経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝、久原房之助

2010-07-28 03:00:20 | Weblog
      久原房之助

 久原房之助が創始した久原鉱業所と言っても現在知る人はほとんどないと思います。しかし日産自動車、日立製作所、ジャパンエナ-ジ-は現在の日本を代表する企業です。房之助はこれらの会社を創立したというより、その基礎を作りました。同時に彼は明治末から大正時代にかけて出現した、富豪・成金の代表でもあります。もっとも彼を成金呼ばわりするのは少し酷かな。が、鉱山開発で巨万の富を作り、それを公私両面にわたって蕩尽したことは事実です。一時期彼の資産は2億5000万円とも言われました。「久原」は「くはら」と読みます。
 久原家は長州(山口県北部)の須崎で庄屋を務め、益田藩の財政にも関与し、苗字帯刀を許された御用商人でした。益田氏は長州毛利藩の家老で12000石を給され、その支配地は自治を許されていました。ここでは便宜上益田藩と呼びますが、幕府法制上正式な呼称ではありません。1956年(文久2年)久原家当主半平は暗殺されます。益田家の仕業です。さらに米買占の悪評を立てられ、藩民から白眼視されます。半平の養子である庄三郎はすぐ、須崎を捨てて萩に移り、そこで商売を始めます。房之助は萩で1969年(明治2年)に生まれました。庄三郎の商売はなかなかうまく行きません。庄三郎の実家である藤田家の三男伝三郎はすでに大阪に出て事業を始めていました。藤田伝三郎についてはすでに述べました。1874年(明治7年)久原庄三郎は弟の伝三郎を頼り大阪に出ます。同年藤田三兄弟、藤田鹿太郎、久原庄三郎、藤田伝三郎が、藤田組を立ち上げます。一応兄弟会社になっていますが、実権者は末弟の伝三郎です。伝三郎達は長州閥の人脈をたどり、大阪鎮台の司令官山田顕義から軍靴製造を委託されます。これが藤田組成功の第一歩です。すぐ勃発した西南戦争では軍靴製造に加えて、人夫の手配と輸送を請負、組(総合会社くらいに考えて下さい)発展の基礎を築きます。西南戦争では、運輸は岩崎弥太郎、人夫手配は西の藤田に、東の大倉が引き受けています。岩崎、藤田、大倉とも以後富豪・財閥として栄えますが、発展の基礎は、西郷隆盛がおっぱじめた西南戦争がきっかけです。西南戦争では莫大な戦費が投入され、政府は紙幣を乱発します。インフレになります。こういう時は早く金を借りた方の勝ちです。借金して事業をし、儲けたら、下がった価値の紙幣で払う、二重三重の儲けになります。1881年(明治14年)藤田組は資本金6万円、内藤田伝三郎3万円、藤田鹿太郎と久原庄三郎各15000円の持分で同族会社を正式に作りました。
 1879年(明治12年)萩に残されていた房之助母子達は大阪に移住します。同年藤田組最大の事件(災禍)が起こります。当主の伝三郎に紙幣贋造の疑いがかかり、多くの幹部が逮捕され、厳しい取調べを受けます。結果は無実でしたが、これは西南戦争で長州閥に遅れをとった薩摩閥の陰謀のようです。藤田伝三郎が懇意にしていた井上馨追い落としが意図されました。この井上馨という人は、明治経済界のどこにでも顔を出す人で、裏工作の専門家であり、経済界の重鎮でした。また常に汚職・賂の噂が絶えません。海音寺潮五郎氏の「悪人列伝」に出てくるそうです。しかし彼井上馨が明治経済界に残した功績は、彼の悪徳を差し引いても充分おつりがくるでしょう。なおこの贋金事件は無実でしたが、大阪市民はずっと、それが事実であったと信じ続けました。伝三郎も一切弁明していません。どことなく不思議な事件です。
