経済(学)あれこれ

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日本史短評、与謝野蕪村

2020-06-04 12:09:38 | Weblog
日本史短評、与謝野蕪村
 
「俳諧復興の中心を為した与謝野蕪村(1716-1783年)は、普通芭蕉に次ぐ第二の俳聖とされている。大阪郊外の毛馬村に富裕な農家の子として生れ、俳諧や画などまっとうな教育を受けたらしい。生涯を通じて彼は画人として知られる事が多く、生計も画業の方から得ていた。没後、彼の詩業が顧みられなかった時期にも、画人としての名声は揺らぐことはなかった。蕪村自身にとっても、俳・画は本質的には同種の表現であり、両者は中国的な文人の悠々自適の理想に集約されるものであったらしい。芭蕉への尊崇は、彼蕪村がしばしば口にしているところだが、芭蕉のように厳格な自己放棄による俳諧への献身、あるいは芭蕉的な求道の生活は、性格的にも蕪村のよくするところではなかった。蕪村のそれはむしろディレッタントのそれであり、ただ極めて優れた俳力に恵まれたディレッタントであったのである。
 蕪村と芭蕉の相違は、なによりも両者の個性の差に由来する。芭蕉は現実の積極的肯定によって貫かれた元禄時代に生きたが、彼の詩精神は中世的、とりわけ西行や宗祇に近く、生活も中世的な隠者のそれに近かった。一方の蕪村には、このような中世的牽引力はまったく認められない。彼は漢詩趣味、王朝趣味を愛し、俳画の中に捕えうる造形美への陶酔感を持っていた。(中略)蕪村はついに自己を蕉風に同一化しようとはしなかった。」
 以上の文章はD・キ-ン氏の「日本文学の歴史」の中の一節です。私はキ-ン氏の意見に必ずしも賛成するものではありません。私は芭蕉の求道者めいた地味さ・くそ真面目さがあまり好きではありません。蕪村は生活の現実を句の中に読み込み、しかもそれを明るい絵画にしています。この写実と絵画の間にある種の洒落・ユ-モアが看取されます。写実と絵画の間に幽玄の美があるように思います。ここではまず「蕪村俳句集」と「蕪村遺稿集」の中から印象に残る句を十数句挙げ、最後に蕪村の革新的な試みである、漢詩文章と俳句の統合の試みである「春風馬堤曲」を鑑賞してみたいと思います。なお淀川の急流を描いた「澱河歌」や友人の死に捧げる「北寿老仙を悼む」は名作ですが、紙数の関係で省きます。
 公達に狐化けたり宵の春          春雨の中におぼろの清水かな 
 きじ啼くや草の武蔵の八平氏        遅き日のつもりて遠きむかしかな
 春の海ひねもすのたりのたりかな      月に聞きて蛙ながむる面(たのも)な
 うつつなきつまみこころの胡蝶かな     山吹や井手を流るるかんなくず
 かくれ住て花に真田が謡いかな       A、菜の花や月は東に日は西に
 菜の花や鯨もよらず海暮れぬ        春惜しむ宿やあふみの置きごたつ
 牡丹散りて打ちかさなりぬ二三片      B、名のれ名のれ雨篠原のほととぎす
 うは風に音なき麦を枕かな         夏河や超すうれしさよ手に草履
 愁いつつ岡にのぼれば花いばら       しののめや露の近江の麻畠
 さみだれや大河を前に家二軒        水桶にうなづきあふや瓜茄
 C,狩衣の袖にうら這ふほたる哉      D,学問は尻からぬける蛍かな
 うわばみの鼾も合歓(ねむ)の葉陰哉    石工(いしきり)の鑿冷したる清水かな
 E,二人して結べば濁る清水哉       涼しさや鐘をはなるるかねの声
 F,川狩や帰去来(きこらい)といふ声す也 裸身(はだかみ)に神うつりませ夏神楽
 中々にひとりあればぞ月の友        月天心貧しき町を通りける
 雨の鹿恋に朽ぬは角ばかり         門を出(いず)れば我も旅人秋の暮れ
 人の世に尻を据えたるふくべ哉       G,鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分かな
 H,秋寒し藤太が鏑ひびく時        きくの露受けて硯のいのち哉
 長き夜や通夜の連歌のこぼれ月       みのむしの得たりかしこし初時雨
 嵐雪と布団引合う侘寝かな         裾に置て心に遠き火桶かな
 蕭条として石に日の入枯野かな       I,易水にねぶか流るる寒さかな
J,くすり喰人にかたるな鹿ケ谷      うぐいすの啼くや師走の羅生門
K,としひとつ積や雪の小町寺       山守のひや飯寒きさくらかな
畑打ちや我家も見えて暮遅し        見わたせば蒼生(あおひとくさ)よ田植時
飯盗む狐追いうつ麦の秋          迷い子を呼べばうちやむきぬた哉
さびしさのうれしくも有秋の暮       舎利となる身の朝起きや草の露
 AからKまで符丁を打っているのはすべて歴史事象に由来しています。Aの句はその先輩として二人の詩歌人を持ちます。柿本人麻呂の「東の野にかぎろいの立つ見えて省みすれば月かたぶきぬ」でありもう一人は唐代の詩人の「昔聞く洞庭の水、今登る岳陽楼、呉楚東南に開け、乾坤東西に分かつ」です。Bは倶利伽羅峠の戦で討ち死にした斎藤実盛への挽歌です。芭蕉にも似た句があります、「木曽殿と背中合わせの寒さ哉」。Cは源氏物語蛍の巻に由来し、Dは蛍雪の功を皮肉った句です。Eは恋愛を皮肉った句、Fは陶淵明の「帰去来の辞」に由来するものです。陶淵明は日本の俳人にとっては聖人でしょう。Gは明らかに平清盛の御白河法皇鳥羽殿幽閉のク-デ-タ-から取っています。Hは俵藤太、藤原秀郷の瀬田の唐橋でのムカデ退治の伝説に由来します。Iは秦王政(始皇帝)を刺しに行く刺客刑カの意気を歌ったもの、Jは鹿ケ谷事件、平家物語の一節を用いています。Kは美人で和歌の名人小野小町への挽歌です。

