経済人列伝 大倉和親
大倉和親はTOTO(東陶機器)、ノリタケ・カンパニ-リミッテド、日本碍子、日本特殊陶業そしてINAX、という製陶関係業種の代表的企業を立ち上げた、人物です。和親を語る場合、彼の父親孫兵衛、そして二人が属した森村組の森村市左衛門、さらに陶器製造の実務にあたった、販売の村井保固、技術の江副孫右衛門を除いては、語れません。孫兵衛は森村組に所属していました。当時の「組」とは現在の「合名会社」のようなもので、各員がそれぞれ資本を持ち合って、共同で商売あるいは経営をしました。他に、三井組、藤田組などがあります。森村組は、相互に意見をぶっつけ合い、時には喧嘩になっても。構わない、という気風で、各員の性格が強烈な反面、共同意識が強く、分離しながらまとまって経営をしてゆきました。森村市左衛門の本領は輸出入商社ですが、彼は当時の商業資本主義に飽き足らず、彼の発案から日本の製陶業は出発します。
大倉孫兵衛は1843年(天保14年)江戸で生まれました。大倉家には四郎兵衛家と孫兵衛家の二家がありました。孫兵衛は四郎兵衛家に生まれ、孫兵衛家の養子になり、孫兵衛を襲名します。家は江戸で絵草子を販売していました。絵草子から錦絵、更に絵図、画集を出版するようになります。大倉出版という会社を造りました。大倉出版はさらに、地図、学術書、英和・独和辞典などを出版し、本格的な出版会社になります。孫兵衛は、出版業の延長上に、洋紙販売にも進出します。富士製紙と組んで、洋紙を生産し販売します。この積極的な経営法は後に製陶業において如実に発揮されます。出版社の方の経営は後に孫兵衛の義弟保五郎に任されます。大倉出版は昭和27年に廃社になっています。
孫兵衛は1876年(明治9年)に設立された森村組に入ります。森村組は日本で始めてできた日米貿易商社でした。森村組は最初多くの品を米国に輸出していましたが、やがて輸出品の主力を陶磁器に置くようになります。アメリカ人が欲しがる物はコ-ヒ-茶碗でした。コーヒ-茶碗には把手がついています。当時の日本の製陶技術では把手を付ければ、茶碗の形がぐにゃりと曲がってしまいます。硬質で純白の陶磁器を焼かねばなりません。さらに八寸皿という大型の皿(直径25-26cm)も作って輸出したいと、森村組は思います。これが難しい。こんな大皿は焼くと、中心部が垂れてしまいます。
はじめ製陶は森村組が名古屋に出張するような形で、営んでいました。名古屋近郊にある瀬戸は日本で一番たくさん陶磁器を生産していました。1904年(明治37年)に日本陶器合名会社が、愛知県愛知郡則武に、森村組から離れて設立されます。資本金10万円、うち森村市左衛門が3万円、大倉孫兵衛和親父子が4万円出資しています。代表社員つまり社長は大倉和親です。和親は明治8年に生まれていますか、社長就任当時は29歳でした。製陶業への進出には森村より大倉親子の方が、はるかに積極的でした。森村は進取的ではありましたが、まだ商人でしかなかったとも言えます。
八寸大皿を作るために、飛鳥井孝太郎という技師を雇います。彼は現在の東京工大の出身でした。原料の粘土、焼き方特に窯の温度などを調べつくさねばなりません。大倉親子はあらゆる粘土を取り寄せて試験し、欧州の製陶工場を見学します。相手も企業秘密ですから、簡単には見学させてくれません。1週間と日限を切り、工員と偽って大急ぎで技師を呼び寄せて観察させます。苦心の結果、材料の粘土にアルミナ分を加えればいい事が解ります。窯はトンネル窯という新しい方式を採用します。1914年(大正3年)に八寸大皿が完成します。日本製陶を立ち上げて10年かかりました。この間あまり製陶自体に乗り気でない、森村と孫兵衛は2度、大喧嘩をしています。