 房之助は1880年、12歳で東京商法講義所に入学します。この商法講義所は後に、東京商業学校、東京高等商業学校、そして現在の一橋大学になります。3年後卒業、実務に早く就く事を希望する父親庄三郎に嘆願し、福沢諭吉に憧れて慶応義塾に入ります。3年後卒業、房之助は森村市左衛門の作った森村組に押しかけ就職をします。始め森村は房之助のような金持の子弟は使い物にならないと、就職依頼を拒絶します。房之助は強引に嘆願して、神戸支店倉庫係に採用されます。彼の勤務振り、特にその仕事処理の独創性を支店長から聴いた森村は、房之助を抜擢して、ニュウヨ-ク支店勤務を命じます。房之助は欣喜雀躍しますが、ここで強力な反対に出会います。藤田組の後援者である、井上馨の反対です。藤田組の御曹司がなぜ藤田組に入らないのだ、と井上は言います。井上の言葉には伝三郎ですら逆らえません。なくなく房之助は森村組を辞します。房之助が遣られたところは、秋田県小坂にある小坂銀山でした。ここから彼の活躍が始まります。しかしニュウヨ-ク行き挫折に対する無念は終生彼の人生について回ります。
 1891年(明治24年)22歳、房之助は小坂鉱山に赴任します。彼の月給は10円、鉱夫でも8円でした。小坂鉱山は戦国時代から銀山として有名でしたが、当時掘りつくされ、藤田組としては廃坑か売却を考えていました。房之助はニュウヨ-ク行きを断念した結果が、廃坑の後始末ではかなわないと思い、なんとか鉱山の再生を考えます。銀鉱は掘りつくしたが、黒物(黒鉱)は充分にありました。黒鉱とは、銅、鉄、鉛、亜鉛、硫黄に少量の金銀を含む複合物です。これをなんとかできないかと房之助は考えます。特にそこから銅を抽出する事を考えます。東大工学科卒の新進気鋭の武内雅彦を迎えます。彼の卒業論文のテーマは自溶製錬法でした。最新式の精錬法です、自溶精錬法とは、燃料を加えることなく、鉱石内部の成分の燃焼で製錬する方法です。この方法なら燃費もかかりません。幾多の実験の末に、精錬は成功します。藤田組本社では房之助は廃坑に努力していると思っていました。房之助はこの本社の方針を、覆そうとします。ついに井上馨に応援を求めました。明治31年の銅生産額は360トン、翌年は833トン、産額はどんどん増加し明治39年には7000トンを超えます。産出額総体は現在の金額に直すと1000億円と想像されます。小坂鉱山は銀山から銅山に生まれ変わりました。
 この間藤田組本社は経営危機を迎えています。鉱山開発や工事請負、投機に手を広げすぎて、失敗が多く多額の借金を抱えます。井上馨の斡旋で毛利家から金を借ります。数度に分けて総計200万円以上の借財を毛利家から負います。当主伝三郎以下の幹部の俸給も制限され、経営権は毛利家に移ります。房之助の小坂鉱山での成功により藤田組の借財はなくなりました。併行して藤田三兄弟の間で財産分与をめぐっての争いが起こります。当主の伝三郎家に財産管理を集中する企てが進行します。すでに久原家の当主になっていた房之助は反対し、結局房之助は470万円を分与され、藤田組から分かれます。小坂鉱山を成功させ、藤田組の危機を救った彼としては不本意でした。
 鉱山経営、財産争い、本社の危機など多事の中、明治33年31歳、房之助は鮎川弥八の次女清子と結婚します。彼女の兄が後に日産コンツエルンを作った鮎川義介です。鮎川についてはすでに彼の列伝で述べました。また鮎川兄妹の母方の叔父が、今まで再々出てきた井上馨です。なお房之介は正式に結婚する以前から、彼はある女性との間に一女を設けています。この娘久子が後石井光次郎と結婚し、その間にできた娘が、シャンソン歌手で有名な石井好子です。このようにして久原家は二重三重に長州閥で囲まれます。また房之助は別に球子という女性との間にも多くの子を作っています。昭和17年といいますから、ずっと後年清子は房之助と協議離婚しています。3人の女性に産ませた子供や孫達は房之助の屋敷に集まり、みな仲良くしていたと言いますから、久原家は解放的なそしてかなり猥雑な家風であったと想像されます。
