経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

皇室の歴史(25)

2020-04-24 13:38:22 | Weblog
 皇室の歴史(25)
 1586年正親町天皇の嫡孫である周仁親王が即位します。後陽成天皇です。在位期間は豊臣秀吉の時代と徳川家康の時代と半々になります。秀吉は関白太政大臣になります。なぜ征夷大将軍にならなかったのかについては諸説あります。とまれ秀吉は関白になり(後辞職して太閤)群臣を率いて、臣下代表として天皇に仕える態度を取りました。それで武家の官位を引き上げました。徳川家康は内大臣、前田利家は大納言、石田三成は治部少輔など、秀吉との関係や実力(単純には石高)により官職が与えられます。秀吉は王朝の官位制度の中に自己の家臣団を取り込みました。秀吉は全国の制覇戦でほぼ勝手に「天皇の意志あるいは代理」という形で自己の戦闘を正当化します。天皇と秀吉の関係を一番明白に物語るものが、1588年の聚楽第行幸です。後陽成天皇をして聚楽第に行幸してもらい、ここで諸大名は秀吉にではなく天皇に起請文(当然忠誠を誓う)を捧げます。これが秀吉と天皇との関係の基軸です。だから両者の関係は比較的円滑でした。やがて秀吉は明王朝征服に乗り出します。征服後朝廷を明国の土地に移す計画を企てます。秀吉の大陸侵攻は特に部下の将士の厭戦気分により失敗します。
 徳川家康は将軍職に就きました。なぜ成れたのか(逆に言えばなぜ秀吉はなぜ将軍になれなかったのか)理由は解りません。ただ家康が昇位してゆく過程を見ると極めて慎重です。家康が皇室に為した最大の統御は1615年豊臣氏滅亡とほぼ同時に発布された「禁中並びに公卿諸法度」です。この法律によると、天皇及び公卿は政治的な事柄には一切容喙せず、ただひたすらに学問や古典的芸術に専念せよということでした。後水尾天皇は家康に豊臣秀頼との和解を勧めましたが家康は拒否します。それ以前に朝廷では女官の不貞事件が起こっています。死刑一名流罪数名でした。
 二代将軍秀忠になると天皇苛めは亢進します。秀忠は自分の娘和子を強引に天皇の室に入れます、のみならず天皇が他の女性との間にできた子供は京都所司代によりすべて流されたとも言われています。更に紫衣事件が発生します。紫衣とは天皇が特定の宗派の僧侶に対して下す名誉の報奨で、それは紫衣を着る特権でした。いわば天皇の聖職叙任権の一端です。幕府はこの紫衣授与の手続きに疑問ありということで介入します。
 後水尾天皇は天皇と武家の間で起こった最後の葛藤でした。天皇は頭にきて幕府に無断で退位し、和子所生の内親王に譲位します。明正天皇です。以下皇統は後水尾天皇の子供たちに順次継承されてゆきます。後光明天皇、後西天皇、零元天皇です。
 後水尾天皇は在位時代には苦労が多かったのですが、上皇になってからの人生は豊かなものでした。84歳まで長命し、この間上皇を中心に寛永文化が栄えました。町衆と朝廷を楕円の焦点とする独自の文化です。茶道の小堀遠州、華道の池坊専好、俳諧の松永貞徳、儒者の林羅山、禅の沢庵宗彭、特に造形美術の本阿弥光悦や俵家宗達の作品は有名です。余談ですが、天皇に嫁いだ和子は晩年一種の買物依存症のような状態に陥り、着物道楽で(必ずしも実用ではないのですが)年間二万貫から三万貫の銀を使ったと言われています。銀一貫目は金二十両、当時は一両で米三石は買えます。三万貫として米に換算すると180万石、五公五民として石高で360万石になります。当時そんな規模の大名はいません。ともかく膨大な消費です。光悦の作品はこのようなパトロンを背景として作られました。後水尾上皇は修学院離宮に住み、この文化の中心的存在になりました。修学院離宮は天皇の叔父である八宮智仁親王が造った桂離宮とともにこの時代を代表しています。少し時代はずれるかもしれませんが、伊藤仁斎の学問もこの京都文化に属するでしょう。仁斎は古文辞学を創始し、経典の文献学的考証に勤め儒学に新たな領域を開いた人です。
