経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

  経済人列伝  辰野金吾

2021-06-17 23:22:51 | Weblog
経済人列伝  辰野金吾

 辰野金吾はわが国建築学の草分けであり、日銀本店や東京駅を設計した、明治建築界の巨頭、法王と言われた実力者です。金吾は1854年(嘉永7年)、黒船来航の直後、肥前唐津藩(佐賀県唐津市)の下級武士の子として生まれました。生家は姫松、次男ですので辰野家(伯父に家)に養子にゆきます。姫松家の家禄は年三両、家職は賄い、でした。厳密に言えば、正式の戦士とはいえない低い階層でした。辰野家も同様です。唐津藩は維新政府とは敵対関係にありました。唐津藩小笠原家は譜代大名であり、藩主の養子である小笠原長行は世子ながら幕府の老中を務めます。第二次長州征伐では小倉口の総指揮官として参戦し、高杉晋作に手ひどく打ち破られています。長行は幕府崩壊後も抗戦し、函館までゆき、五稜郭陥落後は地下にもぐり、明治5年に自首して赦免されています。明治政府としては最も嫌いな関係に唐津藩はありました。金吾はそういう藩の下級武士の家に生まれています。唐津にもできた洋学校で、高橋是清から英語の手ほどきを1年間受けます。高橋を頼って、先輩の曾禰達蔵とともに上京します。高橋のつてで耐恒学舎の英語教師を務め(かなりいんちきっぽい教師ですが)、傍らに英人事務所のボ-イをして糊口をしのぎます。
工部省が工学寮を作り、生徒を募集しているとの情報知り、応募します。高橋の情報網によります。授業料は無料、小遣いまで出ます。ただし卒業後7年間は教職か公務員として働く義務があります。曾禰と金吾は合格します。金吾は30人中の最下位でした。工学寮は後に工部大学校、さらに東京大学工学部になります。金吾は最下位入学なので、常に勉強します。勉強しなければ、基礎学力も英語力も弱いのでついてゆけません。工学寮の学科は、土木学、機械学、電信学、造家(建築)学、化学、鉱山学、冶金学の七学科です。曾禰も金吾も土木科や機械科を望みましたが、競争がはげしくて、やむなく造家学つまり今日の建築学を専攻することになります。金吾は勉強し続けます。最下位入学という負目を背負い、学力不足である事を知っている、金吾は猛勉強をします。彼は努力主義の人でした。
最初の教師には恵まれませんでしたが、代ったジョサイア・コンドルから、金吾は大きな影響を受けます。コンドルは、建築学を勉強するものには技術の知識だけでなく、芸術の素養が必要と説きます。コンドル自身、当時の欧州で流行していたジャポニスムの影響を受けて、日本の美術や建築に興味を持ち、狩野派の河鍋暁斎に絵を学び、暁英という名までもらっています。コンドルは任期が切れた後も、日本に留まり、建築設計事務所を経営します。コンドルが課した建築学の学習内容は、設計製図、意匠、構造力学、設備、衛生、材料、施工、積算、建築史でした。
努力の甲斐あって、金吾は建築(造家)学科5人中のトップで卒業し、特権として3年間の英国留学に出かけます。同行者には化学科の高峰譲吉がいます。英国についた金吾はロンドン大学のR・スミス教授を訪ねます。スミスはジョサイアの恩師でありまた従兄でした。ロンドン大学での授業はなかなか解らなかったようです。問題は英語力でしょう。日本でも教授陣はすべて英語で講義しますが、そこは手加減してわかり易くゆっくりと話してくれます。英国本土ではそうはゆきません。ただこの大学で出された試験の問題は金吾に大きな印象を与えます。次のような問題です。「建築において国民的な様式を形成するにあずかる影響力のいくつかを指摘せよ」です。金吾は大学で勉強するかたわら、W・バ-ジェスの建築設計事務所で働きます。むしろこちらの方が勉強になったようです。バ-ジェスは、建築はその国の歴史を反映するその国固有の文化だと、金吾に教えます。ここで金吾は自分の使命を自覚します。日本という国が近代国家を確立する歴史事象を表現し顕示する建築物を造る事がおのれの使命であると、自覚します。金吾の留学中にバ-ジェスは死去します。バ-ジェスはよほどこの日本の青年が気に入ったのか、50ポンドを彼に遺贈しています。1882年(明治15年)ロンドン大学卒業、帰路フランスで1年遊学し、明治16年帰国します。
