◆27日目覚めると降り積もった雪が30CM以上はあった。最近目覚めるのが4時ころなので、早朝から門の周辺の雪かき。一つ置いた隣家のおばあさんも、まだ暗いうちからダンプと言われるもので雪寄せをしていたので挨拶をする。年寄りが早起きなのは血圧があがる為か、いずれ体調が教えてくれるようだ。28日の今朝は、積雪が収まりつつあるが、除雪しない庭はかなり雪が積もった。今朝は隣のおばさんが雪かきをしていた。・・・クリスマスの時、年の瀬。こんな寒い朝、比叡山の千日回峰をしている修験者がいるのだろうかとか、故井上洋治神父がフランスに渡って修道院に入っての冬の朝は寒かっただろうなとか、実家の寺の住職は(これはいずこの寺の住職もそうなのだろうけれど)朝6時からの法要を執り行っているんだろうなとか、早朝、ストーブの炎を見ながらcoffeeを飲みつついろいろ思う。◆迫りくる肉体の劣化を覚えつつ、いずれも肉体の酷使が宗教には推奨としてあるように思えるのは、精神性が肉体を超越しようとする、今生での苦行なのだなと。けれどキリスト教では肉体の酷使は必要ない、ただイエスを信ずればよいのだと教える。つまるところそれ以外は、地上での霊が輪廻転生を繰り返すからなのである。仏教では法事など繰り返し、死後の霊は時間をかけ昇華していく、そこでようやく涅槃に入ると教える。けれど、キリスト者はその法事など繰り返さずとも天上から来られた神の子イエスが十字架で、信じた者の欠陥をその身に負うたのであるから、死後は”その人”として眠りにつき、再び”その人”として復活し、永遠の命の世界に目覚めるのであるとうことになっている。聖餐式、イエスの肉としてのパン、血としての葡萄液を飲むという礼拝の儀式は、死亡率100%の我ら人にとっては、実に重要な儀式、天の祝宴の簡素な予行となっているとされる。◆イエスが語った言葉は、不可解な言葉は実に沢山ある。かなり飛躍して言葉を結びつけている言葉もあるし、人という生き物の常識から不可解な意味にしかとれない言葉もある。おかしな教祖やらが出現し、時折社会問題も起こす次の箇所、多くの人が畏れ多く感じる箇所もある。しかし、前回述べたようにこれは霊的な、しかもパラダイス、永遠の命の世界にいるための天上世界の実際に同期するには、霊的な意味合いからそのようにイエスの言葉が解釈されれば釈然とした解釈ができるてくると思われるのである。過去生の霊は、肉体を借りて地上生まれ、その天上への帰還の希望をもって誕生するのである。その過去性にとって、この世において少なくとも精進するようにと。キリスト教の学者さんや牧師さん、まして坊さんがそこまで言える人は多くはないだろう。言葉においては理解させるのは、相手の先理解もなければ理解されないだろうし、神学者でいえばポール・テリッヒくらいか。しかし、いずれ知識ではない。救い主の誕生を初めて知らされたのは誰だったろう。暗い、静かな夜、澄んだ空に星々が輝く夜、しがない羊飼いたちであったのだのだから。神の霊は、そのようにして我らに訪れていることを知ることである。
◆「渇いている人は誰でもわたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きる水が川となって流れ出るようになる。」イエスはご自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。(ヨハネによる福音書7-37-39)
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