経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝  中島知久平

2021-06-21 22:57:12 | Weblog
経済人列伝 中島知久平

 中島知久平といえば、少なくとも戦前においては飛行機王として極めて知名度の高い人物です。知久平は1884年(明治17年)群馬県新田郡尾島町に農家の子として生まれました。14歳、高等小学校を卒業し中学進学を希望ますが、断念します。当時中学校に進学できたのは、村でせいぜい一人あるかなし、というほど稀でした。極一部のエリ-トのみが進学しました。しかし向上心に富む知久平は家業を継いで生涯を過ごすには耐えられません。1902年18歳時、彼は藍玉代金110円を持って、東京へ出奔します。もっとも父親はこの出奔を褒めたそうです。
 知久平は猛勉強します。1日18時間勉強したそうです。陸軍士官学校を志望しますが、身体検査で落とされます。次に海軍兵学校を受けます。不合格。100名定員、1800名受験、知久平は287番でした。当時の普通のコ-スですと、中学校で5年間学び、それから高等学校(旧制)、高等師範学校、医学専門学校、海軍兵学校、陸軍士官学校を受けます。中でも海軍兵学校(通称海兵)は第一高等学校(現在の東大の一部)と並んで難関校でした。中学に行っていない知久平が落ちたのも当然と思われます。海兵に落ち、周囲の勧めもあって、彼は海軍機関学校を受けます。これは海軍の機関科将校を養成する学校で、言ってみればエンジニ-ア養成機関です。機関科将校は軍医や主計将校と同じように技術職ですから、戦闘を専門にする正規の将校からはやや下目に見られ、昇進の限度は中将でした。知久平は第三志望の学校に入る事になります。しかしこの選択が彼の生涯を決定します。なお機関学校入学時の順位は30番、総計38名合格ですから、優秀な成績とはいえません。しかし3年間の学業を終えて卒業した時、知久平は3番でした。
 1907年23歳時、機関学校を卒業します。二等巡洋艦明石、同じく石見(日本海海戦で捕獲した露艦アリョ-ル)、そして戦艦薩摩などに乗り込み航海します。薩摩は日本が始めて造った戦艦です。1910年、一等巡洋艦生駒は日英博覧会を祝して、英国に親善訪問の目的で派遣されます。知久平は生駒の乗務員でした。艦がポ-ツマスに寄航した時、知久平は強引に2週間の自由行動を求めます。当時の航空機技術の本場パリを見るためです。卒業3年後には、飛行機という新しい技術に強烈な関心を持っていたことになります。まるで太平洋戦争の帰結を予想しているがごとき行動です。
 1911年海軍大学校選科に入り1年勉強します。選科ですから自由研究をしてもかまいません。知久平はこの間、ドイツ語と英語の航空機に関する文献を読み漁ります。海軍大学校は陸軍大学校と並んで、士官の再養成のための学校です。ここに入れたこと自体、知久平の関心が海軍において承認されまた期待されていた事を照明します。
 1912年海軍は、アメリカとフランスに、航空機の操縦術及び生産技術習得のために、数人の将校を派遣します。知久平はアメリカに行き、カ-ティス海上飛行機を研究します。ついでに操縦術も学び、免許も獲得し、アメリカ飛行協会会員になります。彼はアメリカのフォ-ドシステムを見て、感嘆します。1913年知久平は横須賀鎮守府航空術研究委員になり、さらに海軍自身による飛行機製造に携わります。この時フランス機モーリス・ファルマンの改造型を飛行機工場長として製作しています。1914年造兵監督官としてフランスに派遣されます。もちろん航空機研究のためです。この年1914年、第一次世界大戦が勃発します。初めて航空機の戦闘が行われました。日本は山東半島の付け根にある青島(チンタオ)のドイツ軍基地を攻めます。この青島攻略戦が日本の航空機戦闘の初体験です。当時爆撃は次のように行われました。10cmくらいの砲弾にひもをつけて運び、目的地に着いたら、ひもを切断します。初期の爆撃はそんなものでした。1915年、知久平は造兵廠検査官になり、中島式複式トラクタ-という改造機を造っています。1917年知久平は海軍を退職します。極官は大尉でした。この時「退職の辞」を書いています。その主旨に従えば、英米に比べて国力の劣る日本は大鑑巨砲に頼るより、軽便な航空機を戦略の軸にすえるべきであり、また航空機生産は(より一般に生産そのものは)国営より民営の方がいい、ということです。
 1917年群馬県太田市の近傍に、知久平は飛行機研究所を作ります。東武鉄道旧博物館跡地に工場を作り、航空機生産を開始します。ところがちょうどその頃東大にも同名の研究所ができ、知久平はやむなく中島飛行機と改名します。創業時の主要人員は以下の通りです。
  奥井定次郎  横須賀田浦造兵部
  中島門吉   一族
  佐久間一郎  横須賀海軍工廠造機部
  佐々木源蔵  盛岡工業学校卒 
  石川輝次   陸軍砲兵工廠
  栗原甚吾   東北帝大機械科卒 横須賀海軍工廠造機部
