経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

  経済人列伝 堤康二郎

2021-06-28 20:46:10 | Weblog
経済人列伝  堤康次郎

 堤康次郎から受ける印象は、がむしゃら人生、という一言に集約されます。彼は常在戦場をモット-とし、負けず嫌いで頑張屋、そして常に楽観的でした。逆に言えばかなりな程度一方的に振舞いました。この傾向は彼の家族構成に如実に示されています。
 康次郎は明治22年(1889年)滋賀県愛知郡八木荘村に生まれました。家業は麻仲買商件農業です。父親は夭折し、母親はすぐ実家に帰り再婚させられます。康次郎は祖父清左衛門に養育されました。清左衛門は老骨に鞭打って頑張ります。小学校の成績は良かったようですが、経済的事情で中学進学を断念し、農業に従事します。この間過燐酸石灰を肥料にして増産に成功したり、農事の効率を上げるために耕地整理を提案しています。ただ漫然と旧来の農法に従っていたわけではありません。栴檀は双葉より芳し、です。海軍予備学校に1年通い、卒業後郡庁に雇用されています。海軍予備学校在学時の写真はまことに可愛らしく、紅顔の美少年の趣があります。
 19歳祖父死去。康次郎は思い切って、家財を整理し、妻や妹に分配した後、東京に出て、早稲田の予科に入学します。それまでに学歴の需要さを実感していたからです。この辺の決断は素早く大胆です。それまでの郷里の人生に見切りをつけ、新しい天地に運命をかけます。早稲田入学は明治42年、20歳の時のことです。
 しかし康次郎は段々授業に出なくなります。教科書に書いてある事を長い時間をかけて聞くのが、馬鹿らしくなったからです。私も同じ経験をしたので、康次郎の気持ちはよく解ります。有名な経済学者のシュンペ-タ-にも同様の逸話があります。一方在学時代から投機に手を出しています。後藤毛織という会社がありました。康次郎はこの会社の株主総会で会社擁護の演説をします。会社に注目されて、株式買い集めを依頼され、成功報酬として数千円を手にします。これを資金として日本橋の郵便局の株を買い、局長に収まります。当時郵便局長といえば、田舎では名士、都会でもそこそこに暮らして行ける地位でした。並の人ならこの辺で実直にと、考えますが、康次郎にとってはここが出発点になります。誠に栴檀は双葉より芳し、です。
 大学本科で永井柳太郎に師事します。永井はオックスフォ-ド帰りで、イギリスの経験論やフェビアン社会主義などを学んだ、理想家肌の新進学者でした。康次郎も永井もやがて政界に進出します。康次郎の考え方にはかなり革新的な傾向がありますが、これは永井柳太郎の影響でしょう。永井とともにロシア語の勉強をします。すぐ後に「日露財政比較論」という本を康次郎は出版しています。この事は彼が単なるがむしゃら男ではなかった事を示しています。一冊の本を書くことにより、体系的思考が可能になります。堤康次郎という男の意外な一面です。少なくとも私にとっては。この間康次郎は桂太郎の新党結成運動(立憲同志会)に参加し、桂から後藤新平を紹介され、その知遇を得ています。これは康次郎の政治的資産になります。彼の初志は政治家になることでした。
 大正3年(1914年)第二次大隈内閣成立。これを機に大隈・永井を中心として公民同盟という運動が起こされます。一般民衆の国際感覚と政治意識を涵養しようとする運動です。康次郎はこの運動の責任者を志願し、機関紙「新日本」の社長になります。だから当時の彼はジャ-ナリストでした。一方、ゴム、海運、倉庫、人工真珠製造、鉱山開発、そして土地投資などいろんな分野の事業に手を出しています。あまり統一性のない・がむしゃらな事業展開です。「新日本」経営を始めとして、これらの事業が必ずしも成功したとは言えません。
