経済(学)あれこれ

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経済人列伝  五代友厚

2021-04-15 20:09:17 | Weblog
経済人列伝  五代友厚

 大阪商工会議所の正面に友厚の銅像が立っています。友厚は大阪では恩人と言われ、五代さん、五代さんと、呼ばれ親しまれています。なぜかはこの列伝を読んで考えて下さい。五代友厚は1835年(天保元年)に薩摩藩士として鹿児島に生まれました。禄は480石、上士の家柄です。父親は藩主の侍講をするほどの学者肌の剛直な人、友厚は次男で、幼名は徳助または才助と言います。藩校造士館を出て、郡奉行書役などを務めます。
ペリ-来航そして1857年(安政4年)幕府は長崎に海軍伝習所を作り、海軍士官の養成を始めます。幕臣のみならず、諸藩の藩士も受け入れられました。各藩は選りすぐりのエリ-トを送ります。薩摩藩は積極的に応じ、計16名の伝習生を長崎に派遣します。友厚はその中の一人です。幕臣の中には勝麟太郎(海舟)もいました。海軍ですから、船を動かさなくてはなりません。勢いそこで学習する内容は自然科学になります。友厚は当時としては最高の科学教育を受けたことになります。3年後帰藩。再度長崎に遊学します。また艦船や武器の買付けなどの商務で、度々長崎に行くこともあります。この間英語を習得しています。
1862年(文久2年)幕府が通商のために、上海に汽船千歳丸を派遣した時、友厚は水夫として、同乗します。幕臣ではないので、正式の乗務員にはなれません。
1863年、生麦事件の交渉がこじれて、薩摩藩はイギリスの艦隊と砲戦を交えます。友厚は乗っていた三隻の薩摩藩軍艦とともに、捕虜になります。どうも彼は同僚の松木弘安とともに、和平交渉をしようとしたようです。イギリスの捕虜になった事は、薩摩藩全体の疑いを招き、友厚はしばらく横浜から長崎へと転々とします。亡命生活です。長崎のグラバ-を介して、薩摩藩と交渉し、疑いを解きます。薩英戦争でイギリスの実力を身にしみて感じていたので、藩は友厚の説明を受け入れます。
1865年(慶応2年)友厚は藩主に藩政改革の上申書を提出し、同年19名の留学生を引率して欧州に行きます。ベルギ-のモンブランと、薩摩とベルギ-共同で商社を作ろう、という計画を立てています。こうして友厚は、着々と外国体験を積み重ねてゆきます。  
薩摩藩は日本で始めての紡績工場を作りました。友厚はこの計画の責任者の一人でした。工場は後、堺に移されます。また長州藩と共同で、商社を作る計画も友厚は持っていました。実現はしていませんが。更に薩摩藩は長崎の小菅に修船所を作ります。責任者は友厚です。修船所は後に明治政府に買い上げられ、長崎製鉄所になり、更に岩崎家に払い下げられて、三菱造船になりました。