 零元天皇の皇子が即位して東山天皇となります。その子供が中御門天皇です。この二人の在位期間は五代将軍綱吉の執政期に当たります。綱吉の代になると幕府の朝廷への態度は変わってきます。三代家光の時まで家康を祭る日光東照宮への将軍参拝は続けられてきました。綱吉の代には参拝は廃止されます。代わりに伊勢神宮へ奉幣使が送られます。東山天皇の時、それまで絶えていた大嘗祭も復活します。綱吉のころ幕府は財政難に陥っていました。朝廷への態度も軟化します。綱吉は学問を大事にした人でした。だから朝廷に親近感を持てたのでしょう。学問(それは当時と言えば儒学なかんずく朱子学でした)は大義名分を重要視します。水戸光圀が「大日本史」を書いたのもこのころでした。水戸家はその本を朝廷に献上します。かえって迷惑がられたと聞きます。なぜなら光圀は「ああ忠臣楠氏の墓」の碑で知られるように南朝を正統化しました。当時の天皇は北朝の子孫でした。光圀たちによって創始された水戸学は隠然として幕府批判の根拠になり、幕末における討幕運動の起爆剤になります。綱吉は通常「犬公方」などと言われ良い評価はされていませんが、実際の彼の政治は画期的なだから見事なものでした。
 徳川第7代将軍家継は幼童でした。側近の新井白石は家綱に零元天皇の皇女八十宮内親王の降嫁を朝廷に請います。家綱が夭折したのでこの案は立ち消えになりました。もっとすごいお話があります。綱吉が将軍に就任する前、第4代家綱の死後大老の酒井忠清により将軍職を親王に継いでもらおうという話が策せられました。この話が虚か実かは判明されませんが、徳川四天王の筆頭酒井家が以後政権の中枢から遠ざけられた事は事実です。白石は東山天皇の皇子直仁親王をして別家閑院宮家を創設しました。閑院宮家は現在の皇室の先祖です。白石という人は皇室に対して正反両価的な対応をしています。徳川将軍を国王として日本を代表する、とした理屈を描いたのは白石です。事実白石が仕えた第6代家宣は朝鮮に対し「日本国王」の称号を用いています。日本を代表する者は天皇か将軍かは幕末西欧人が来航した時彼らにも判然とせず困ったようです。結果として将軍は「大君」と呼ばれました。
 第8代将軍吉宗も財政難の中桜町天皇即位時の大嘗祭の挙行には協力的でした。また伊勢神宮以下、賀茂、松尾、平野、岩清水、春日、宇佐八幡などへ奉幣使が派遣されます。民間でも朝廷を正式政権とする意見も出てきます。本居宣長の「秘本たまくしげ」、藤田幽谷の「正命論」、中井竹山の「草茅危言」などです。江戸時代後半からは伊勢神宮へのお陰参りが盛んに行われました。松平定信は大政委任論を唱え始めます。この言説は、政治は幕府が行う、とも取れますが同時に、政治は本来天皇に帰属するものだ、とも取れます。幕末1846年朝廷は幕府に対し、国防を厳にして国威を傷つけないように、と釘を刺します。これは幕府の外交権独占への兆戦です。18世紀末あたりから異国船(特に英米露)が日本の周辺に度々現れていました。
 一方幕府は朝廷が政治に関して発言する事には極力弾圧で臨みました。桃園天皇の時、竹内式部が公卿のグル-プに、政治の主体は天皇にある、と説きます。多数の公卿達が同調します。幕府は弾圧に乗り出し1759年式部を流罪に処します。ほぼ同じころ山形大弐が現れ王政復古を呼号します。大弐は処刑されました。幕府は天皇の外出をほぼ禁止しました。天皇は御所から外には出られません。つまり一般人士にとって天皇はタブ-でした。それほど幕府は天皇の存在を恐れました。
 皇統は零元天皇以後嫡系で東山天皇、中土御門天皇、桜町天皇、桃園天皇、と受け継がれ後嗣幼少のため中継ぎで女性の後桜町天皇が即位し、後桃園天皇が12歳に達した時弟の後桃園天皇に譲位します。しかし後桃園天皇には後嗣なく、五代遡って東山天皇の孫典仁親王の子供兼仁親王を建て光格天皇とします。ここで尊号事件が持ち上がります。光格天皇は父親の典仁親王に太政天皇の尊号を送ろうとします。公卿諸法度によれば親王は摂関大臣より下位に位置づけられており、光格天皇はそれを不幸不憫と思いました。反対したのが幕府の実権者である松平定信です。定信の断固としたそして柔軟な対応でこの事はなくなります。このような事は後花園天皇の時にも起こっています。傍系の皇子が即位するとよくこんな事が起こります。光格天皇の後継は皇子である仁孝天皇が継ぎます。この天皇は旧来の朝廷儀式を再興し、それまで途絶えていた諡号を復興し父親には光格天皇を追号しました。また学問に熱心で、公卿の子弟を教育すべく、御所内に学問所を作りました。これが現在の学習院の起りです。1846年仁孝天皇の第四皇子が即位し孝明天皇となります。在位は1866年まで続きます。周知のようにこの時代は幕末動乱の時代です