 大正3年、軽井沢開発に乗り出します。特にまだ手を付けられていなかった、千が滝の開発を進めます。更に南軽井沢、後年には奥軽井沢開発に進出します。「千が滝文化別荘」と名乗って、100坪の敷地に14建坪の洋式別荘を作り、2000円で売り出しました。大きくまっすぐな道路を通し、道路水道電灯電話を完備し、日用品廉売マ-ケット、クラブ、温泉浴場、音楽場、野球グラウンド、テニスコ-ト、トラック、フィ-ルド、スイミングプ-ル、ビリヤ-ドそして児童遊戯場などを整備します。この頃から康次郎の事業経営の方向が定まってきます。
 大正8年康次郎は箱根土地開発会社(昭和19年国土開発興業と改称)を設立します。まだ開発されていな強羅地区に主力を注ぎ、駿豆鉄道を作り、箱根遊船を経営し、後には十国峠を越えた自動車専用道路を造ります。軽井沢はあくまで別荘中心ですが、箱根開発は観光資源の開発が目的です。この間大震災後の東京の土地価格の低下を利用して東京市内の土地開発にも乗り出します。併行して高田農商銀行を買収し、機関銀行とします。
 康次郎の事業を決定付けた試みは「田園都市構想」です。目白や小平、大泉などに既に進出していましたが、特に大正12年(1923年)に東京都北多摩郡谷保村に土地を購入して、そこに東京商科大学(現一橋大学)を招致して、大規模な学園都市の設立を試みます。最初「国立大学町」と命名されました。これが国立(くにたち)の名の起こりのようです。もちろん単に大学を作るだけでなく、郊外住宅地にします。康次郎は実際自ら小学校を同地に作っています。最初通学するのは、彼の会社の社員の子弟だけでしたが。堤康次郎の事業は、箱根・軽井沢・そしてこの田園都市開発と後に見る西武鉄道がその根幹になります。
 田園都市構想は時代の流れの中にあります。大正時代になると、日本の産業も発展し、企業の労働者でもない(少なくともそういう受動的意識を持たない)、そして資本家でもない、しかるべき学校を出て、企業に雇われ、その能力を提供して、企業の経営になんらかの形で参加する新中間層が出現してきます。彼らを、経営担当者まで含めて、サラリ-マン(専門用語ではドイツ語のAngestellteが適当)と言います。彼らは比較的裕福でした。彼らの生活意識にあった生活の場所として郊外の田野が開発されました。併行して鉄道網も発達します。田園都市構想はこのような資本主義の発展を背景としています。この構想は別に康次郎だけの発想ではありません。小林一三も五島慶太も同様な事をして成功しています。
 康次郎の経営する多くの会社が順調だったわけではありません。昭和に入り不況が深刻になると、開発した土地が売れず、箱根土地開発会社の資金繰りが行き詰まります。機関銀行である高田農商銀行も同様です。この時は日本銀行や日本興業銀行の融資で切り抜けます。金融機関が康次郎の企業家としての能力を高く評価してとのことですが、どうもそれだけでは、という気もいたします。
 昭和12年(1937年)康次郎は武蔵野鉄道の経営に乗り出します。同鉄道は池袋-飯能間を走行していましたが、経営不振状態でした。康次郎は株式の多数を押さえた上で、根津嘉一郎の東武系の発言を抑えて、新しい案を提出します。債権の75%を切り捨て、残り25%を基礎として新株増資をします。ほっておけば会社は潰れるのですから、この方が債権者としては有利でしょう。この資本削減を実行してから武蔵野鉄道の経営は好転します。この間多摩湖鉄道を買収しています。また昭和15年前後から、東武系の旧西武鉄道と武蔵野電鉄両社の競合摩擦が多くなり、交通事業調整委員会(会長永井柳太郎)が中に入って、結局この旧西武鉄道は、東武系を離れて康次郎の武蔵野電鉄の傘下に入ります。やがて武蔵野電鉄は西武鉄道と改称して今日にいたります。