 会社設立のための出資は関西の実業家である川西清兵衛から出ました。川西も航空機産業には並々ならぬ関心を抱いており、腹心を会社中枢に送り込み、また職人の一部には航空機生産技術を習得するべく指令していました。出資金は知久平が15万円、川西が50万円、他が10万円、総計75万円でした。知久平が技術を提供し、川西が資本を、という構図です。やがて両者は袂を分かちます。原因は経営方法の違いです。知久平は利益より品質です。この方針が経営の合理性を重視する川西とあいません。川西と決別後、知久平は他の出資者をみつけて、経営を続行します。なお川西清兵衛が以後航空機生産を断念したわけではありません。彼は彼で川西航空機製作所を立ち上げ、関西を中心に工場を作り経営を広げます。飛行船二式大艇や局地戦闘機紫電あるいは紫電改が有名です。なお日本における民間飛行機製造は知久平や川西が最初ではありません。1916年に岸一大が試みています。だいたい三者とも同時期です。ライト兄弟が最初の飛行に成功(飛行時間は59秒)したのが、1903年でした。その10年後には日本で航空機メ-カ-が三つも誕生しています。欧米も同様です。1919年にはフランスの、1921年にはイギリスの飛行使節団が来日しています。
 1920年陸軍から100機の大量注文があり、経営は軌道に載ります。以下中島知久平が携わった(設計した)飛行機を列挙します。
中島式五型練習機、陸軍二型滑走機、陸軍甲式三型練習機、陸軍甲式二型練習機 陸軍甲式四型戦闘機、中島N35試作偵察機、中島式ブルドック型戦闘機
 中島九一式戦闘機(以上陸軍機)
 海軍横廠式ロ号甲型水上偵察機、海軍アブロ型練習機、海軍ハンザ式水上偵察機
 中島式ブレゲ-水上偵察機、海軍十五式水上偵察機、海軍三式艦上戦闘機、海軍九0式二号水上偵察機、海軍九0艦上戦闘機、試作六試艦上複座戦闘機、試作六試艦上特殊爆撃機、試作七試艦上戦闘機、試作七試艦上攻撃機、中島式一型複葉機、中島式三型複葉機、中島式四型複葉機、中島式五型複葉機、中島式六型複葉機、中島式七型複葉機、中島式B-6型複葉機(以上海軍機)
以上はすべて知久平が中島飛行機に直接関わった時代の作品です。以後彼は政界へ転身
します。1930年台特にその後半に入り、日本の航空機製作技術は急進します。その
代表例が中島飛行機製作による零式戦闘機通称ゼロ戦です。ただし中島飛行機が作った
のは発動機(エンジン)で、機体は三菱重工業の製作になります。両社の合作と言えま
しょう。航空機生産では三菱と中島が両横綱、他に川崎航空や川西航空がおおどころです。
1930年恩人の代議士武藤金吉が急逝します。選挙区民は知久兵を候補に担ぎます。彼自身は政界への転身は嫌でした。少なくともその当時は。やむなく政友会から立候補し、当選します。犬養内閣で商工政務次官になります。知久平はこの時「昭和維新の指導原理と政策」という所見を発表しています。主旨は、反資本主義、国家主導による事業推進、反政党、皇室中心主義です。不況のどん底でした。中島は皇室を中心として国民が団結し、新しい産業を起こそう、と主張します。岸信介達革新官僚や永田鉄山・東条英樹達統制派陸軍官僚、さらには北一輝などの思想とあい通じます。
1937年第一次近衛内閣の鉄道大臣になります。1939年には政友会の分裂騒ぎに際して一方の総裁に担がれます。やがて大政翼賛会が作られます。知久平は翼賛政治には賛成でした。終戦、東久慈宮稔彦王内閣の商工大臣になり敗戦の詔書に副署します。
中島飛行機は1945年4月(敗戦の4ヶ月前)第一軍需工廠に指定されます。会社の総資産は、土地建物、機械装置、特許権、その他の構築物を含めて約5億円と見積もられ、これを国家が賃貸する形になります。社長は知久平で、日常作業は変わりませんが。敗戦と同時に元に戻されます。1945年8月17日中島飛行機は富士産業株式会社に社名が変更されます。知久平はA級戦犯の容疑で取り調べられます。持病の高血圧と糖尿病が悪化していたので巣鴨行きは免れ、自宅で取り調べられます。容疑は晴れます。1949年(昭和24年)脳出血で死去。享年66歳でした。
知久平の生き方を見ていると、将来の方向を定めて首尾一貫している事に気付かされます。20歳で海軍機関学校に入り、23歳で卒業。任官して、3年後には航空機への関心を鮮やかに実行し、それが海軍に認められて海軍大学選科で1年勉強。それ以後の5年は海軍部内で航空機専門で通し、33歳であっさり退任し、民間企業経営へ、と学校卒業後の10年間を無駄なく過ごしています。代議士になった時も、自らの所信と日本と世界の政治の進路を予想します。受験勉強をする時も、会社を作った時も動揺です。まず展望を持ち、予想し、それに従って行動します。
飛行機製作事業に果敢に挑んだ時、当然リスクはあったのでしょうが、彼の行動はそれもあまり感じさせません。確かに大事業ではありますが、当時の航空機の需要は殆んどが、軍需です。政府が買ってくれます。またなによりも軍需では価格より品質が要求されます。しっかりした技術があり、政府とのコネがあれば、競争は必ずしも苛烈ではありません。政府自体がその種の過当競争を嫌います。需要の大元は戦争という無限破壊競争ですから、作れば作るほど売れます。中島も三菱も終戦時には従業員がそれぞれ20万名を超えていました。しかし両社とも敗戦でぼつです。日本の重工業は戦後大いに復興しましたが、航空機産業だけは別で、航空機の生産は禁止されました。この影響はまだ残っていて、先進国で自前の戦闘機を持てない国は日本だけです。ドイツも同様でしょうか?

