇の意志を道長も無視する事はできません。後継をだれにするかを巡っての両者の駆け引きを見ても解ります。

 一条天皇は好学の帝王でした。天皇が定子を愛した理由の一つが、彼女が持つ漢学の素養です。政治家としてはいまいちでしたが、彼女の兄伊周は当時でも頭抜けた漢学者でした。彰子は入内して、密かに漢学の講義を紫式部から受けます。好学の天皇に気にいられるためには、どうしても漢学の素養が必要でした。当時女性は漢学(男の学問)をたしなむ事は不吉とされていました。そこで式部について密かに史記や文選の勉強をしたわけです。紫式部は漢学者の家の出身です。道長が彼女を彰子の家庭教師のような形で女房奉公をさせたのも、兄の中関白家とくにライヴァルの定子を念頭においての行為でしょう。

 一条天皇が源氏物語の草稿を読まれて、作者式部は日本書紀はじめ内外の歴史について詳しいといわれたことがあります。「源氏」を一読してこう言われるのは天皇の史書への傾倒もなかなかのものであった事を語ります。おかげで式部は同僚の女房達から「日本紀の局」とあだ名をつけられ、うんざりします。天皇は宮中で作文会(さくもんえ)を催されました。詩文作成は貴族男性の必須の教養です。天皇は文化の外護者でもありました。また天皇は笛を愛好され、以後管弦において天皇が持つ楽器は笛、とされたと言います。天皇の御代は人材の輩出した時代でもありました。政治家としては道長、そして文学ではもちろん清少納言と紫式部。他に二人だけ名を挙げておきましょう。藤原行成(こうぜい)、能書家であり世尊寺流の書道の始祖ですが、平安時代きっての能吏でもあります。もう一人は、万能の秀才藤原公任(きんとう)でしょう。

 一条天皇に関する説話・逸話を二つ。紫式部の父藤原為時は花山事件に巻き込まれ長い逼塞の時期を送ります。天皇に窮状を訴える詩(当時詩といえば漢詩です)を作って訴え、越前守の地位を得たという話です。天皇は寒い夜には直垂(ひたたれ)を脱がれていたとか。中宮彰子が理由を尋ねると、日本国の人民が寒いのに、自分だけ暖かくはしておられないとの、返事でした。あくまで伝聞・逸話です。この種の話はよくありますが、天皇がこの説話の主人公とされる事は、一条天皇の性格を物語ります。
 
 一条天皇 第66代 980-1011、在位986-1011


典拠 「一条天皇」吉川弘文館、「枕草子」、「歴代天皇総覧」中央公論社、他

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