経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

日本人のための政治思想史(27) 処士横議

2014-11-15 02:14:19 | Weblog
(27)処士横議
 処士とは武士でありながら藩や幕府に属さず、しかし武士としての自覚を強く持つ人間を意味します。彼らの多くは浪人なのですが、ペリ-来航後四半世紀の間一部の浪人は極めて政治意識の強い集団を形成しました。彼らは在野の武士という気持ちを抱き、自ら草莽の処士と称します。頼山陽の日本外史に、草莽の臣正成立たずば流浪の南帝をいかにせん、という一節があります。処士の多くは頼山陽のこの文に共鳴し、我こそは楠正成であると自覚し行動しました。明治維新は草莽の処士のエネルギ-でもって行なわれました。
 武士という身分あるいは集団の由来を振り返ってみましょう。武士身分は戦士の契約により成り立ちます。契約の第一は、ご恩と奉公、土地給付と武力提供の交換です。武士の契約にはもう一つの側面があります。それは戦士の友情、同性愛的感情による結合です。同志同輩の間でのみならず、主君と臣下の関係においてもこの種の感情は強烈です。ご恩と奉公という関係は経済的関係なので乾いていますが、同性愛的感情になると濡れた血の盟約になります。日本の武士道はこれら二つの契約から形成された独特の志操です。一方に経済的利害の交換があり、他方では血の盟約となりますと、関係が強固であるのみならず、関係の当事者は極めて強い独立性を持ちます。裏切れば殺してもいいのですから。
 そういう武士達が自営農民である名主として自らの企業である名田経営を合併させてできた組織が藩、藩が横に連合して成り立つ組織が幕府です。幕藩体制とは武士名主が企業合同をしさらに企業連合を作ってできました。そういう組織ですから藩でも幕府でも意志決定はすべて衆議で決められます。もともと武士は戦技と戦力を競い合う集団ですから本来は平等な存在です。便宜のために藩とか幕府とかいう組織を作っただけです。加えて幕藩の財政困窮は下級武士の台頭を促します。江戸時代に暗君はいません。おればなんらかの形で引退させられます。衆議を背景としての藩主であり将軍です。
 一見強固に見える幕藩体制あるいは武士団が一挙に解体し、その渦の中から元の自主自営の名主の立場を自覚して飛び出してきたのが草莽の処士という集団です。1853年ペリ-が浦賀に来航します。彼は日本に親和と交易を要求しました。250年の鎖国体制を保ってきた日本、当事者である幕府は開国などしたくはありません。しかし戦力の差は圧倒的です。力には逆らえません。下手をすると植民地にされます。アヘン戦争によるシナの窮状は日本に届いていました。開国か鎖国かの是非を時の首席老中阿部政弘は幕臣藩士に聞き意見を求めました。ここに日本の武士団の衆議性という特徴が端的に現れています。阿部は武士の習いに本能的に従ってそうしたのですが、ここで幕府は政治の主権を一気に失います。決定を全国の武士、100万人の武士の衆議に委ねたのですから。阿部の後を継いだ堀田正睦には開国か否かの判断を下せず、決定は朝廷に委ねます。同時に全国の心ある武士達は自分の意見を述べ政治行為に参画してきます。この動きを嫌った大老井伊直弼は水戸浪士に白昼江戸城のすぐ側で殺害されます。幕府は完全に主導権を失います。
 代って台頭し政治を主導しだしたのが草莽の処士達です。処士を本来は浪人、つまり幕藩に属さない身分の者と言いましたが、実態はもっと複合的です。正式の藩士も処士の中に入ります。なぜなら藩士の中で政治意識の強い分子は脱藩します。脱藩して浪人となった者と藩内に残った者は連絡を取り合います。郷士豪農豪商も論争に加わります。更に浪人である知識階層も運動に参加してきます。当時全国に多くの寺子屋や私塾がありました。18世紀末からどういうわけか剣術が盛んになります。この道場主も浪人です。更に久留米の神官真木和泉や京の僧月照のような存在もあります。女性も運動に参加しました。野村望東尼です。こういう意味での処士を列挙してみましょう。西郷隆盛、木戸孝允、坂本竜馬、伊藤博文、大隈重信、高杉晋作、吉田松陰、中岡慎太郎、藤田東湖、更に清河八郎、近藤勇、土方歳三、橋本左内、梅田雲浜、梁川星山、などなどです。勝海舟も幕臣ですが処士の中に入れてもいいでしょう。維新以後に活躍し日本経済の設計図を描いて指導した渋沢栄一も、住友財閥を作った伊庭貞剛も処士に入ります。彼ら処士の間では、先生と君という呼称が用いられていました。能力と経験の差による呼び方の違いですが、ただそれだけのこと、この呼称は平等を意味します。
