経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝  大倉喜八郎

2021-06-13 21:08:47 | Weblog
経済人列伝  大倉喜八郎

 大学の同級生の一人が建築学科でした。彼から教わったのですが、当時の(1960年代)日本には4(5?)大建設会社というものがありました。清水、大成、竹中、大林でしたか?日本を代表する建設会社大成建設の創始者が大倉喜八郎です。喜八郎は新潟県新発田の名主の子として1837年に生まれます。安田善次郎とほぼ同時期です。家は質屋もしていました。幼名を鶴吉といい、早くから商いに従事し、商才を発揮して小太閤とあだ名されます。初学はみっちり仕込まれたようです。漢籍になじみ、同時に読み書きそろばんという商人にとって必須の教養も身につけます。
 江戸へ出て鰹節を商います。やがて大倉屋と改称し、鉄砲商になります。幕末の動乱の時、彰義隊にあやうく斬られそうになります。彰義隊が注文した鉄砲を渡さないからです。彰義隊が支払わないのだから当然なのですが。この時津軽藩はほとんど幕府側に立った奥州の中で例外的に薩長側でした。津軽藩から鉄砲の注文が来ます。敵の中をあえてくぐって津軽に鉄砲を運び、感謝されます。喜八郎としては時代は薩長官軍の側と読んでいたのでしょう。
 明治4年岩倉遣米使節の後を追って渡米します。こうして新政府と縁を作って行きます。帰国して大倉組商会と改名します。明治7年台湾出兵に際し、官軍御用達となり台湾に行きます。軍隊(4000-5000名くらいでしょうか)の食料、衣料、住居などなど一切を賄う仕事です。多分娼妓も同行したと思います。台湾は瘴癘(伝染病)の地で、遠征軍の3割が病に倒れます。喜八郎のもくろみは成功せず、かなり損をします。朝鮮貿易にも手を出します。西南戦争では同様に御用達になり三菱の岩崎弥太郎と並んで(の次に、と言うべきかな)巨富を得ます。戦争には設営が必要です。それに人夫の手配など人入れ稼業も要ります。こうなると戦争に従軍する商人の儲け所は運輸と建設になります。岩崎は前者を、大倉は後者に傾いたのでしょう。
 大倉喜八郎が建てた建築物として有名なのはジョサイア・コンドルの設計による鹿鳴館です。当時東京には土地はいくらでもありました。大名旗本屋敷の跡地がごろごろしていましたから。東京府会議員になり、東京商法会議所(現在の商工会議所)に参加します。明治13年に火災防止起債取調べ委員会ができました。火災保険の制度を作るためです。この委員は、渋沢栄一、益田孝、福地源一郎、安田善次郎、三野村利左衛門、そして大倉喜八郎です。渋沢は経済界の指導者、三野村は三井の代表、益田は三菱の大番頭、福地は旧幕臣でジャ-ナリスト第一号、安田は生命保険の先駆者です。大倉喜八郎はそういう錚錚たる人物の中に伍してゆける存在でした。
 明治15年大阪合同紡績ができます。この会社はそれまでの紡績会社とは一桁違う規模のもので、しかも日本人だけで経営するという前代未聞の会社でした。渋沢栄一の指導力がここでも発揮されます。渋沢は大倉喜八郎を関西に遣り、大阪の藤田組と工場建設に共同させます。明治20年日本土木会社が設立され、喜八郎が社長、藤田と渋沢が取締役になります。この会社は、天神橋、琵琶湖疏水、佐世保軍港、帝国ホテル、日本赤十字病院、工科大学校(東大工学部の前身)、東京郵便電信局、女子学習院、帝国京都博物館、海軍兵学校、名古屋鎮台などを建設します。さらに明治22年に開通した東海道本線のうち、浜松-豊橋-岡崎-大府(名古屋のすぐ近く)間の建設も引き受けます。これらの建築物を一覧すると、明治20年前後から安定してきた日本経済を背景として日本の基本的なインフラを日本土木会社が請け負って急成長してきた事がわかります。
 この会社は明治25年に解散します。理由は公共建築物の建設に競争入札制ができたからです。それまでは一部の企業家と政府が談合して請け負わせていたのです。なんとなく語るに落ちた感もありますが、企業とか制度の創成期にはこういう談合も必要だったのでしょう。
 社名は合名会社大倉組になります。喜八郎は台湾の砂糖工場建設も提唱します。日清戦争で朝鮮を保護国同然とした日本は将来の対露戦争に備えて満州への鉄道建設に邁進します。京釜鉄道、京義鉄道などの建設も大倉組は請け負います。1927年上野・浅草間に
日本で初めて地下鉄ができました。この工事も請け負います。
 大倉喜八郎は他に多くの企業設立に参加しました。中で一番ポピュラ-なのは札幌麦酒です。彼の信条は、営利第一・投機せず・銀行を持たず、でした。1928年没、享年92歳でした。大倉組は第二次大戦後社名を大成建設に改めて今日に至っています。以上の記載は、「大倉喜八郎の豪華なる生涯---砂川幸雄著---草思社」に従いました。

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行

  なんでいまごろ内閣不信任案?

2021-06-13 19:43:02 | Weblog
 なんでいまごろ内閣不信任案?

