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「君民令和、美しい国日本の歴史」本文(27)処士横議

2020-10-08 14:01:42 | Weblog
「君民令和、美しい国日本の歴史」本文(27)処士横議

1 藩幕府に属さず、しかも武士としての自覚を強く持つ人間が処士。彼らの多くは浪人、ペリ-来航後四半世紀一部の浪人は極めて政治意識の強い集団を形成。彼らは在野の、権力機構の外にいる武士という気概を持ち、自らを草莽の処士と称す。頼山陽の日本外史の一節、草莽の臣正成立たずば、に処士の多くは共鳴、我こそは楠正成と自覚し行動。明治維新は草莽の処士の活力で遂行された。
2 武士身分の由来は何か。武士身分は戦士の契約で成り立つ。契約の第一は、ご恩と奉公、土地給付と武力提供の交換。もう一つの側面、戦士の友情、同性愛的感情による結合。同志同輩の間のみならず、主君と臣下の関係においてもこの種の感情は強烈。ご恩と奉公という関係は経済的関係、乾いている、同性愛的感情はじっとりと濡れた血の盟約。武士道はこの二つの契約から形成される。一方に経済的利害の交換があり、他方では血の盟約、関係は強固、当事者は強い独立性を持つ、基本的に平等。裏切れば殺してもいい。
3 武士達が自らの企業名田経営を合併させてできた組織が藩、藩が横に連合して成り立つ組織が幕府。幕藩体制とは武士名主(みょうしゅ)のトラストカルテル。だから幕府でも意志決定はすべて衆議。武士は戦技と戦力を競いあう集団、本来は平等。便宜のために藩幕府を作っただけ。幕藩の財政困窮は下級武士の台頭を促す。江戸時代に暗君はいない。おれば引退させられる。衆議を背景としての藩主であり将軍。
4 強固に見えた幕藩体制が一挙に解体、その渦の中から元の自主自営の名主の立場を自覚して飛び出してきたのが草莽の処士。1853年ペリ-来航、日本に親和と交易を強要。250年の鎖国、開国などしたくない。戦力の差は圧倒的、力には逆らえない。下手すると植民地。アヘン戦争による中国の窮状。開国の是非の意見を首席老中阿部政弘は大名幕臣藩士に求める。日本の武士団の衆議性という特徴が端的に出現。阿部は武士の習いに本能的に従い、決定を全国100万の武士の衆議に委ねる。幕府は主導権を失う。阿部の後を継いだ堀田正睦は開国是非の判断を下せず、決定は朝廷に。同時に全国の武士達は自分の意見を述べ政治行為に参画。この動きを嫌った大老井伊直弼は水戸浪士に白昼江戸城門前で殺害、幕府は完全に主導権を喪失。
5 代って台頭し政治を主導したのが草莽の処士。処士は本来浪人、幕藩に属さない身分だが、実態はより複合的。正式の藩士も処士。藩士の中で過激分子は脱藩。脱藩浪人と藩内残留者は相互に連絡。郷士豪農豪商、知識階層の浪人も運動に参加。全国に多くの寺子屋私塾剣道場、経営者は浪人。久留米の神官真木和泉や京の僧月照も処士。女性の処士、野村望東尼。処士を列挙してみる。西郷隆盛、木戸孝允、坂本竜馬、伊藤博文、大隈重信、高杉晋作、吉田松陰、中岡慎太郎、藤田東湖、更に清河八郎、近藤勇、土方歳三、橋本左内、梅田雲浜、梁川星山、相良総三など。勝海舟も幕臣だが処士くさい。維新後日本経済を指導した渋沢栄一、住友財閥を作った伊庭貞剛も処士。彼らの間で用いられる呼称が、先生と君。能力経験差のみによる呼び方、平等を意味する呼称。
6 かなり雑多な分子が、自分達は武士、国事奔走は義務使命と思い集まり衆議、それぞれの思惑で行動。藩内外で連絡、情報の交換。藩外では処士は平等、自由な討議、横に平等に討議するから横議。意見は集約され藩内に持ち込まれ、藩内外の意見が影響しあい世論を作る。幕府の統制力は衰退、藩の首脳も右往左往、全国的規模で意見を交換する藩内外の処士達の主張が主導権を握る。藩内部の意見も中下級武士そして若手に。
7 横議する処士は武士の先祖帰り。独立自営、個人の責任、だから政治への主体的参加、武士が幕藩体制から離脱し元の野生の名主(みょうしゅ)に戻る。欧米列強の軍事力の優秀さを体験した処士達は再び藩組織に回帰、藩を乗っ取る、尊皇攘夷、公武合体、佐幕倒幕と試行錯誤、最後に倒幕に踏み切り維新回天。
8 処士横議の諸例。新撰組、武闘派、彼らは政治的意見を持ち団体の成員は平等。函館の五稜郭に立てこもった榎本軍は幹部を選挙で選ぶ。桜田門外の変、水戸浪士も横議で井伊殺害を決めた。長州の奇兵隊、西南戦争時の薩軍も同様。新政府自体も処士横議の好例。専制と言われたが、10数名の幹部の協議で国会開設まで政治を主導。
9 維新でなぜ天皇制が復活したのか、主権者として天皇が武士により擁立されたのか?三つの要因。摂関政治の伝統。武士は天皇に直属せず摂関家の家人として従属。天皇と摂関という弾力性に富む二重の構造。武家政治も天皇と将軍の二重体制。君主である天皇と実行部隊である武士の間に摂関将軍という緩衝装置。薩長の武士団はこの慣例に習う。幕府の代りに自分達藩閥代表の合議機関が入る。それだけでは不十分、下部の衆議機関国会を開設、併せて憲法制定。憲法や国会は武士の常識習性、既に自らなんらかの形で実践していた。文化の帝王天皇を神格化し権威として集団帰属性を確保。文化の帝王たる天皇は不執政。天皇、指導者、議会の三重構造、弾力性に富む。
10 江戸時代を通じて天皇制は文化になる。解りやすい例を一つ、3月3日の雛祭。主役はお内裏様、天皇皇后両陛下。政治の実践者は潰せるが文化は潰せない。潰せば自国の歴史を失い、混沌たる地獄。
11 仏教の影響。仏教と武士は深い関係。国教になりえない仏教が日本に入り武士団が叢生。国教がないこと、価値の独占者がいないこと、非合法的な土地占有が認められる事、武士の出現。独立自営地域分権的で独裁者の出現を嫌う武士団の存在、天皇制擁護、衆議。
12 幕末維新の変革は草莽の処士の横議で開始。武士は彼らが属す幕藩から自由になり、彼らの習性である衆議を展開。平等という自覚。武士達は瞬時に幕藩体制を解体、瞬時に新政府に結集。文化としての天皇を神格化して政権の上に頂きその下方には衆議機関国会を開設。天皇と武士は仏教を介して絶妙な平衡を保つ。


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