大皿の完成で、技術は世界水準に達しました。すぐ大戦が勃発します。陶磁器の最大輸出国であるドイツの商品は英米には輸出できません。日本製陶はこの間隙に乗じてどんどん輸出を伸ばします。製品はノリタケチャイナというブランドで有名になります。戦争は技術をも伸ばします。技術輸入が止まると、自力で開発しなければなりません。水金製造、石膏作成、絵の転写法などの技術を独自に開発してゆきます。この間技師長飛鳥井孝太郎を解任し、江副孫右衛門を後任に据えます。八寸大皿の完成には江副の功績が大でした。
当時は日本の電力産業の勃興期でした。発電や送電の装置には碍子という絶縁体が必要です。それも高圧に耐えるものが必要です。芝浦製作所(東芝の前身)の注文に応じて、碍子専門の会社、日本碍子を作ります。社長は和親、技術は江副の担当です。資本金200万円で名古屋市熱田区に設立されました。恐慌で碍子の生産が伸び悩むと、化学工業からの注文が現れ、窮境を救います。東京硫酸会社から硫酸吸収槽が発注されました。当時は化学工業の勃興期でした。電解槽や水質浄化装置も注文されてきます。耐酸磁器、電気浸透、電解透析、下水処理、濾過用多孔質体、水質浄化装置、さらには家庭用の濾過器も作ります。
自動車産業、飛行機製造も、この時代、つまり日本製陶が大皿を完成した頃から、始まります。エンジンの点火装置にス-パプラッグが必要です。これは磁器製でないといけません。ス-パ-プラッグ製造のために、日本特殊製陶業式会社が設立されました。社長は江副です。彼は技師出身らしく、製品の均質性(conformity)にこだわりました。太平洋戦争に入り、軍部の要求は急角度に大きくなります。ス-パ-プラッグの生産拡大を要求されます。江副は品質の低下、粗製濫造を恐れて、軍部の要求を蹴ります。結果として江副は、日本碍子そして日本特殊陶業の社長の座を降ります。
1917年(大正7年)、日本陶器は衛生陶器、例えば洗面器、浴槽、便器などの分野に進出します。最初水洗便所もろくに無い日本で製品が売れるのかと心配でしたが、どんどん売れ出します。日本人は清潔好きですから。森村の一人一業主義に従って、東洋陶器という新しい会社を興します。
また和親は、愛知県常滑の伊奈家の製陶を助けて、建築用タイルを製造する、伊奈製陶を立ち上げさせます。(大正13年)今度は吸水性の低い陶磁器製造が課題になります。
他に、美術品としての陶磁器製造にも着手しました。大倉陶園です。これは和親の趣味のようでもあります。
孫兵衛は1921年(大正10年)に死去、享年78歳。和親は1955年(昭和30年)死去、享年70歳です。
孫兵衛は、良い品を作ることを終生の念願としました。企業は必ずしも資本(金銭としての)ではない、経験つまり技術だと、言い切ります。良い品を作るのに邪魔だとして、会社内外での贈答を一切禁止しました。晩年の彼の人格は次第に宗教性を帯びて来ます。和親は慶応ボウイですが、孫兵衛の血を引いたのか、常に最高の物を目指しました。数値の把握が早く、碍子や衛生陶器製造に踏み切ったことが示すように、将来の需要を見通す眼力を持っていました。TOTOは現在、衛生陶器国内市場の6割を生産しています。
大倉親子が造った、あるいは設立に極めて深く関わった、五つの会社は現在も活躍中です。一応下に社名の変遷を示しておきましょう。
日本陶器 - - - ノリタケカンパニ-リミッテド
日本碍子 - - - 日本ガイシ
東陶陶器 - - - TOTO
日本特殊陶業 - - 日本特殊陶業
伊奈製陶 - - - INAX
参考文献 製陶王国を築いた父と子 晶文社
「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行