  参考文献  中島知久平     日本経済評論者
        日本産業史(1)  日経新聞社

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行



武士道の考察(95)

2021-06-21 21:07:31 | Weblog
武士道の考察(95)

(宋学、朱子、五倫五常)
 唐末から五代の時代にかけて思想上の民族的反動が起こります。仏教、特に華厳宗や禅宗の理論的影響を受け、それを自らのうちに取り入れ、単なる儀礼の体系や処世の智恵ではなく、哲学化あるいは形而上学化された新儒教が出現します。張横渠、程兄弟を経て南宋の朱子により大成された宋学です。
 朱子の学説は以下のように要約されます。簡単すぎるかも知れませんが、日本の儒学者はだいたいそんなところばかり力説しているのでこれで充分です。
  格物致知
  五倫五常
   君臣義 父子親 夫婦別 兄弟悌 朋友信
  修身・斉家・治国・平天下
 居敬正座
 太一 陰陽 五行
格物とは、ものにいたる ものにいたす、の意味です。要は対象を客観的に詳しく観察して極め、そこから知識を得る作業です。そうすれば君臣父子夫婦兄弟朋友という人間社会のあり方は自然に見えてくる、とされます。そのあり方が義親別悌信です。字を見ればだいたいのところは解ります。こういう人間関係を大切にすれば身を修め、家政を斉(整)え、国を治め、天下を平和に保つことができる、と説かれます。基本は格物致知、そのための方法が居敬正座、いずまいを正して静かに座り心を落ち着けて瞑想ないし熟慮観察することです。最後の太一陰陽五行は以上の実践を基礎づける形而上学です。宇宙の根源は形なき運動としての太一であり、それが運動し展開して陰陽二気に分かれ、二気の混合により木火土金水の五つの元素ができ、五元素の組み合わせで万物が生じる、と説かれます。理を一番多く持つのが人間とされます。だから人間は万物の根源である太一という理を究めることができるし、また万物の中には理の一部が必ず包含されているのだから(理一分殊)、何を観察しいかなる知識を得ても理の根源に到達できるのだ、と宋学は力説します。なお「太一」は「たいいつ」と読みます。この学説は恐ろしい可能性を秘めています。政治経済が乱れれば、それは君主個人の不徳によるとされ、君主殺害ひいては易姓革命を合理化します。
朱子はそれまでの儒学が五経を重視するのに対し、四書の意義を強調します。四書は、孔子の言行録ともいうべき論語、孟子の著作とされる孟子、さらに礼記の中の断章である、大学と中庸の四つの文献から成ります。量にして五経と四書の比は約10対1です。朱子としては五経の精髄を選抜したつもりかも知れませんが、五経から四書への中心文献の移行は儒学そのものの大きな変化を伴います。宋学(朱子学)が初めから宋王朝の士太夫に歓迎されたのではありません。異端あるいわ偽学あつかいされました。ところがしばらくして歓迎されるようになり、王朝の正統とされるようになりました。江戸時代初期徳川幕府が採用したのはこの朱子学です。
五経は成立が古くおまけに中途で秦の始皇帝の焚書坑儒を蒙っているので理解が大変です。詩経は周・春秋時代の成立で当時の民衆歌謡の収録されたものとされますが、この時代区分自体が日本の学界では疑問視されています。詩経の朱子による理解と、100年前のフランス人と日本人による訳読では内容が全く違います。違う、ってもんじゃなく別の作品のように見えます。
朱子に関する毀誉褒貶のお話を二つあげます。まず誉れの方から一話。朱子は湖南(?)の地主であり、宋が金に押されて南遷した時、民衆を率いて金軍と戦いました。次は貶めるお話。朱子は馴染みの妓女(芸者みたいなもの)がなびかないので職権を乱用し彼女を投獄(流刑?)したと言われます。             95

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社