経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

       武士道の考察(23)

2021-04-09 20:07:44 | Weblog



武士道の考察(23)

(屠膾の輩、殺人の上手)
 武技を磨き名を惜しみ所領をめぐって眼の色を変えて争うから、この種の紛争は全国いたるところで絶えることがありません。伊勢国に平維衡と平致頼という二人の武士がいました。仲が悪く始終合戦します。周囲の農民は大迷惑。訴えられ二人は流罪になります。形式的な流罪ですが。
 地方に所領を持つ者が、即武士とは言えません。武士の武士たる由縁はその武技にあります。装備の費用を負担でき、日々訓練する時間を持てる一部の者たちが本当の武士になります。彼らは武具の調達、権門との連絡のために、都に常駐できる態勢を持つ必要があります。都には専門家が集まるので、武技も習い易いのです。こうして都で軍事技術を習得した専門家が地方に下り、技術を伝播させたと考えられています。平安末期地方の治安は悪く、いざという時に押領使追捕使に協力する武技専門家のリストが国衙(地方官庁)にはありました。彼らを厳密な意味で武者あるいは武士と言います。しかし治安が悪い以上、所領を維持するためには誰もが武装を必要とします。農民も同様です。彼らの生産物を狙う連中はうようよいます。武士豪族も受領も政府官人も他の農民も同じ穴のむじな。この時代武士と農民の境は流動的です。身分の流動性は武士層の特徴です。江戸時代、農民は武器を持ってはいけないはずでしたが、彼らは鉄砲も刀も結構所持していました。
 武技を専門とする武士たちが他の階層から好かれていたとは思えません。武技とは殺しの技術です。極めて非日常的行為です。彼らは訓練のために狩をします。争いが頻発するから合戦も多い。田畑は踏み荒らされます。農民や非武士的土地所有者から、屠膾の輩(とかいのやから)、殺人の上手と言われていました。「屠」は「」の「屠」、「膾」は「なます」の意です。武士は獣あつかいされました。
(六条顕季と源義光)
 武士に関して微妙なニュアンスを伝える二つの挿話を紹介します。白河法皇に仕えて院の近臣として辣腕を振るった六条顕季という人がいます。彼は源義光と所領争いをするはめになりました。義光、新羅三郎義満は甲斐源氏の祖、武田信玄の祖先です。顕季は、自分の方に絶対理があるのに、法皇がなぜ裁可をくだされないのか、不満に思いある夜法皇に訴えます。法皇が言われるには、お前の方に理があるのは解っている。しかしお前はまだいくつかの荘園を持っているが、義光にはあの所領しかない。武士という者は乱暴で道理の解らない連中だから、お前の身を案じているのだ、と。顕季はすぐ義光を呼んで、所領を彼に譲ることを承諾します。義光は感激して顕季に名簿(みょうぶ)、彼の名を書いた符を捧げます。名簿奉呈は顕季に臣従する証しです。その後一年義光からなんの連絡もありません。ある夜顕季が夜遅く帰宅する途中、どこからともなく屈強な男たちが現れ、彼の車を囲んで進みます。不安に思った顕季が頭風の男に理由を尋ねると、私どもは義満の殿からいつも貴方の警護を言いつけられております、普段は姿を見せる必要もありませんが、今夜は特別そうなのでこうして車の周りを固めているのです、と男は言います。顕季は法皇の言葉を思い起こし、言われていたことを聞いていてよかった、もしこれが逆だったら、と思いぞっとしたそうです。挿話は、公卿達が武士をどう見ているかということ、武士は敵にも味方にもなりえること、それは約束次第であること、約束を守るのが武士の武士たる由縁であること、を物語ります。
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「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社

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