大倉和親はTOTO(東陶機器)、ノリタケ・カンパニ-リミッテド、日本碍子、日本特殊陶業そしてINAX、という製陶関係業種の代表的企業を立ち上げた、人物です。和親を語る場合、彼の父親孫兵衛、そして二人が属した森村組の森村市左衛門、さらに陶器製造の実務にあたった、販売の村井保固、技術の江副孫右衛門を除いては、語れません。孫兵衛は森村組に所属していました。当時の「組」とは現在の「合名会社」のようなもので、各員がそれぞれ資本を持ち合って、共同で商売あるいは経営をしました。他に、三井組、藤田組などがあります。森村組は、相互に意見をぶっつけ合い、時には喧嘩になっても。構わない、という気風で、各員の性格が強烈な反面、共同意識が強く、分離しながらまとまって経営をしてゆきました。森村市左衛門の本領は輸出入商社ですが、彼は当時の商業資本主義に飽き足らず、彼の発案から日本の製陶業は出発します。
大倉孫兵衛は1843年(天保14年)江戸で生まれました。大倉家には四郎兵衛家と孫兵衛家の二家がありました。孫兵衛は四郎兵衛家に生まれ、孫兵衛家の養子になり、孫兵衛を襲名します。家は江戸で絵草子を販売していました。絵草子から錦絵、更に絵図、画集を出版するようになります。大倉出版という会社を造りました。大倉出版はさらに、地図、学術書、英和・独和辞典などを出版し、本格的な出版会社になります。孫兵衛は、出版業の延長上に、洋紙販売にも進出します。富士製紙と組んで、洋紙を生産し販売します。この積極的な経営法は後に製陶業において如実に発揮されます。出版社の方の経営は後に孫兵衛の義弟保五郎に任されます。大倉出版は昭和27年に廃社になっています。
孫兵衛は1876年(明治9年)に設立された森村組に入ります。森村組は日本で始めてできた日米貿易商社でした。森村組は最初多くの品を米国に輸出していましたが、やがて輸出品の主力を陶磁器に置くようになります。アメリカ人が欲しがる物はコ-ヒ-茶碗でした。コーヒ-茶碗には把手がついています。当時の日本の製陶技術では把手を付ければ、茶碗の形がぐにゃりと曲がってしまいます。硬質で純白の陶磁器を焼かねばなりません。さらに八寸皿という大型の皿(直径25-26cm)も作って輸出したいと、森村組は思います。これが難しい。こんな大皿は焼くと、中心部が垂れてしまいます。
はじめ製陶は森村組が名古屋に出張するような形で、営んでいました。名古屋近郊にある瀬戸は日本で一番たくさん陶磁器を生産していました。1904年(明治37年)に日本陶器合名会社が、愛知県愛知郡則武に、森村組から離れて設立されます。資本金10万円、うち森村市左衛門が3万円、大倉孫兵衛和親父子が4万円出資しています。代表社員つまり社長は大倉和親です。和親は明治8年に生まれていますか、社長就任当時は29歳でした。製陶業への進出には森村より大倉親子の方が、はるかに積極的でした。森村は進取的ではありましたが、まだ商人でしかなかったとも言えます。
八寸大皿を作るために、飛鳥井孝太郎という技師を雇います。彼は現在の東京工大の出身でした。原料の粘土、焼き方特に窯の温度などを調べつくさねばなりません。大倉親子はあらゆる粘土を取り寄せて試験し、欧州の製陶工場を見学します。相手も企業秘密ですから、簡単には見学させてくれません。1週間と日限を切り、工員と偽って大急ぎで技師を呼び寄せて観察させます。苦心の結果、材料の粘土にアルミナ分を加えればいい事が解ります。窯はトンネル窯という新しい方式を採用します。1914年(大正3年)に八寸大皿が完成します。日本製陶を立ち上げて10年かかりました。この間あまり製陶自体に乗り気でない、森村と孫兵衛は2度、大喧嘩をしています。大皿の完成で、技術は世界水準に達しました。すぐ大戦が勃発します。陶磁器の最大輸出国であるドイツの商品は英米には輸出できません。日本製陶はこの間隙に乗じてどんどん輸出を伸ばします。製品はノリタケチャイナというブランドで有名になります。戦争は技術をも伸ばします。技術輸入が止まると、自力で開発しなければなりません。水金製造、石膏作成、絵の転写法などの技術を独自に開発してゆきます。この間技師長飛鳥井孝太郎を解任し、江副孫右衛門を後任に据えます。八寸大皿の完成には江副の功績が大でした。