1967年明治政府が誕生すると、友厚は薩摩藩からの徴仕として、政府に出仕します。外国事務掛判事に任じられ、外国兵と日本人の衝突で持ち上がった、神戸事件や堺事件を扱います。外国体験があり、英語が理解できることが、彼の資産になりました。こうして友厚は政治経済界のエリ-トとの人脈を広げてゆきます。友厚の主な仕事の場は大阪でした。川口運上所、現代でいえば税関みたいなものですが、外国官判事として運上所の総責任者になります。外国商人が、日本人が国際交易になれないのを利用して、不正を働く事に、友厚は厳しく対処します。外国人から抗議の声が上がっても容赦しません。外国人が日本国内に無線の設置を申請します。友厚はそれを拒否します。また外国が神戸・大阪・京都間の鉄道施設権を求めます。これも拒否。外資にインフラさせれば手早いのですが、友厚はこのような試みを斥けます。日本は外国資本の国内参入を極力制限しましたが、この方針は友厚が主導したのかも知れません。時期的には一致します。外国人のセックス処理用に、松島遊郭を作ったのも友厚です。大阪造幣寮の設立にも采配を振るいます。
明治2年会計官判事に転任させられ、横浜に行きます。外国人の反五代感情のせいかもしれません。2ヵ月後退官し、大阪で民間人として事業を開始します。大阪にもどった理由の一つが、大阪人が友厚に大阪にいて欲しい、と強く懇願したことです。明治初期の大阪は衰退していました。理由は沢山あります。幕末維新の争乱と変革で、それまで日本経済に閉めていた、大阪の安定した地位が揺らぎます。官軍の資金の足らないところは大阪の商人への御用金負荷で補われます。300万両、徳川幕府の年間予算を超える額です。更に新政府の方針で一時期形式的に金本位制になり、大阪や西国の公用貨幣である銀使用が禁止されます。少なくとも本位貨幣としては認められない時期がありました。各藩が大阪に出していた蔵屋敷はみな無くなります。天下の台所として、全国の富の大半を集めていた大阪に財貨が集まらなくなります。また旧幕時代に幅を利かせていた株仲間が解散させられ、商業行為の統制がつかなくなります。
友厚は大阪でまず、金銀分析所を作りました。当時の貨幣の金銀含有度はさまざまで、鑑定して使用しなければなりません。外国からは抗議がきます。友厚は、各種の貨幣の内容を分析して、金銀含有度を測り、証明書をつけて、政府に納めます。本来なら政府がする事を、彼が代理でしているようなものです。全国の貨幣ですから量は膨大、手数料(プラスα)で稼ぎます。金銀の分析で友厚は、資本を蓄積しました。
新聞発行もしました。出版事業もします。特に薩摩辞書と呼ばれる、英和辞典は有名で、英語の学習に役立ちました。
友厚は鉱山開発にも乗り出します。彼が関係した鉱山は以下のようなものです。天和銅山(奈良県)、蓬谷鉛山(滋賀)、半田銀山(福島)、鹿籠金山(鹿児島)、神崎銅山(大分)などです。私はこの鉱山の名前を一つも知りません。地下資源は掘りつくせばなくなりますが、出るところには出るもんだなあ、と思います。その内日本のどこかで、石油や金銀あるいはレアメタルが、どっさり出るかも知れませんよ。
製藍業もします。日本の伝統的な製造法では外国産の藍に負けます。友厚は新しい方法を外国から将来し、藍製造法を改めます。製藍の工場を大阪市内に作り、朝陽館と名づけました。化学工業の走りというところでしょうか?
明治8年友厚は、西郷下野後、大久保利通が木戸孝允を政権内に取り込もうとして催された,大阪会議の仲介をします。この時大久保が木戸に提示した内容には、国会開催、司法と行政の分離、政策提言とその履行は機関を別々にする事など、将来にとって重要な案件が盛り込まれています。木戸が要求するのは、政治の民主化というところでしょうか?