春風馬堤曲
 余、一日、耄老ヲ故園ニ問フ。澱水ヲ渡リ
 馬堤を過グ。偶女ノ郷ニ帰省スル者ニ逢フ。先
後シテ行クコト数里、相顧ミテ語ル。容姿嬋娟トシテ
痴情憐ムベシ、因リテ歌曲十八首ヲ製シ
女ニ代ハリテ意ヲ述ブ。題シテ春風馬堤曲ト曰フ。
 春風馬堤曲十八首
ヤブ入リヤ浪花を過ギテ長良川
春風ヤ堤長ウシテ家遠シ

堤ヨリ下リテ芳草ヲ摘メバ 荊ト棘ト路ヲ塞グ
 荊棘何ゾ無情ナル 裙ヲ裂キ股ヲ傷ツク
 渓流石点々 石を踏ンデ香芹ヲ撮ル
 多謝ス水上ノ石 我ヲシテ裙ヲ濡ラサザラシム
 
 一軒の茶見世の柳老いにけり
 茶店ノ老婆子我ヲ見テ慇懃ニ
 無恙ヲ賀シ且我ガ春衣を美(ホ)ム
 店中ニ二客アリ 能ク解ス江南ノ語
 酒銭三ビンヲ擲チ 我ヲ迎へタフを譲ッテ去ル
 古駅三両家猫児妻ヲ呼妻来ラズ
 雛ヲ呼ブ籬外ノ鶏 籬外草地ニ満ツ
 雛飛ビテ籬超エント欲ス 籬高ウシテ堕ツルコト三四

 春ソウ路三叉中ニセフ径あり我を迎ふ
 たんぽぽ花咲けり三々五々五々は黄に
 三々は白し記得す去年此路よりす
 憐とる蒲公茎短して乳をあませり
 むかしむかししきりにおもふ慈母の恩
 慈母の懐抱く別に春あり
 春あり成長して浪花にあり
 梅は白し浪花橋辺在主の家
 春情学び得たり浪花風流(なにはぶり)
 郷を辞し弟に負く身三春
 本をわすれ末を取接木の梅
 故郷春深し行々て叉行々
 揚柳長堤道漸くくだれり
 嬌首はじめて見る故郷の家黄昏
 戸に依る白髪の人弟を抱き我を
 待つ春叉春
 君不見古人太祇が句
  藪入の寝るやひとりの親の側

 蕪村の文章を味合うには漢字と仮名の使い方読み方が肝要です。二つの言語の按配が微妙です。仮名と漢字の按配は句を絵画的なものにしています。漢字で書けるところを仮名にし、仮名に意図して漢字を用いています。例えば「黄昏」は「たそがれ」とは読みません。「こうこん」と読ませます。でないと文章の味が出ません。俳句で常套的に用いる助詞「かな」は「哉」とも「かな」とも、その句の風情に従って使い分けられます。蕪村は伊達に画人であったのではありません。池大雅と並ぶ文人画の代表です。このブログでは漢字使用に制限があり、蕪村の意を充分に表現できない恨みがあります。蕪村は大坂に生まれ育ち、俳人画家としては文化の先進地京都で活躍しました。修業時代は僧形で地方を旅し宿賃代わりに絵を置いて行ったそうです。京都在住から「与謝野」と称しています。1784年68歳で死去、まさしく田沼時代の文人です。

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