 1905年藤田組を退社した房之助は、茨城県の赤沢銅山の売買契約を締結し、久原鉱業日立鉱山の名に変更して、鉱山経営に乗り出します。この時三井銀行から50万円の融資を受けます。仲介者は例の井上馨です。房之助は鉱山経営にすべて斬新な方針で臨みました。まず発電所を造ります。手掘りをやめて、削岩機を使い機械掘りにします。電気鉄道を鉱山全体に走らせます。さらに鉱山と常陸海岸の間に、中央買鉱製錬所を作ります。これは将来鉱山の産出額が低下した場合、他の鉱山から鉱石を買って、製錬するためです。またダイアモンド式試錘機を使い、試錘探鉱を行います。断層にぶち当たりますが、なんとか鉱脈を探し、鉱山開発に成功します。房之助を慕って、多くの人材が日立に来ます。彼らの内重要な人物は小平浪平と竹内雅彦でしょう。小平は発電機の修理を担当していました。そのうち自分で発電機を作ってみたくなり、機械を組み立てます。房之助はあまりこの方向には関心がなく賛成ではありませんでしたが、小平の試みを黙認します。小平の試みは発展し、1912年久原鉱業日立製作所の開設に至ります。現在の日立製作所です。竹内雅彦は後に経営危機に陥った久原鉱業を受けつぎ、この会社は現在のジャパンエナ-ジ-になります。
 日立鉱山は開業3年目くらいから経営は軌道に乗り、銅の産出額は増加し続け、1916年(大正5年)には37000トンを産出します。第一次大戦で銅の需要は急増し銅価は上昇し房之助は大富豪になります。盛時における彼の資産は約2億5千万円になると推測されています。当時の国家予算がだいたい10億円ですから、彼の資産は国家予算の25%になります。現在の規模に換算すれば25兆円に昇ります。まさに大富豪です。また大戦景気に乗っているので成金でもあります。久原家の故地須崎に行き、公園や埠頭に波止場などの大規模な寄付を行います。房之助の祖父半平の非業の死と、言われ無き悪評の払拭、町民の冷眼視への反発、そして成功顕示などいろいろな気持が混ざっていたのでしょう。しかし須崎町民の反発は一部には残っていたようで、房之助の寄付行為の記録は一切ないそうです。房之助は金を使いまくりました。政界への寄金もします、亡命していた孫文にも300万円政治資金を融通しています。東京、大阪、京都そして神戸に豪邸を作ります。すべて10000坪以上の規模でした。成金がするように不必要なほどに贅をこらします。大阪中ノ島に豪壮な本社を造ります。突起すべきは山口県下松(くだまつ)に造船所を造る構想を持ったことです。土地はどんどん買い占めました。市民も大喜びします。造船所から発展して、機械製作に進み、日本のクルップになるつもりでした。しかし大戦勃発のために、アメリカが鉄鋼の輸出を禁止したために、この計画は無しになります。房之助は京浜海岸に臨海工業地帯を作る計画も経てました。これらの計画は房之助自身の手にはなりませんでしたが、他の人が代りにすることになります。小平浪平の日立製作所が代表ですが、京浜臨海工業地帯も事実上出現しています。
 第一次大戦を機に房之助は、海外開発、商事部門の設立、そして重工業機械工業への進出を試みます。銅の価格は変動します。それに対処するために、彼は以下のような処置をとりました。価格が低迷している時は、設備の改善に尽くす、価格が上がったら増産する。このやり方は為替についても応用できます。円高になったら設備改善に努め、研究に投資し、円安になったら増産して輸出する、のです。