 昭和15年(1940年)京浜デパ-トの一部であった菊屋を買収し、武蔵野デパ-トと改称し、タ-ミナルデパ-トの経営に乗り出します。このデパ-トは戦時中西武食糧会社となり、さらに西武デパ-トと改称されて今日に至っています。郷里の滋賀県のために近江鉄道の設立に尽力します。
 戦争中は極力国家の方針に協力します。食糧増産会社を作り、肥料としての糞尿を東京市内から郊外へ運ぶ任務もこなします。流木の陸上げも行いました。
 康次郎の政治活動の方はどうでしょうか。大正13年(1924年)滋賀県から立候補し衆議院議員に当選します。この時は激戦でした。相手候補が彦根藩の家老の子孫だったので、「家老の子か、土民の子か」という標語を掲げて戦いました。当選後永井柳太郎の引きで憲政会に入党します。昭和7年(1932年)44歳時、斉藤実内閣の拓務次官になります。上司の拓務大臣は永井柳太郎でした。拓務省とは、満州・樺太・朝鮮・台湾などの植民地の開発経営を主務とする役所です。康次郎には適任でしょう。
 堤康次郎の政策傾向は、軍縮と緊縮(均衡)財政でした。浜口内閣の金解禁政策に賛成し、軍部を批判し、言論の自由を主張しています。金輸出再禁止を予想したドル買いを非難して、非常時利得税法案を提出しています。高端是清の拡張経済政策を批判します。戦時体制における電力の国家管理に反対し、翼賛体制を非難します。昭和17年(1942年)翼賛選挙に出て当選。始めは出ないつもりでしたが、滋賀県知事の要請で変説します。この変節は高いものにつきました。戦後康次郎は公職追放にあい、政治活動から5年間遠ざけられます。康次郎としてはこの処置には不満だったでしょう。
 昭和26年追放解除、改進党から立候補し衆議院議員に当選。時は第三次吉田内閣、自由党も吉田派と鳩山派に分かれ、それに改進党(もう一つの保守政党)と左右の社会党がからみ、政界は混沌としつつありました。康次郎は衆議院議長になります。吉田首相の馬鹿野郎発言や造船疑獄をめぐっての吉田首相喚問問題で、国会は大揺れに揺れ、乱闘国会になります。康次郎も暴行を受け衛視に救出せれます。彼は柔道6段でしたが、議長として腕力はふるえません。私が記憶している彼の姿は新聞写真に載ったこの乱闘国会の時の姿です。ですから私は康次郎に関しては、なんとなく腕力派、かなりな程度のバ-バリアンという印象を持っていました。彼がロシア語を勉強し学術書に近い本を出していると、知った時は驚きでした。この後彼は保守合同に尽力し、岸信介に協力し、強固な反共派として振舞います。昭和39年、76歳、急死、死因は心筋梗塞でした。
 堤康次郎の生涯で特異に目立つのは、彼の婚姻関係です。21歳、西沢こととの間に長女淑子を生み、同年彼女との婚姻届を出しています。28歳、川崎ふみとの婚姻届、彼女との間に長男清が誕生しています。39歳、青山操との間に次男清二が誕生、操は康次郎の主婦の役割を引き受けると同時に、秘書でもありました。康次郎は更に石塚恒子との間に、次男義明、三男康弘を設けています。そして恒子母子を操母子と一緒に住まわせています。妻妾同居です。昭和28年康次郎が衆議院議長になる時、夫人操の戸籍上の地位が作家平林たい子氏等により指摘され問題化します。康次郎は狼狽して妻のふみと離婚し、操と正式に結婚します。この辺の事もがむしゃら堤のやり方でしょうか。こういう事情ですから、親子間の関係もややこしくなります。長男清は父親康次郎とことごとに対立するようになり、やがて家を出て堤姓を捨てます。次男清二が西武デパ-トを継ぎ、三男義明が国土開発と西武鉄道の後継者にあります。この相続もどこか偏頗なものを感じさせます。康次郎は晩年には非常に厳格な父親であった由です。