当時は日本の電力産業の勃興期でした。発電や送電の装置には碍子という絶縁体が必要です。それも高圧に耐えるものが必要です。芝浦製作所(東芝の前身)の注文に応じて、碍子専門の会社、日本碍子を作ります。社長は和親、技術は江副の担当です。資本金200万円で名古屋市熱田区に設立されました。恐慌で碍子の生産が伸び悩むと、化学工業からの注文が現れ、窮境を救います。東京硫酸会社から硫酸吸収槽が発注されました。当時は化学工業の勃興期でした。電解槽や水質浄化装置も注文されてきます。耐酸磁器、電気浸透、電解透析、下水処理、濾過用多孔質体、水質浄化装置、さらには家庭用の濾過器も作ります。
自動車産業、飛行機製造も、この時代、つまり日本製陶が大皿を完成した頃から、始まります。エンジンの点火装置にス-パプラッグが必要です。これは磁器製でないといけません。ス-パ-プラッグ製造のために、日本特殊製陶業式会社が設立されました。社長は江副です。彼は技師出身らしく、製品の均質性(conformity)にこだわりました。太平洋戦争に入り、軍部の要求は急角度に大きくなります。ス-パ-プラッグの生産拡大を要求されます。江副は品質の低下、粗製濫造を恐れて、軍部の要求を蹴ります。結果として江副は、日本碍子そして日本特殊陶業の社長の座を降ります。
1917年(大正7年)、日本陶器は衛生陶器、例えば洗面器、浴槽、便器などの分野に進出します。最初水洗便所もろくに無い日本で製品が売れるのかと心配でしたが、どんどん売れ出します。日本人は清潔好きですから。森村の一人一業主義に従って、東洋陶器という新しい会社を興します。
また和親は、愛知県常滑の伊奈家の製陶を助けて、建築用タイルを製造する、伊奈製陶を立ち上げさせます。(大正13年)今度は吸水性の低い陶磁器製造が課題になります。
他に、美術品としての陶磁器製造にも着手しました。大倉陶園です。これは和親の趣味のようでもあります。
孫兵衛は1921年(大正10年)に死去、享年78歳。和親は1955年(昭和30年)死去、享年70歳です。
孫兵衛は、良い品を作ることを終生の念願としました。企業は必ずしも資本(金銭としての)ではない、経験つまり技術だと、言い切ります。良い品を作るのに邪魔だとして、会社内外での贈答を一切禁止しました。晩年の彼の人格は次第に宗教性を帯びて来ます。和親は慶応ボウイですが、孫兵衛の血を引いたのか、常に最高の物を目指しました。数値の把握が早く、碍子や衛生陶器製造に踏み切ったことが示すように、将来の需要を見通す眼力を持っていました。TOTOは現在、衛生陶器国内市場の6割を生産しています。
大倉親子が造った、あるいは設立に極めて深く関わった、五つの会社は現在も活躍中です。一応下に社名の変遷を示しておきましょう。
日本陶器 - - - ノリタケカンパニ-リミッテド
日本碍子 - - - 日本ガイシ
東陶陶器 - - - TOTO
日本特殊陶業 - - 日本特殊陶業
伊奈製陶 - - - INAX
参考文献 製陶王国を築いた父と子 晶文社
「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行