世界のベストセラーを読む(655回) (3/3)退任牧師からの質問状と僕の回答
(四)親愛なる兄弟に質問します。 1)一から三までの問いかけは現実的でしようか。共通の認識としていただけるでしようか。 2)この解答として教会は十字架と復活を伝えているのですが説得......
◆多くの人は思うだろう。第一、死についてこねくり回して考えてもそれは、普段の人にとってのそれは、葬儀がいくらかかるとか、どのように行うか、などのあくまでその亡くなったという遺体の処置に限られるのであって、生きること、死ぬこととは・・・などと考えも及ばないというところだろうと。死んだ後のことは分からないのだし、面倒なことは考えずに、ご先祖様のしきたりに従ってやっていただければいいのではないの、と。◆しかし、キリスト教は、心情的に殆ど人の世の善悪や他人への施しや、また奉仕などのことを語るが、実はそれらのことを差し置いても、実は ”生きること、死ぬこと” とはどういうことなのかを明確に語っているのである。ずいぶん大上段に構えているではないかと誰しもが思うのだが、生きていることは同時に死と隣り合わせ、とそのことを考える。仏教も実はその願いは同じなのである。「この身、今生に度せずんば、いずくの生に於いてか度せん」(これは真言宗の「智山勤行式」のなかの一節である。)いま、実際に生きている日常のことにおいて、死は隣あわせであり、「悟り」は、今を生きる中にあるということ。何も難しいことはない。イエスは、大切なのは「ただ、ひとつである」と言うのである。