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marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

☕ (その3)世界でコロナによる死亡者が300万人も超えた社会の中で

2021-04-24 07:40:16 | 日記
 
世界のベストセラーを読む(655回) (3/3)退任牧師からの質問状と僕の回答

(四)親愛なる兄弟に質問します。 1)一から三までの問いかけは現実的でしようか。共通の認識としていただけるでしようか。 2)この解答として教会は十字架と復活を伝えているのですが説得......
 

◆多くの人は思うだろう。第一、死についてこねくり回して考えてもそれは、普段の人にとってのそれは、葬儀がいくらかかるとか、どのように行うか、などのあくまでその亡くなったという遺体の処置に限られるのであって、生きること、死ぬこととは・・・などと考えも及ばないというところだろうと。死んだ後のことは分からないのだし、面倒なことは考えずに、ご先祖様のしきたりに従ってやっていただければいいのではないの、と。◆しかし、キリスト教は、心情的に殆ど人の世の善悪や他人への施しや、また奉仕などのことを語るが、実はそれらのことを差し置いても、実は ”生きること、死ぬこと” とはどういうことなのかを明確に語っているのである。ずいぶん大上段に構えているではないかと誰しもが思うのだが、生きていることは同時に死と隣り合わせ、とそのことを考える。仏教も実はその願いは同じなのである。「この身、今生に度せずんば、いずくの生に於いてか度せん」(これは真言宗の「智山勤行式」のなかの一節である。)いま、実際に生きている日常のことにおいて、死は隣あわせであり、「悟り」は、今を生きる中にあるということ。何も難しいことはない。イエスは、大切なのは「ただ、ひとつである」と言うのである。


☕ (その2)世界でコロナによる死亡者が300万人も超えた社会の中で

2021-04-24 07:22:17 | 日記
 
世界のベストセラーを読む(654回) (2/3)退任牧師からの講演記事と質問状

(三)佐伯啓示先生の死生観 現実の世界では人間は欲望を持ち、ものを所有して喜び、自我をどこまでも膨張させ、最後は病院のベッドに括り付けられ死んで行く。キリスト教のように肉体は滅びて......
 

◆「佐伯」という名字の先生方は、あの弘法大師空海の父方が”佐伯”、母方の方が”阿刀田”というのではなかったかな。それで、たまたま、近くの病院に行ったとき、診察されたお医者が「佐伯」という名字のプレートを胸につけておられたので、失礼ながら先生のお寺の宗派をお尋ねしたのだが、やはり、もともとご実家は真言宗という。今は、近くに寺がないので臨済宗の寺としているらしい。それで、先の空海さん関連の名字を言うと、当然のように知っておられた。関西から向こうだな、昔、こっちに先祖が流れて来たんだな、と笑って応えられた。佐伯ヨシロウという学者さんが、空海とキリスト教(ネストリウス)の関係の研究をされて居られたな。◆空海さんの幼少時の俗名は佐伯眞魚(さえきのまお)と言う。


☕ 世界でコロナによる死亡者が300万人も超えた社会の中で

2021-04-24 06:19:16 | 日記
 
世界のベストセラーを読む(653回) (1/3)退任牧師からの講演記事と質問状

649回目の冒頭記載の宿題と思いつつも'20年の教会歴イースター12日にかけて、敬愛する退任牧師から続けて、先方での”信仰を語る会”での原稿が送られてきて、それに質問がありました。......
 

◆昨年'20年の4月18日から立て続けて3日間の投稿だった。内容は面白くはない。しかし、現状に目を覚ますと新型ウィルスによる死亡者が’21年4月21日午後7時現在で世界で304.6万人、日本では9700人を超えたという記事が、ネットのニュースに流れている。’死’はありふれた怖い日常の脅威となった。しかも人との会話から発生率が高いということで、もう人間の社会ではなくなってきたなぁと思う。第一、死ぬことについては、自分の言葉であれこれ普段、考えないものだろうから。本来、普段の生活のすべての困難の中から人それぞれは、自分なりの答えを見いだしていくものであろうと、それは地上に生まれて次の世界に旅立っていく僕らの宿題なのだと僕は思う。◆「メメント・モリ」(常に死を思え)という言葉があった。人は生きていることが当たり前と思う世界で、死を思うことは、人生を、この時間を真摯に生きるべしとの教訓たる言葉であったのだが・・・。


☕ 僕の好きな町並み・・・コロナ禍で家にこもりフレイルにならないために

2021-04-23 18:07:30 | 日記

 天気の良い日がつづき、嬉しい陽気。チャリンコで街を散歩する。僕の好きな町並みのひとつ。タワーの地下には駅裏まである長いトンネルがとおっている。夏の竿灯大通りが右手にずうと伸びているので、ここのどこから見ても特等席。最上階にお風呂があるマンションである。

 世界の画家 藤田嗣治の大きな「秋田の行事」という絵が掲げれていた平野政吉美術館。写真では背中にあたるが市の文化創造館となり開放的なサロンになった。小さな茶店ではjazz流れていた。須賀敦子の本を買った。藤田の絵は写真に見える右手の新しい安藤忠雄が設計した美術館に移った。昔のお城のお堀であるが噴水もあって僕の好きな風景である。前にアップした散歩の工事の建築現場は、道路を挟みすぐ右手にあたる。

 お城の内堀は季節の木々がいつも癒しとなる。通ると写真を撮ってしまう。サギが餌を探していた。


世界のベストセラーを読む(840回) イエスはどこによみがえったというのか?

2021-04-23 17:31:43 | 日記
 
世界のベストセラーを読む(652回) イエスはどこによみがえったのか? マタイ福音書28章から

タイトルに書いた「答え」は復活の時、現れた天使とイエスの言葉にある ***マタイによる福音書28章5節から10節まで***◇・・・天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十......
 

◆一番初めに書かれたイエス伝はマルコによる福音書である。文字でイエスのことが書かれたのは、聖書の中ではパウロの手紙、テサロニケ人への手紙だったと記憶している。マルコのことを想像するといろいろ面白い。レオナルド・ダビンチの描いた最後の晩餐はマルコのお母さんの家だったと言われているし、パウロと伝道をしたバルナバは、マルコのいとこなのだ。バルナバは、聖書は熟知していたからマルコは小さなころから、ユダヤ人の子どもたちがそうであるように、いろいろ民族伝来の神の導きの歴史を教えられてきたことだろう。◆そしてもっとも不思議でたくましく思ってしまうのは、マルコは書かれた文字として人が自己納得してしまうイエスの復活の事実とその恐ろしさを今後、読者へどのように伝達しようかと苦慮して、後で第三者が追記したようにではなく、復活したイエスに会い女たちは恐ろしかったとそこで書くのを止めてしまったことなのである。◆後代の読者は思うことだろう。彼イエスは一体どこによみがえったというのだ、と。そこで、彼はまさにその時、傍らによみがえられたイエスが立たれた語られているのを感ずるであろうと。