工部省営繕課に勤務します。渋沢栄一の依頼で、銀行集会所の設計をしています。この時渋沢が金吾に示した、将来の東京都市建造計画をしり、建築の歴史的意義をさらに深く自覚します。明治17年コンドルの任期が切れると同時に、工部大学校教授に就任しています。日本人で始めての建築学の教授です。しばらくして大倉喜八郎にそそのかされたのか、急に大学教授を辞めて、大倉土木用達組に就職します。そこも2週間で辞め、町の一角で事務所を構えます。周囲の尽力で明治19年大学に復職(?)します。この辺の経緯には解らないところがあります。大学で建築設計の仕事が閑だったのかもしれません。いずれにせよ金吾の性格は、興奮しやすく、感情の起伏が激しく、即行動で、人の好き嫌いが激しいのです。だから彼の人生にはかなり飛躍した行動があります。この間友人の曾禰達蔵とともに、造家学会(建築学会)を立ち上げます。
鹿鳴館時代の演出で有名な井上馨が、東京市を諸外国の首都に負けない立派なものにするために、臨時建築局を創設し、自ら総裁におさまります。井上は鹿鳴館外交が不人気で外相をさります。臨時建築局の総裁は山尾庸三になり、山尾は金吾を工事部長に任命します。建築の実際を取り仕切る役職です。しかし部長の配下の中堅技術者達の、彼らは旧幕府の作事方出身が多いのですが、諸々の抵抗にあい、怒って3ヶ月でここを辞職します。
渋沢栄一と山尾庸三の支援で、日本銀行本店の設計を委任されます。日銀は松方デフレ政策が一段落した、明治22年に設立されています。同年金吾は設立計画書を提出します。それ以前に欧州をまわり、H・ベイヤ-ル設計になるベルギ-中央銀行を見て、これをモデルとします。23年起工、29年完成、日本が金本位制になる2年前でした。時に金吾は36歳です。日銀本店はまるでお城のようだと、言われました。日清戦争を前にして、明治国家確立のための国防意識を反映しているともいえましょう。この国防意識は欧州の小国ベルギ-の建築家ベイヤ-ルが金吾に説いたところのものです。私の意見を付加すれば、日銀の創設は通過流通量の管理にあります。日銀は通貨の万人ですから、そういう役割も建築に反映されたのでしょうか?いずれにせよ、銀行は堅いイメ-ジの方がいいでしょう。
日銀本店建設中に若干の逸話があります。建築所事務主任という肩書きで高橋是清が配属されてきました。建築所の責任者は金吾ですから、かっての先生は今では下僚です。高橋の前半生は、はちゃめちゃです。アメリカに渡り軽率な署名をしたために、奴隷生活を3年送ります。帰国して大学南校(東大の前身)の教師をしている時に、芸者と駆け落ち、借金取りの目をくらませるために変名し、唐津までゆきます。さらにペル-鉱山の話で騙され、無一文になった上に山師の汚名を浴びます。西郷従道や松方正義のひきで、川田総裁は高橋を日銀の臨時職員に採用し、前記のように金吾の下で働くようになりました。高橋は有能ですから、金吾が知らない世界の案件をてきぱきと片付けてくれます。大いに役に立ちました。最も日清戦争が勃発したら、すぐ正職員になり日銀西部支店長になり、活躍します。以後の高橋の行動は水を得た魚で、日露戦争時、ロンドンで日本の国債引き受けに活躍し、日銀総裁から、蔵相さらに首相となります。彼の最後はご存知の通りです。私はこの85歳の老政治家を惨殺した青年将校なるものの心情が解りません。昭和天皇が激怒されたと、伝えられますが、全く同感です。
金吾は感激屋です。バンザイが大好きでした。日新日露の戦争は彼を興奮させます。日本海海戦で日本海軍がロシアのバルチック艦隊を撃滅した時は興奮して、家人も困ったそうです。
1902年(明治35年)に東京帝大教授を辞任します。建築学会の一方の雄である、妻木頼黄と不仲で、口論に際し激情に駆られる形で辞職します。むしろこれを機に、民間の設計事務所一本で、食ってゆこう、それが建築家の本来のあり方だ、その道を実践しようと決意したようです。当時の日本には、金吾の師匠コンドル、同窓の曾禰、教え子である横河民助、そして新たに辰野事務所の四つしかなかったようです。金吾は大阪と東京に事務所を構えます。金吾の設計の8割は以後、つまり設計事務一本になってからの作品です。どういうわけか大阪の方の発注が圧倒的に多かったようです。