1978年(明治11年)東京と前後して大阪に商法会議所が設立されます。東京の提唱者は渋沢栄一、大阪が友厚です。この商法会議所は、国会の代りにできた節があります。政府は外国特にイギリスに不平等条約の改正を提案しました。日本人はすべてそう思っている、と政府が言うと、イギリス公使パ-クスは、日本には民意を代表する機関がないと言って、提案を斥けました。これが商法会議所設置のきっかけです。ですから東京商法会議所は多分に政府主導で作られました。ちなみにこのパ-クスという男は、幕末維新の歴史には必ず登場する人物です。彼を除いてこの時期の日本史は語れません。それほど大きな影響力を持っていました。しかし傲慢で、切れやすく、日本人いや一般に非白色人種を見下し、すぐ怒鳴る男でした。外務の首班だった伊達宗城は、幕末の名君の一人でしたが、パークスの暴言に耐え切れず、外務卿を辞任しています。代って外務の前面に出てきたのが、大隈重信です。
商法会議所の設置に対して、大阪では民間主導になります。大阪は商人の町です。先に述べましたが、新政府により強権的に株仲間が解散させられたために、商行為上の規律が乱れます。これは事業を営む上では致命的な欠陥になります。そこで友厚は、株仲間に代る商業仲間という、同業者団体の形成を促進し、この諸団体の上部機構として商法会議所を作りました。そして初代会頭に収まります。会頭として、政府に提言します。不況対策、そして手形取引の再興と江越鉄道開設です。どういうわけか、新政府になって手形取引は禁止されていたようです。考えられないことですが。これでは商行為に大いに差し支えます。貨幣量を何分の一かに縮小するようなものです。江越鉄道とは、滋賀県長浜と福井県敦賀を結ぶ路線です。江戸時代に大阪は西回り航路を介して、日本海側との交易を厚くして繁栄してきました。新時代にあってこれに代るものが、江越鉄道です。
東京でも大阪でも、商法会議所が設置されるのに併行して、商法や商業の教育機関が作られます。商法講習所と言います。大阪商法講習所は、大阪高等商業学校、大阪商科大学をへて現在の大阪市立大学になります。東京でも同様のコ-スをたどり一橋大学になりました。
友厚の尽力で大阪堂島商会所ができます。江戸時代に盛んだった堂島の米の取引はどうも禁止されていたようです。投機は好もしい事とは思われていません。しかし流通から投機という要因を抜き去りますと、流通は成り立ちません。投機家・相場師という向こう見ずな連中によって開拓された、安全な場で相場つまり価格が決まります。19世紀イギリスの有名な経済学者マ-シャルはそう言っています。私もそう思います。友厚自身相場に乗り出します。それは米の買いが入り、米価が高騰したのを下げるためでした。住友の広瀬宰平と組みます。
明治7年友厚は、鴻池善右衛門、三井元之助、住友吉左衛門、山口吉郎兵衛、井口新三郎と共に、発起人となり、大阪株式取引所の開設請願を政府に行います。資本金総計20万円、株式総数2000株、発起人たちは一人150株所有しました。ただ当時としては大した産業がありませんので、まあ金録公債とか、せいぜい鉄道株くらいが関の山だったのではないでしょうか。株式取引所の活動は、松方デフレが終わった明治20年ごろから、生き残った企業が成長し始めるのに併行して、盛んになります。
友厚の創設した会社の一つに大阪製銅株式会社があります。製銅とは銅を精錬することではなく、銅製の部品を作る事です。当時日本は銅の輸出国でした。しかし銅製品は逆に輸入します。輸入を減らし、外貨を節約する為に友厚はこの会社を立ち上げます。大阪製銅KKは後に住友伸銅所に吸収されて、現在の住友金属工業の一部になっています。
明治11年に、藤田伝三郎の贋金事件が起こります。なんら証拠はなく、冤罪でした。友厚は伝三郎擁護の論陣をはります。
 1882年(明治15年)、三菱商会の海運独占に対して、共同運輸という会社が作られます。両社は激しい競争を繰り広げます。共倒れを恐れて、両社は和解し、合併して郵船が作られます。この時の仲介役の一人が友厚です。大阪商船の成立にも彼は深く関与しています。
 大阪で始めて作られた私鉄は大阪難波新地と堺を結ぶ阪堺電車です。友厚はこの鉄道設置に尽力しています。阪堺電車は後に南海電車に吸収されます。現在でも大阪えびす町から堺の浜寺まで、ちんちん電車の風貌で走り、昔の面影を想像させてくれます。