 こういうかなり雑多な階層に属す分子が、自分達は武士だ、だから国事に奔走しないといけないのだと思って集まり意見を交換しそれぞれの思惑で行動します。肝心な事は藩内と藩外の連絡情報交換です。藩外では処士の身分は平等です。自由に討議します。横につまり平等に討議するから横議と言われます。意見は集約されて藩内に持ち込まれます。藩外と藩内の意見が相互に影響しあって世論を作ります。幕府の統制力は減退し、藩の首脳部にも判断はできず、藩内外の処士達の意見が主導権を握ります。全国的規模での意見交換なのですから。藩内部の意見も中下級武士そして若手に握られます。
 横議する処士の出現は武士の先祖返りです。独立自営そして個人の責任の自覚、ですから政治への主体的参加は、武士が幕藩体制から離脱して元の野生の名主に帰ったことを意味します。欧米列強の軍事力の優秀さを体験したこれら処士達は再び藩という組織に回帰し、藩を乗っ取って、尊皇攘夷、公武合体、倒幕など多くの路線を試行しつつ、最後に倒幕に踏み切り維新回天を成し遂げます。
 処士横議の例をもう少し挙げます。新撰組も処士横議の一例です。武闘派の団体でしたが、彼らはそれなりの政治的意見を持ち団体の成員は平等でした。函館の五稜郭に立てこもり新政府に反抗した榎本軍では幹部は選挙で選ばれています。桜田門外の変の主役水戸浪士も横議で井伊殺害を決めました。長州の奇兵隊、西南戦争の時の薩軍も同様です。そもそも新政府自体の組織も処士横議の適例です。藩閥独裁と非難されましたが、10数名の幹部の協議で国会開設まで政治を主導しました。
 ここで維新の政変でなぜ天皇制になったのか、主権者として天皇が武士により擁立されたのかを考えて見ましょう。三つの要因があります。まず摂関政治の伝統です。武士は天皇に直属しません。摂関家の家人として従属しました。政治は天皇と摂関という弾力性に富む二重の構造で遂行されます。伝統は武家政治に及び天皇と将軍の二重体制になります。要は君主である天皇と実行部隊である武士の間に摂関あるいは将軍という緩衝装置が入っていることです。幕府を倒した薩長の武士団はこの慣例に習います。幕府の代りに自分達藩閥の代表の合議機関が入りました。それだけでは不十分と考え欧米を参考にして憲法を作り国会を開設しました。武士の習性からすれば憲法や国会は常識であり既に彼ら自らがなんらかの形で実践していました。同時に天皇を神格化し絶対的権威とします。上に天皇を頂いて政治権力を二重構造にして弾力性に富むものにします。そして天皇が直接政治に参加できないように巧妙なからくりを作り、それを慣習化しました。
 江戸時代を通じて天皇制は文化になりました。解りやすい例を一つ挙げます。3月3日の雛祭りです。このお祭りの主役はお内裏様、つまり天皇皇后両陛下です。政治の実践者は潰せますが文化は潰せません。潰せば自国の歴史を失い、混沌たる地獄になります。
 もう一つ仏教の影響があります。仏教と武士は深い関係で結ばれています。仏教という国教になりえない世界宗教が日本に広まったことにより武士団が叢生しました。国教がないことは価値の独占者がいないことであり、だから非合法的な土地占有者である武士の存在が認められえたのです。この独立自営地域分権的な従って独裁者の出現を嫌う武士団の存在により天皇制は護られてきたのです。だれも武力と価値を独占できないのですから。通常の歴史の書き方では、武士が天皇の権力権威を奪った、清盛、頼朝、義時達が奪ったというような書き方をされますが、天皇と武家は本来対立する存在ではありません。 
幕末維新の変革は草莽の処士の横議で開始されます。武士は彼らが属してきた幕府藩という体制から自由になり、彼らが習性として持っている衆議を繰り広げます。平等という自覚をもって武士達は瞬時にして幕藩体制を解体しまた瞬時に新政府に結集します。文化としての天皇を神格化して政権の上に頂きその下方には正式の衆議機関としての国会を開設します。歴史的に回顧すれば天皇と武士は仏教を介して絶妙な平衡を保っています。

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