1908年(明治41年)に起工された中央駅の設計を依頼されます。当時の東海道本線は新橋どまりで、東京市内の中枢には引かれていませんでした。皇居の側を汽車が通過するのは畏れ多いとか、いろいろな事情があったようです。線路を現在の丸の内に引き込み、より便利にしなければなりません。そして都市の顔である中央駅は立派なものでなければなりません。計画はドイツ人F・バルツア-に委任されすでに設計図はできていました。ロシアと昵懇なドイツを政府は嫌い、計画はドイツ人技師の手から取り上げられ、日本人の設計に任されることになりました。金吾は、平面図はバルツア-の原案を取り、立面図に彼自身の創意工夫をこらしました。アムステルダム中央駅をモデルにします。バルツア-から金吾への推移は、駅の設計は土木技師がするのか、建築家が行うかの問題、そして建築は単なる技術か、それとも芸術の側面をももつのか、という問題を抱えます。建設の途中鉄道院総裁が後藤新平になり、予算が42万円から、287万円、ざっと7倍になります。これで二階建ての駅舎建築が可能になりました。後藤は、中央駅は日露戦争に勝ち、近代化の道を歩む日本という国家の威信を表現できる堂々たるものにせよと、発破をかけます。
建築物をレンガ製にするか、新たに開発されたコンクリ-ト製にするかで、金吾は高弟である松井清足と対立し、松井は辰野事務所をやめます。この事件は究極的には、建築は技術か芸術かという問題に帰着します。工事は6年半係り、1914年(大正3年)に完成します。東京駅と命名されます。あたかも第一次世界大戦勃発の年です。日本はドイツ領である山東半島を攻め、ドイツ軍を降します。勝って当たり前の戦闘なのですが、ドイツに勝った、清・ロシアについでドイツに勝ったとして、神尾光臣中将の凱旋記念と、東京駅完成の式典が併せて行われました。なお松井は金吾の死後、再び辰野事務所に帰り、事務所の経営を立て直しています。
新たにできた東京駅の風評は、こと建築学会からに限れば、不評でした。特に若手建築家からの評判は悪かった。金吾は建築学会のボス・法王といわれる存在でしたが、彼を堂々と批判する論文も載ります。古い、不便だなどです。古いは、コンクリ-トを使わず赤レンガで建物を作ったからです。金吾はこのような批判にも関わらず、自らは自らが設計してできた東京駅舎に深い満足を覚えます。赤レンガは金吾達の世代が欧米の文明にキャッチアップしようとした時の、西洋文明の象徴であり、だから金吾達の憧れである以上に、彼らが近代化という坂を上る日本人の精神の表現でした。赤レンガはこの世代、つまり食うか食われるか、優勝劣敗の厳しい時代を生きる世代の精神の、従って近代化という日本人にとって避けられない課題を果そうとする精神の表現であり象徴でした。金吾にとって赤レンガの建造物は歴史であり文化でした。
金吾は国会議事堂の設計にも意欲を示します。もっともそうではないという意見もあります。彼は設計競争(competion)を提案します。しかし第一次選考の一ヵ月後にはこの世にいません。肺炎が悪化して、1919年(大正8年)に死亡しています。死の床で金吾は思い切りバンザイを叫んで、眠るように死去しました。享年は65歳でした。金吾の行動には奇矯なところもあります。相撲が大好きで、家のふすまをばりばりに破って放置しておくのみならず、息子二人を出羽海部屋に預けたとかいう話もあります。ちなみに長男の隆は東大法学部を出ますが、文学部に再入学し、フランス文学の研究に打ち込み、日本で始めてのフランス文学講座(東大)を開設します。彼が仏文に転向するに際して親子間で対立があり、金吾は長男のこの決定に長く反対します。次男の保は東大法学部を出て、弁護士になっています。日本体育協会理事も務めました。二人とも幸か不幸か、父親の希望に背いて(?)関取にはなりませんでした。
 