 天皇の私生活は比較的よく解っています。1500年頃から宮中の女官により日記が書き続けられました。「お湯殿日記」といいます。ここで内容を紹介する必要はないでしょう。ただ食事にだけは触れておきます。公式の行事は豪華なものでしたが、日常は質素でした。ある日関白が参内して昼食を馳走された時のメニュ-は魚一品(鰯かその類の魚)、豆腐そして刻み昆布でした。原則として天皇の食事も同様なもので一汁二菜か三菜でした。このメニュ-は当時の庶民の暮らしとほぼ同様です。幕末日本人の平均摂取カロリ-は1700カロリ-、たんぱく質は70グラムですから、米麦と鰯と豆で補えます。日本の君主は、天皇も将軍も日常生活では贅沢はしません。
 また江戸時代に入ってからかそれ以前からか天皇には皇后つまり正妃はなくなりました。性生活はすべてお局相手です。一夫多妾でした。天皇は結構性生活を楽しんでいたようです。皇后が復活したのは明治天皇からです。
1853年アメリカのペリ-大佐が4隻の軍艦を率いて来航し日本に開国を迫ります。翌年ペリ-は再び来航し「日米和親条約」を日本に結ばせます。後、駐日公使としてハリスが来日し「日米通商条約」を結ばせます。こうして開港と外国との通商が行われるようになります。この過程で幕府主席老中阿部正弘は幕府一存では可否を決定できず、意見を全国の大名・武士に求めます。意見は圧倒的に攘夷でした。攘夷の可否正誤はともかく、全国の武士たちは自分の意見をどんどん述べ始めます。武士つまり藩士のみならず浪人・豪農・有力農民たちも積極的に政治的意見を述べ、のみならず政治に積極的に参加し始めます。こうして今まで意見を封じられてきた天皇朝廷の政治的価値は急上昇します。幕府は事態に独自では対応できません。世論は激高します。追い詰められた幕府は、開国の可否を朝廷に相談します、というより開国を認めてもらおうとします。孝明天皇は大の異人嫌いでした。もう本能的と言ってもいいほどの攘夷主義者でした。開港は朝廷によって拒否されます。違勅を無視して開国を強行した井伊直弼は水戸浪士により桜田門外で襲撃され殺されます。
 困った幕府は1866年、孝明天皇の異母妹和宮親子(ちかこ)内親王を第14代将軍徳川家茂に降嫁してもらいます。和宮と家茂はほぼ同年配です。朝廷でこの案を主導したのは岩倉具視です。幕府も朝廷のかなりの部分も公武合体により開国を承認してもらおうとしました。なお天皇の皇女内親王が臣下に降嫁するのはこの家茂将軍が初めてです。幕府はそれほど危機に立ち至っていました。典型的な政略結婚ですが、和宮家茂の仲はよく、和宮は家茂の死後そして維新後京都に帰り1877年死去します。
 当時の政界指導者(特に幕府側)は、開国はやむを得ないと思っていました。しかし在野の処士いわゆる草莽の処士たちは収まりません。彼らは開国派の指導者を暗殺したり、朝廷に入り込み公卿を洗脳し扇動します。諸藩内部でも下級家臣たちが台頭し主導権を握ります。情緒的には当然攘夷です。そういう過激な連中の代表が眞木和泉であり、武市半平太であり、久坂玄瑞です。特に長州ではこの過激派が有力でした。こうして禁門の変が起こります。長州による幕府派への攻撃です。しかし彼らも外国との戦で戦力の差を知り、開国に転向します。こうして日本の政治勢力は薩長の西郷木戸と最後の将軍職に就いた徳川慶喜によって代表される事になります。慶喜は開国派であり(西郷木戸も本音は開国です)公武合体派です。慶喜は先手を打って大政奉還します。政治権力を一応天皇に返し、その下で公卿大名による合議制を執り自分はその代表(現在で言えば大統領か)になろうとします。西郷は謀略で慶喜を(というより指揮下の軍勢を)挑発し戦闘に持ち込み勝利して維新回転を為しとげます。この間肝心の孝明天皇の動向は如何と言えば、天皇はあくまで攘夷そして幕府支持なのです。宮中深く入れば入るほど現状認識は薄くなり、天皇の動向は一部の分子(特に女官)により動かされやすくなります。慶喜が一番苦労したのは兵庫港(現在の神戸)の開港でした。横須賀や函館新潟ならいざ知らず、京都にすぐ近い畿内兵庫港の開港には孝明天皇は絶対反対でした。というより生理的嫌悪感です。薩長にすれば幕府支持は困るし、またいずれ開国通商をしないといけません。1866年末孝明天皇は突然死去します。すぐ孝明天皇の皇子祐宮親王(さちのみや)が即位します。15歳です。以後薩長と幕府の対立は進み1867年鳥羽伏見の戦で決着がつけられます。孝明天皇の死は謎です。病気らしい病気は見当たりません。享年は35歳、当時としても男盛りです。毒薬による殺害の疑念は捨て切れません。ともかく攘夷佐幕の天皇の死は西郷や岩倉にとっては歓迎されるべきことでした。

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