 堤康次郎の経営を見て驚かされるのは、その大胆さとがむしゃらさ、そして決断力です。やりたくなったら、やらねば収まりません。まだ少年期といってもいい頃、過燐酸石灰が肥料としていいとなると、すぐ実行しました。祖父の死を契機として財産を処分し、郷里を飛び出し、上京します。大学に入るとすぐ投資に投機、そして郵便局を経営します。政治と経営の両股をにらんで邁進します。結果として彼の本業は土地開発になりましたが、この間諸種の製造業にも手を出します。製造業はことごとく失敗しました。土地開発も、軽井沢、箱根、小平、大泉、国立、そして東京市内とあちらこちらに、ほぼ同時に着手します。五島慶太や小林一三はもっと一つの事に細心に集中しています。康次郎のやり方は四方八方、全方向同時展開です。だからいつも資金繰りがしんどい。しかし彼がやっている事業はすべて有意義であり大規模なので潰せない、となります。新規の事業で赤字を埋めてゆくのでしょうか?経営の詳しい内情は解りませんが、自転車操業という印象も受けます。政治にしても五島や正力松太郎のように、本業で功成り名遂げてから、というのではありません。若くしてジャ-ナリストまがいの事業もし、政治の世界に憧れます。総じて彼の行動は、雑然として、まとまりがないが、ヴァイタリティ-に溢れ、しかしその行動の基礎には一貫したものを感じさせます。康次郎の経営はなにがなし、彼の婚姻関係を思い出させます。康次郎は多くの事業を試みましたが、大きく成長したのは、国土開発興業、西武電鉄、西武デパ-トです。これらはすべて土地開発から出発しています。
 ヴァイタリティ-と言えば彼の柔道が典型です。康次郎は早稲田大学在学中に柔道部に入りました。もう一つ弁論部にも所属しています。38歳柔道初段、42歳2段、45歳3段、48歳4段、53歳5段、57歳6段を獲得しています。柔道では実際の実力は5段までと言いますから、康次郎は柔道の技の最高峰まで達したことになります。しかも30年かけてです。もっともこの私の観測は、彼の授段が名誉的ないとしての話ですが。ともかくその努力には驚かされます。勘は鋭く、知力にたけ、決断に富み、積極的楽観的で大胆である事は違いありません。しかしそういう言葉では表せない、ハチャメチャなスケ-ルの大きさを感じさせます。
 なおここで私は野球ファンとして西武球団の幹部に申し上げます。苦言です。もう四半世紀も前のことになります。当時の西武グル-プの総帥、義明氏は、西武球団の監督である広岡氏や森氏を呼ぶのに呼び捨てにしていました。非常に不快でした。広岡氏や森氏は確かに西武グル-プの一社員かもしれませんが、彼らは同時に野球界全体のスタ-であります。西武という一企業を出たら堤義明などという名を知っている人はほとんどありません。全国的知名度では両氏の方がはるかに上です。せめて、広岡監督とか広岡さんとか、敬称をつけるのが、礼儀ではないでしょうか。両氏に対してのみならず野球ファンに対しての礼儀でもあります。こういう非礼をあえてするのは、父親の婚姻関係の複雑さに起因するのでしょうか。まさか今でも球団監督を西武グル-プの幹部は呼び捨てにしているのではないでしょうね?