 立民党を中心とする野党が内閣不信任案を提出するとかいう話だ。何で今時、と疑問に思う。現在緊急の問題はコロナ、特にコロナワクチン接種である。少し遅れたがこの作業は軌道に乗りつつある。7月中にワクチン接種を軌道に乗せ、課題である五輪を乗り切り、それから内閣は国民に信を問うてもいいはずだ。
 不信任案を出されれば現状では否決される。ただこの種の案の提出自体内閣にとってマイナスになる。仮に菅内閣が解散を打てばコロナ災禍の最中に総選挙となり、ヴィ-ルスが飛び交う中での選挙カ-や演説の催しとなる。危険で馬鹿臭い話だ。立民党の枝野氏は考慮中と言い、自民党の二階氏は解散も有りうる、という。いずれにしてもここ2-3か月はコロナワクチン接種に専念してほしい。
 なおコロナ災禍の最中もし選挙が行われたら、不正投票がありうると思っていてほしい。コロナを理由に郵便で投票とか野党が言い出しかねない。私は昨年のアメリカ大統領選挙では大規模な不正が行われた、と確信している。投票を管理するのは地方の公務員だろうが、自治労が噛めば不正投票は簡単にできる。10年前の民主党政権の再現だけは御免だ。悪夢というより国家崩壊につながる。        2021-6-13
(注)疫病の対策は誰がしても文句を言われる。なんくせを付ければいくらでも着けられる。そういう意味で現政権は貧乏くじを引いたのだ。だからいちいち言い訳をせずに黙々と頑張ってほしい。

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社

    武士道の考察(88)

2021-06-13 13:43:41 | Weblog
武士道の考察(88)

(念者、同性愛)
 念者(ねんじゃ)は念う(おもう)者です。念う相手かも知れません。念うは恋する、異性でなく同性を恋慕することです。念者は同性愛者・男色衆道者の異称です。現在アメリカ合衆国で人生の一時期に同性愛を経験する男性の少なくとも25%、生涯同性愛に留まる者は4%という統計もあります。潜在的には男性の1/4が同性愛を経験することになります。アメリカがそうなら日本もそうかも知れません。同性愛は日本では万葉の昔からありました。大伴家持が典型です。平安時代後半武士の世になると同性愛は増えます。寺院は同性愛の本場でした。若い稚児の大半は成年僧侶の愛人でした。女犯は罪になりますが衆道は罪過にはなりません。戦国時代のことは記録がないのでよく解りません。織田信長は前田利家(犬千代)、森蘭丸、万見仙千代などを衆道(同性愛)の相手として楽しみました。武田信玄も有名です。足利将軍家でも衆道は盛んでした。江戸時代に入ると記録は豊富になります。徳川家光は衆道に耽溺し、幕閣首脳は一時後嗣のことで悩みました。江戸時代初期、男色は武士の間で(庶民のことは記録が少ないだけの問題でしょう)非常にさかんでした。以後も衰えたという様子はありません。影間茶屋というこの道専門の売笑窟もありました。具体的事例は井原西鶴の「男色大鑑」にゴマンと載っています。だいたいこんな本が公然と出版されること自体が極めて日本的現象なのです。
 確か会津藩だったと思います。適齢期つまり14歳から18歳くらいになった武士社会の青少年は、地域の先輩の男色の対象となることを経験する義務と習慣がありました。拒否するとその家が集団で襲われます。息子の貞操(?)を護ろうとする父親と若い侍衆の間に押し問答があり、父親が何か賄賂(?)を贈りこの災い(?)を免れたということです。一定年齢に達すると同性愛関係を先輩後輩の間で持つ風習は会津のみならず薩摩や土佐でも同様でした。他の藩でも同じでしょう。このように相手の男性を念う者を念者(ねんじゃ)と言います。念者の年下の方は前髪姿(武士の幼童期の姿)を保ちます。相手の了承なしに勝手に前髪を下ろすことは、念者関係の破棄を意味し、しばしば血の雨が流されます。念者が相手を変えるとえらいことになります。この関係の嫉妬は特別で男女関係の嫉妬どころの騒ぎではありません。男女間の嫉妬は個人的ないし秘密で、それを表にさらすのは恥とされますが、衆道関係では隠蔽は許されません。隠蔽自体が恥・不覚悟なのです。仲間を呼び合い集団闘争になります。典型的な年下の念者は色小姓です。前髪を垂れ振袖を着て袴姿で両刀を落とし差しに帯びるという風体です。宝塚歌劇で時々見かけます。非常に美しい。一見女のようですが、彼らも闘争に参加すれば激しく戦います。大名の小姓は必ずしも前髪姿とは限りませんが、前髪姿の場合はまずその殿様の念い者と見ていいようです。
 江戸時代対馬藩に仕え対朝鮮外交を担当した雨森芳洲という儒者がいます。彼は、朝鮮の使節に日本の男色を非難された時あっけらかんと、大兄はまだその味をご存知ではない、と答えました。
 当時から明治にかけて義兄弟と言えば同性愛関係の別称です。武士社会でも農村でもよく見られました。時代と国が急に飛びますが、三国志の劉備・関羽・張飛は義兄弟です。彼らもこの種の関係にあったかも知れません。次兄の関羽が死ぬと、残る二人はまるで自滅するように亡くなります。劉備と孔明の関係も怪しいと言えば怪しい。水魚の契りゆえに寝食を共にしたとか、これはベッドを共にしたともとれます。漢籍では同性愛のことを「断袖の情」と言います。                          88

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社


  世論調査について

2021-06-13 11:54:13 | Weblog
世論調査について

昨日午後1時ころ電話がかかってきて、冒頭の説明も聴く暇なく「次の質問に答えてください」という自動録音の声の後、「内閣を支持していますか、指示していない人は①を云々のアナウンスがあった。こちらの言う事は一切無視、冒頭の説明も聞き取る閑なし。どこかのメディアがしているのだろうが、これが世論調査なるもので、世論とやらを作る素材なのか。その一方的な対応には一驚した。商品の広告の方がずっとましだ。
                               2021-6-13
「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社