参考文献  東京駅の建築家、辰野金吾  講談社

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行


台湾に学ぼう

2021-06-17 18:14:10 | Weblog
台湾に学ぼう

 周知のように台湾は、外国からのワクチン購入を中国に妨害され、日本経由で数百万人分買うことができた。問題は接種の優先順位である。まず医療関係者、次に税関などの対外接触機関、次に軍人および警察官である。その次に老人が来る。日本ではともかく老人老人と弱者(?)尊重で治安や国防は二の次である。日本と台湾のこの差は対外危機意識の差である。常に中国の侵襲に脅える台湾はワクチン接種でも軍事と治安を優先させる。対して日本は福祉(言い出せばきりのない支出になるが)優先で治安軍事は二の次三の次である。政府が自衛隊員に優先的にワクチン接種を行えば共産党とその別動隊の立民党が騒ぐであろう。日本は台湾を見習うべきである。    2021-6-17

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社

    武士道の考察(91)

2021-06-17 17:53:15 | Weblog
 武士道の考察(91)

(切腹、忠誠と反逆)
 切腹の風習はいつごろから始まったかは解りません。蝦夷人との戦闘の時、首を取る習慣が内地へ伝わったと聴きます。首級を挙げるのは勝利と戦果の孤児です。敵に見せ、味方に見せ、主君の見参に入れて戦功を確認します。切腹もある意味では勝利の誇示です。敗軍に際して自分は決して屈服しないという意志の表明です。切腹は戦闘継続と主君と同輩への帰属ないし忠誠への誇示表明です。主君から切腹を命じられた時、切腹者はそれを自らが自らを処分する形で引き受けます。これは一面主君や組織への忠誠の表明ですが、反面主君と自分は対等という自己主張でもあります。
 切腹の馳走、という習慣がありました。北条氏が鎌倉で滅びた時、高時以下の500名が集団自決をします。この時ある武士は自ら先に切腹し息のあるうちに大杯で酒をのみ、それを指名した武士に与えます。この武士も同じように腹を切って杯を次の者に指名します。このような行為を順番に繰り返したと伝えられます。500名全部ではないが、名誉あるあるいは身分の高い、あるいは主君高時に特別の感情を抱く人たちの間ではこの切腹の馳走が行われました。この行為は死の交換と共有を媒介する忠誠と連帯の確認です。自らの腹を切って内臓をさらすのですから肉体の極限を媒介します。肝胆相照らすという諺の意味を超えて、同性愛的な連帯感の表明です。
 切腹が文献に盛んに見られるようになるのは平家物語のころからです。木曽義仲の郎党は、義仲が妻である摂政藤原基房の娘との別れに逡巡し、最後の戦闘への決断を下さないのを見て、自らが腹を切って主君の決断を促します。そのころから自害切腹は武士の習いになります。戦闘に参加した武士のみながみな切腹したわけではありません。多くの者は退却逃走や戦場離脱を選びます。生きていての人生です。彼らには護るべき家と所領があり、一所懸命です。自害し切腹したのは、そうしなければ主君や同輩に申し訳が立たない一部の人でした。
 切腹は戦国期に儀式化します。武田信玄に滅ぼされた諏訪頼重は、腹を十文字に切り最後に心臓を突いて息絶えたと聴きます。当時の段階ではこれが正式な切腹だそうです。しかしここまでできる人はざらにはいません。そこで介錯が入ります。腹を一文字に切った段階で首を打ち落とします。腹は深く切っても死ぬのに時間がかかります。解釈は死の苦痛を和らげるためです。解釈は、助ける・世話する・介抱することです。これも連帯感の表明になりましょう。豊臣秀次が切腹する時、殉死する近臣の切腹を一人一人介錯してやり、その死体の始末までして、最後にある僧侶に介錯を頼んで自刃しました。秀次はあまり良く言われませんが、この行為から解るように極めて非政治的な歌舞伎者でした。江戸時代にも切腹は行われます。しかし行為はだんだん簡素化します。自らは腹を切らないで三宝に置かれた短刀に手を出します。この瞬間伸びた首を切り落とします。赤穂浪士の切腹はこのようなものでした。さらに三宝に置かれる短刀が扇子に変わります。解釈と打ち首は全く別の意味を持ちます。打ち首は罪人に適用される刑罰で首は胴体から切り離されます。介錯では首の皮一枚が残されます。それが切腹人への礼儀です。間違って首を切り離すと、場合によっては介錯人自身が腹を切らねばなりません。刑は士太夫に登らずと言われます。士太夫である武士は主君から刑罰を執行される前に、自ら罪を恥じて自決すべしとされます。切腹は武士が主君から給わる恩恵であり名誉刑です。
(心中)
 心中は元禄時代に非常に流行します。鸚鵡籠中記(おうむろうちゅうき)によると、ある年京・大阪でやく700件近くの心中が起こったとか。なぜこの時代かは解りません。特別不幸な時代であったとも思えません。生命の危険という点では戦国期の方がはるかに物騒な時代でした。豊富の中の倦怠あるいは閉塞感でしょうか。それなりに理屈は付けられます。この時代は武士が貧困化し、町人が実力をつけてきた時代でした。時代の変わり目、あるいは主役の交代の時期とも言えます。心中も殉死に似ます。主役が町人に移り、遊郭がからむことが多くなります。念者との違いは対象が同性か異性かの違いだけです。歌舞伎者同様に心中する人間は自己を顕示します。心中の流行を、武士階層の気風の町人階層への伝播と理解する事も可能です。
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