経済人列伝 大倉喜八郎
大学の同級生の一人が建築学科でした。彼から教わったのですが、当時の(1960年代)日本には4(5?)大建設会社というものがありました。清水、大成、竹中、大林でしたか?日本を代表する建設会社大成建設の創始者が大倉喜八郎です。喜八郎は新潟県新発田の名主の子として1837年に生まれます。安田善次郎とほぼ同時期です。家は質屋もしていました。幼名を鶴吉といい、早くから商いに従事し、商才を発揮して小太閤とあだ名されます。初学はみっちり仕込まれたようです。漢籍になじみ、同時に読み書きそろばんという商人にとって必須の教養も身につけます。
江戸へ出て鰹節を商います。やがて大倉屋と改称し、鉄砲商になります。幕末の動乱の時、彰義隊にあやうく斬られそうになります。彰義隊が注文した鉄砲を渡さないからです。彰義隊が支払わないのだから当然なのですが。この時津軽藩はほとんど幕府側に立った奥州の中で例外的に薩長側でした。津軽藩から鉄砲の注文が来ます。敵の中をあえてくぐって津軽に鉄砲を運び、感謝されます。喜八郎としては時代は薩長官軍の側と読んでいたのでしょう。
明治4年岩倉遣米使節の後を追って渡米します。こうして新政府と縁を作って行きます。帰国して大倉組商会と改名します。明治7年台湾出兵に際し、官軍御用達となり台湾に行きます。軍隊(4000-5000名くらいでしょうか)の食料、衣料、住居などなど一切を賄う仕事です。多分娼妓も同行したと思います。台湾は瘴癘(伝染病)の地で、遠征軍の3割が病に倒れます。喜八郎のもくろみは成功せず、かなり損をします。朝鮮貿易にも手を出します。西南戦争では同様に御用達になり三菱の岩崎弥太郎と並んで(の次に、と言うべきかな)巨富を得ます。戦争には設営が必要です。それに人夫の手配など人入れ稼業も要ります。こうなると戦争に従軍する商人の儲け所は運輸と建設になります。岩崎は前者を、大倉は後者に傾いたのでしょう。
大倉喜八郎が建てた建築物として有名なのはジョサイア・コンドルの設計による鹿鳴館です。当時東京には土地はいくらでもありました。大名旗本屋敷の跡地がごろごろしていましたから。東京府会議員になり、東京商法会議所(現在の商工会議所)に参加します。明治13年に火災防止起債取調べ委員会ができました。火災保険の制度を作るためです。この委員は、渋沢栄一、益田孝、福地源一郎、安田善次郎、三野村利左衛門、そして大倉喜八郎です。渋沢は経済界の指導者、三野村は三井の代表、益田は三菱の大番頭、福地は旧幕臣でジャ-ナリスト第一号、安田は生命保険の先駆者です。大倉喜八郎はそういう錚錚たる人物の中に伍してゆける存在でした。
明治15年大阪合同紡績ができます。この会社はそれまでの紡績会社とは一桁違う規模のもので、しかも日本人だけで経営するという前代未聞の会社でした。渋沢栄一の指導力がここでも発揮されます。渋沢は大倉喜八郎を関西に遣り、大阪の藤田組と工場建設に共同させます。明治20年日本土木会社が設立され、喜八郎が社長、藤田と渋沢が取締役になります。この会社は、天神橋、琵琶湖疏水、佐世保軍港、帝国ホテル、日本赤十字病院、工科大学校(東大工学部の前身)、東京郵便電信局、女子学習院、帝国京都博物館、海軍兵学校、名古屋鎮台などを建設します。さらに明治22年に開通した東海道本線のうち、浜松-豊橋-岡崎-大府(名古屋のすぐ近く)間の建設も引き受けます。これらの建築物を一覧すると、明治20年前後から安定してきた日本経済を背景として日本の基本的なインフラを日本土木会社が請け負って急成長してきた事がわかります。
この会社は明治25年に解散します。理由は公共建築物の建設に競争入札制ができたからです。それまでは一部の企業家と政府が談合して請け負わせていたのです。なんとなく語るに落ちた感もありますが、企業とか制度の創成期にはこういう談合も必要だったのでしょう。
社名は合名会社大倉組になります。喜八郎は台湾の砂糖工場建設も提唱します。日清戦争で朝鮮を保護国同然とした日本は将来の対露戦争に備えて満州への鉄道建設に邁進します。京釜鉄道、京義鉄道などの建設も大倉組は請け負います。1927年上野・浅草間に
日本で初めて地下鉄ができました。この工事も請け負います。
大倉喜八郎は他に多くの企業設立に参加しました。中で一番ポピュラ-なのは札幌麦酒です。彼の信条は、営利第一・投機せず・銀行を持たず、でした。1928年没、享年92歳でした。大倉組は第二次大戦後社名を大成建設に改めて今日に至っています。以上の記載は、「大倉喜八郎の豪華なる生涯---砂川幸雄著---草思社」に従いました。
「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行