 参考文献  堤康次郎  リブロポ-ト

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行


   武士道の考察(102)

2021-06-28 18:12:08 | Weblog
武士道の考察(102)

(本居宣長)
 徂徠の弟子たちは硬派と軟派に分かれます。治世のあり方を論じるのが硬派です。太宰春台がその代表です。しかし多数は詩文とそこに描かれる人情の世界を楽しみ耽溺しました。これ歌舞伎や浄瑠璃の世界に近いですね。軟派です(堅物の秀才松平定信に嫌われるはずです)。徂徠は、礼は物、衆議の束、と明言しました。つまり彼は硬くて冷たい観念を制度文物という人情の世界に解放します。本居宣長も徂徠学の軟派です。軟派中の軟派です。
 宣長は伊勢松阪の木綿問屋の子として生まれました。養子に出されますが毎日本を読んでばかりで、養家から離縁されます。木綿業は先端産業で儲かる商売でした。商人には向かないと見た彼の母親は家に残った500両の金で宣長を京都に遊学させ医師にします。医師になるには漢籍が読めなくてはなりません。宣長は徂徠の弟子(?理解者?)堀景山に習います。ここで彼は万葉や源氏などの古典の世界を知ったようです。歌学を始めとする日本の古典は京都の公卿朝廷が握っていました。徂徠学派の得意とする文献研究は宣長の場合、日本古典の研究に向けられました。徂徠が宋学や孔孟の彼方に五経の世界を見たように、宣長は定家以来の中世歌学による固定観念を乗り越えた先に古事記の世界、日本人のもっとも古い言語風習と人情を見ました。「古事記伝」は彼の畢生の大著です。ここで宣長は漢意つまり儒教などの観念に束縛されない日本人の柔らかい人情を発見し、それを「やまとごころ」として対置します。「敷島の大和心を人問はば、朝日に匂う山桜かな」と。反対に漢意は「あだしくにのからごころ」と非難します。宣長は、先輩契沖や賀茂真淵などとともに中華思想から解放された日本人の精神や美を再発見し称揚します。宣長は終生一小児科医として医療に専念するかたわら古文献の研究に生涯を捧げます。
宣長は京都在住中当時見初めた深草たみの夫(宣長の友人)の死去を聴くや否やそれまで連れ添っていた女房を離縁し数年後たみと結婚しています。二人はめでたく鴛鴦の契りを添い遂げます。以後宣長の艶聞は聞きません。その前後宣長は源氏物語を研究していました。源氏物語には不可知な牽引力があるようです。谷崎潤一郎がいい例です。まさしく光源氏を地で行っているようなものです。私が宣長を徂徠学派の軟派中の軟派というのはその故です。
 宣長の影響を受けた平田篤胤は文献研究を政治思想に転じます。幕末の動乱期に活躍した志士あるいわ処士の多く、特に豪農層の教養人は篤胤の国学が内包する天皇崇拝と日本主義により鼓吹されます。事実とは恐ろしい。地味でかび臭い文献研究という事実の探求は一定の水準に達した時、体制変革のエネルギ-に転じます。近代初期西欧で盛んにバイブルの研究が行われました。一部の学者はラテン語で書かれた解釈書よりギリシャ語やヘブライ語の原典を読む方が、バイブルの真意が解るとして、原典研究に没頭します。この作業は宗教改革の起爆剤になります。真淵や宣長の創始した学問を国学と言います。国学の一分枝が水戸学です。周知のように水戸学は尊王攘夷の起爆剤になりました。井伊直弼を殺し幕府を再起不能にしたのは水戸浪士による襲撃です。次のその水戸学に触れてみましょう。
 源氏物語は当時も読まれていました。しかし古事記は読まれていません。いつの時代誰が読んだのかとでもいう作品です。源氏物語は日本文ができた後の作品です。古事記は日本語が形成される途上の作品です。漢字表記、万葉仮名表記、漢文表記がいりまじります。使われている言葉も時代とともに変化します。宣長は古事記の研究書である「古事記伝」を書くのに、つまり古事記の文を理解して当時の文章にするのに30年かかりました。それも古事記神代記だけです。60歳初頭5冊売り出しました。
 日本人は明治維新後西洋語を日本語にどんどん翻訳造語しました。一説によればその数20万語(つまり広辞苑マルマル一冊分)とも言われます。こういう例は世界史上まずありますまい。反対の例はあります。11世紀のノルマン征服後の200年の間英語は一切文献から消えました。書き言葉としての英語は一時消滅したのです。明治以後作られた和製漢語で現在でも中国で使われている言葉は2000語とも言われています。明らかに明治以後の言語創造には国学とそして蘭学の影響があります。しかも国学と蘭学の創始学習はほぼ同時期18世紀中葉以降なのです。明治時代日本にやってきた梁啓超は豊富な日本語に驚きどんどん翻訳しました。しまいには日本文の中の仮名を抜いて漢字のみに圧縮して出版しました。嘘のような本当のお話です。
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「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社