経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

日本人のための政治思想史(26) 村方騒動

2014-11-10 15:09:16 | Weblog
(26)村方騒動
江戸時代の農村は室町戦国期の宮座の系譜を受けついで集団自治制でした。年貢は個々の農民が藩や幕府に直接納めるのではなく、村全体で一括して請負い納めます。各農民の年貢高は農村の合議で決められます。農耕は共同作業です。田植稲刈など農民個人だけではできません。村ごとに村法があり、年貢高、村を維持するための費用、用水と共有地の管理、村寄合、祭礼などの年中行事、そして村内での身分秩序などが決められていました。名主(みょうしゅ)は城下に集住すれば武士、農村に土着すれば有力百姓になります。江戸初期の農村はこういう有力百姓の影響力が強く、多くの農民は彼らの指導支配を受けていました。平和そして商業作物の栽培製造で農村が豊かになりますと有力者の影響下にあった農民は次第に自立して自作農になってゆきます。藩も幕府も自作農の出現を歓迎しました。年貢の有力者による中間搾取が減るからです。
 こういう事情を反映して、江戸時代後半から村方騒動という現象が全国的に頻発します。それまでは農村の指導者である庄屋名主(なぬし)の職は旧名主(みょうしゅ)の系譜を引く有力百姓が握っており、彼らが藩や幕府代官との間に立って年貢の額を決めていました。従って年貢納入には不透明な部分が多かったのです。農民達はこのやり方を批判して団結して立ち上がります。農民達の代表が庄屋名主の活動を監視します。帳簿公開を要求します。帳簿公開要求は更に藩や幕府の代官にまで及びます。村の指導者も変り、村民で選出されるようになります。指導者自身も旧い家柄というだけでは不十分で、新しい商品経済の動向に対応して村を経営してゆくだけの能力をもった人物が指導者、庄屋名主として選出されます。彼らは村の代表であり、藩営手工業の実質的な担い手であり、富農でした。彼らの中から藩政特に経済政策に関して積極的に提言する者も出てきます。村の自治におけるこの変化を村方騒動といいます。
 村方騒動は一村の内部に限られたのではありません。農民は村の枠を超えて、一郡全体で代表者を選出して村政従って藩政のあり方に意見を述べます。この会議を郡中議定と言います。郡単位での農民代表の会議です。出羽国村方郡や備中国哲多川上郡の議定が代表的です。議定(会議)は郡をこえて一国全体で行なわれることもありました。こうなると藩の範囲を超えてしまいます。
 農村にはこの会議の下に若者組という組織があります。若者組とは独身者と家督相続以前の人物からなる組織です。彼らは思春期から青春期にかけて彼らだけの集団を作り同宿も含めて村の他の成員とは異なる独自の生活をして団結します。彼らの力は強く、彼らは祭礼年中行事、農作業そして村の警察業務において重要な役割を果たしました。村の決まりに従わない非協力的な家にはなんらかの形で懲罰を加えます。若者組と呼応する農民の要求に従って村での休暇は増えてゆきました。藩当局もどうすることもできません。幕末には週に換算して約3日が休日だったという記録もあります。村請、農耕という共同作業、村方騒動、議定そして若者組の活動などを考えますと農村が自治合議組織であったことが解ります。
 江戸時代後半から幕末にかけて農村では歌舞伎が盛行しました。村に演舞場を作ります。農民自身が演じることもあり、また他村から演劇者を呼んでくることもありました。歌舞伎公演をしない村など見当たらないくらいだと歴史学者は言っています。農民は結構楽しんでいたのです。
 私は以上の農民の生活状況から見て、幕末時の日本人の識字率は今まで報告されているより高かったのではないかと思っています。識字とは現在で言えば新聞に入れられているチラシの内容が理解できる程度以上の読み書きの能力を言います。村方騒動では農民は村の代表者や藩当局と交渉します。交渉の内容はすべて文書化され、個々の農民はそれを検討する事ができます。庄屋名主は交渉の過程をすべて文書にして残しました。そうしないと自分の子孫が村役を務められなくなるからです。村政の現実を詳しく書いて残します。この文書の量は膨大で旧庄屋名主の家の文書量には学者が圧倒されるそうです。このような文書の内容は個々の農民がすべて見ているはずです。そうでないと監視機能が果たせません。自分達が納める年貢の額に無関心な農民などいるはずがないからです。文書を見たのは必ずしも男性とは限らず女性も見たと想像できます。当時農業は男女の共働きであり、女性の労働力は重要であり、その分女性の発言権は強かったのです。女性が家政に大きな影響を与える年貢の高に無関心で、それを男性に一任していたとも考えられません。加えて農村歌舞伎の盛行があります。歌舞伎には台本が要りますし、歌舞伎独得の美文で書かれた台詞を理解し暗誦できなればなりません。字が読めない書けないで歌舞伎を公演できるでしょうか。今まで幕末における識字率は男性が80-90%そして女性が50%と言われてきましたが、識字率は男女ともにほぼ100%近くあったのではないかと私は思っています。農村がそうならなおあかぬけした都市住民ではなおさらのことになります。都市住民の多くは稽古事に通い、戯作という大衆文学を楽しみ、俳句を作って教養を高めました。天保年間江戸で俳句の募集が行なわれました。集まった句数は10万句であったと報告されています。識字率に関して欧州と比較してみましょう。極端な例を挙げます。1970年代のポルトガルで女性の31%は文盲でした。ある論文によると幕末の時点で日本農民の栄養摂取は平均1700カロリ-、蛋白質は70グラムということです。
 武士社会と農民のそれを総合して考えて見ましょう。武士の社会では家老層、奉行層、そして実務層という三つの衆議の輪がありました。農民社会では庄屋以下村方三役、議定、若者組の三つの衆議の輪があります。武士と農民という二つの社会の接点に郡奉行代官と名主庄屋が位置します。こう考えますと日本の社会は上下に重なる複数の衆議の輪から組み立てられていることになります。この輪が円滑に機能しない時一揆が勃発します。実力行使による条件闘争です。以上の衆議の輪の組立は事実上の議会制度と言ってもいいのです。下から各階層ごとに衆議の輪を積み上げてゆく方式です。これに同業組合連合の衆議が加われば、単純な直接選挙より意見集約は効率的です。日本は明治維新以来短期間に選挙制度を作り国会を開設し議院内閣制を作りました。すでにその基礎が充分あったからそれができたのです。
村方騒動、郡中議定、若者組は農民の代表会議です。武士と農民の衆議を組合わせると六つの衆議の輪ができあがります。日本には既に議会制度に相当するものがあったのです。

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