大学の同級生の一人が建築学科でした。彼から教わったのですが、当時の(1960年代)日本には4(5?)大建設会社というものがありました。清水、大成、竹中、大林でしたか?日本を代表する建設会社大成建設の創始者が大倉喜八郎です。喜八郎は新潟県新発田の名主の子として1837年に生まれます。安田善次郎とほぼ同時期です。家は質屋もしていました。幼名を鶴吉といい、早くから商いに従事し、商才を発揮して小太閤とあだ名されます。初学はみっちり仕込まれたようです。漢籍になじみ、同時に読み書きそろばんという商人にとって必須の教養も身につけます。
江戸へ出て鰹節を商います。やがて大倉屋と改称し、鉄砲商になります。幕末の動乱の時、彰義隊にあやうく斬られそうになります。彰義隊が注文した鉄砲を渡さないからです。彰義隊が支払わないのだから当然なのですが。この時津軽藩はほとんど幕府側に立った奥州の中で例外的に薩長側でした。津軽藩から鉄砲の注文が来ます。敵の中をあえてくぐって津軽に鉄砲を運び、感謝されます。喜八郎としては時代は薩長官軍の側と読んでいたのでしょう。
明治4年岩倉遣米使節の後を追って渡米します。こうして新政府と縁を作って行きます。帰国して大倉組商会と改名します。明治7年台湾出兵に際し、官軍御用達となり台湾に行きます。軍隊(4000-5000名くらいでしょうか)の食料、衣料、住居などなど一切を賄う仕事です。多分娼妓も同行したと思います。台湾は瘴癘(伝染病)の地で、遠征軍の3割が病に倒れます。喜八郎のもくろみは成功せず、かなり損をします。朝鮮貿易にも手を出します。西南戦争では同様に御用達になり三菱の岩崎弥太郎と並んで(の次に、と言うべきかな)巨富を得ます。戦争には設営が必要です。それに人夫の手配など人入れ稼業も要ります。こうなると戦争に従軍する商人の儲け所は運輸と建設になります。岩崎は前者を、大倉は後者に傾いたのでしょう。
大倉喜八郎が建てた建築物として有名なのはジョサイア・コンドルの設計による鹿鳴館です。当時東京には土地はいくらでもありました。大名旗本屋敷の跡地がごろごろしていましたから。東京府会議員になり、東京商法会議所(現在の商工会議所)に参加します。明治13年に火災防止起債取調べ委員会ができました。火災保険の制度を作るためです。この委員は、渋沢栄一、益田孝、福地源一郎、安田善次郎、三野村利左衛門、そして大倉喜八郎です。渋沢は経済界の指導者、三野村は三井の代表、益田は三菱の大番頭、福地は旧幕臣でジャ-ナリスト第一号、安田は生命保険の先駆者です。大倉喜八郎はそういう錚錚たる人物の中に伍してゆける存在でした。
明治15年大阪合同紡績ができます。この会社はそれまでの紡績会社とは一桁違う規模のもので、しかも日本人だけで経営するという前代未聞の会社でした。渋沢栄一の指導力がここでも発揮されます。渋沢は大倉喜八郎を関西に遣り、大阪の藤田組と工場建設に共同させます。明治20年日本土木会社が設立され、喜八郎が社長、藤田と渋沢が取締役になります。この会社は、天神橋、琵琶湖疏水、佐世保軍港、帝国ホテル、日本赤十字病院、工科大学校(東大工学部の前身)、東京郵便電信局、女子学習院、帝国京都博物館、海軍兵学校、名古屋鎮台などを建設します。さらに明治22年に開通した東海道本線のうち、浜松-豊橋-岡崎-大府(名古屋のすぐ近く)間の建設も引き受けます。これらの建築物を一覧すると、明治20年前後から安定してきた日本経済を背景として日本の基本的なインフラを日本土木会社が請け負って急成長してきた事がわかります。
この会社は明治25年に解散します。理由は公共建築物の建設に競争入札制ができたからです。それまでは一部の企業家と政府が談合して請け負わせていたのです。なんとなく語るに落ちた感もありますが、企業とか制度の創成期にはこういう談合も必要だったのでしょう。
社名は合名会社大倉組になります。喜八郎は台湾の砂糖工場建設も提唱します。日清戦争で朝鮮を保護国同然とした日本は将来の対露戦争に備えて満州への鉄道建設に邁進します。京釜鉄道、京義鉄道などの建設も大倉組は請け負います。1927年上野・浅草間に
日本で初めて地下鉄ができました。この工事も請け負います。
大倉喜八郎は他に多くの企業設立に参加しました。中で一番ポピュラ-なのは札幌麦酒です。彼の信条は、営利第一・投機せず・銀行を持たず、でした。1928年没、享年92歳でした。大倉組は第二次大戦後社名を大成建設に改めて今日に至っています。以上の記載は、「大倉喜八郎の豪華なる生涯---砂川幸雄著---草思社」に従いました。
「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行