 他に友厚は、東京馬車鉄道、神戸桟橋会社の創設に大きく貢献しています。
1885年(明治18年)死去、享年51歳、早すぎる死去ではあります。東京で死去しましたが、松方正義の提案で、骨は大阪に帰り、大阪の地に埋葬されました。
五代友厚の事跡を振り返って見ますと次のような特徴に気付かされます。彼は当時としては最高の科学技術の教育を受ける機会に恵まれました。そして当時の指導者にとってほぼ必須の体験だった洋行も経験しています。この二つは明治初期エリ-トである事の必要条件です。
友厚は工業を重視しました。金銀分析所、製藍、製銅、鉱山発掘などは鉱工業です。まず既存貨幣の中の金銀を分析して整理した後は、未だ世に出ないで地に埋もれている金属を発掘しようとします。実業を重要視しました。彼の事跡には銀行経営はありません。やろうと思えばやれたはずです。海軍伝習所で理系の教育を受けた事も影響しているのでしょう。教育歴の意義は争えません。
反面友厚は、流通機構の意義、を知っていました。家禄480石、という殿様と呼ばれてもいい上級武士の出身ではありますが、町人の世界を理解できました。手形取引と米相場の復興などはその最たるものです。手形は貨幣ですが、案外にこの事実を理解できる人は少ないのです。少なくとも手形取引を実際に経験しないと解らないでしょう。明治初期に大阪で、手形と米相場が禁止されていたとは。政府の責任者はすべて武士か大名公卿です。手形など詐欺の一種とでも考えて、禁止したのかもしれません。
友厚の事業には、モデル提示という意味も濃厚にあります。大阪伸銅、朝陽社、阪堺鉄道などが良き例です。
友厚は大阪経済界の周旋役でもありました。大阪は商人の町です。実践には強いが、全体を俯瞰する能力には欠けがちです。東京は首都となり、多くの高級官吏がそこに集まっています。上から指導してくれる機構には事欠きません。大阪には友厚のような、知的指導者が必要でした。商法会議所、株式取引所、堂島商会所、商法講義所の創設などがあります。
同時に彼には官と民の間の仲介役も充分に果す能力がありました。彼自身、薩摩閥の一員であり、伝習所・商務・洋行・官歴などの体験で多くのエリ-トとつながりがあります。彼30歳の時、後輩を連れて欧州に行きます。これらの後輩はすべて明治政府のエリ-トになります。また友厚は政府首脳部とも密接な関係にありました。大隈・松方という明治の経済を主導した人物のみならず、伊藤博文、黒田清隆、井上馨達とも昵懇でした。首都から遠く離れた大阪では、政府に顔の効く人物が必要でした。その意味では彼は政商ですが、その臭いは濃厚ではありません。
友厚には志士的気概がありました。だから大阪人の懇願に身を委ねます。彼ほどの人物なら、大臣を超えて総理になることも可能でした。もっとも長生きしての話しですが。その地位を捨てて民間人になります。米相場を張るのも、貧乏な人に高い米は買わされない、と思ったからです。
西の五代に東の渋沢、と言ってもいいでしょう。事跡は似ています。渋沢栄一は武蔵の豪農の家に生まれ、勤皇運動に邁進して京都に出奔した経歴を持ちます。友厚と似て、渋沢の基本的立場は、自身が企業を立ち上げるより、企業家の援助・指導そして周旋にあります。渋沢が作った企業といえば、第一銀行のみ、それも現在では、瑞穂銀行の一部でしかありません。友厚が長命であれば、渋沢のように多彩な仕事ができたでしょう。日本の経済は、明治20年代初期から成長速度を速め、日清・日露両戦争で加速され、第一次大戦を経て、列強に並ぶ地位を獲得します。渋沢はこれらの経過すべてを見て、1931年(昭和6年)92歳で死去します。彼は友厚より5年遅れて生まれ、41年長命でした。友厚と比し、渋沢は半世紀以上も世の転変を見ることができました。転変は日本の経済が発展する過程です。友厚の短命が惜しまれます。

参考文献  五代友厚伝  有斐閣

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行


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