 第一次大戦の2ヶ月前までが、房之助の絶頂期でした。彼は欧州戦線の動向に常に注視していました。戦争が終わりそうな時に経営を縮小する予定でした。欧州各国に派遣した駐在員は「戦争終結近し」と判断したら、「プラチナ高い」という暗号電報を送るべく、指示されていました。終戦の2ヶ月前にこの電文は届きます。しかしなんの事か解らない新米社員はこの電文を無視します。そのために久原鉱業は終戦に備える事が出来ず、大損をします。しかしこの話はおかしい。本当にそうなら久原鉱業の幹部は房之助も含めてぼんやりしていた事になります。この前後房之助は腸チブスを患い生死の境にありました。気力体力共に低下し、生死の問題ですから、会社どころではなかったのかもしれません。当時この病気は死に至る病でした。抗生物質がありません。病原菌と本人の体力との勝負だけでした。しかし腸チブスだけでは説明できないものが残ります。要は房之助の性格です。彼には財産防衛をいう考えはありません。儲けたら儲けただけ蕩尽するタイプです。三井三菱住友また藤田組のように家訓を作り、当主の恣意を掣肘し、同時に当主中心に資産が集まるような、処置を房之助はしていません。金融業にも熱心ではなかったようです。
 経済人としての久原房之助はここまでです。彼は急速に事業経営に関心を失います。彼のロマンをかなえそうなものは政治です。久原鉱業は義兄の鮎川義介に委ねます。鮎川は北九州ですでに若干の工場を経営していましたが、危機に陥った久原鉱業を引き受け、そこから後に日産コンツエルンといわれる一大重化学工業の結合体を作り上げます。この中で一番有名なのは日産自動車です。
 1928年(昭和3年)立憲政友会に入党します。同郷の宰相田中義一の勧めです。山口一区から出馬して当選し、そのまま逓信大臣になります。1931年政友会幹事長に就任。この出世の速さはやはり彼が抱える資金によるものでしょう。破産しかけたはずなのにどこから捻出するのでしょうか?少なくとも彼には日産と日立が背後にいました。1936年(昭和11年)2・26事件に巻き込まれ、謀議の疑いで逮捕されます。約8ヶ月収監され、証拠不十分で無罪になります。有罪なら死刑は免れかねません。普通ならこの辺で政治生命は絶たれるのですが、1939年(昭和14年)政友会総裁に推されます。もっとも彼がしたことは、政友会の解散です。大政翼賛会のさきがけを務めたようなものでした。
 2・26事件での入獄から帰った時、房之介の債務は約1億円でした。鮎川他が解決に努力します。房之助は20年の年賦で返却する事を約束します。この時点で彼は69歳でした。本当に返却を信じた者はいたのでしょうか。しかし20年後の昭和32年房之助は債務のすべてを返します。そして彼自身には井戸と塀のみが残りました。
 戦後A級戦犯に指定されかけます。房之助が孫文に贈った300万円のおかげで指定を免れます。公職追放は免れられません。普通なら昭和24年に解除なのですが、勝手に私有地を売却し、公職違反の規定に反し、さらに2年解除を延長されます。戦後も代議士になりました。しかし房之助の影響力を恐れた吉田茂の反対で入党はつぶされます。一時期久原内閣という噂もありました。昭和40年、97歳で死去。堂々たる大往生です。彼が基礎を作った会社は主なもので4つあります。日産自動車、総合電機メ-カ-の日立製作所、石油開発精製・石油化学のジャパンエナ-ジ-、非鉄金属開発加工・電子部品製造の日鉱金属です。すべて久原鉱業の分家です。そしてこれらの永続する堅実な企業は房之助の親族や部下により受けつがれて発展しました。
 
 参考文献 惑星が行く、久原房之助伝 

コメントを投稿