marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(461回目)その1:『日本の思想』(丸山真男 著 岩波新書)を一読されたし・・・

2017-12-03 21:16:53 | 日記
 すでに古典の部類に入るか、ここには掲題の表題のことの「はじめに」というものを思いつくままに書いている。何故か、表題の著作が僕の書棚に3冊もあった。それは、どこかの古本屋を捜せば100円くらいで今も買えるかもしれない。10年以上も前に仕事は多忙で、出張のおり時間あれば、思い出したようにこの本を買って読んでいた。そのころはまだ記憶も定かだったような気がするが、はっきり読んでいなかったのか、日本古来の思考の通奏低音という奴を僕の頭でつなげていこうとするときに古本で安いからと買って読んだものだ。で、・・・余談その3 としたいところなのだが、つらつらと・・・などと流暢なことではなくなったように思われてきた。天皇陛下の退位2019年4月30日と決められたとのニュース。元号が変われば、また新しくなったと全てがリセットされてしまうのか、この国の刹那的生き方に我慢ならなくなったことが思い出されて来た。この国には思考が歴史的に蓄積されてその上に前進されて行く知識のものではないらしいことに。ただ、使徒パウロに言わせれば、肉的に有能(知能、体力など)な人間の育成のみが行われ、まさにパウロに言わせれば、それらはキリストを知る上で糞土のように思うと言わしめた、一人一人の魂の天への帰還、永遠の命への知識。
◆この国のアイデンティティーについて書いてきて、僕のブログの主旨から言えば、宗教ジャンル如何に拘わらず人が肉体を持ち、霊を吹き込まれ、個体として魂を形成し、聖霊を受けよ、我に返れと呼ばれる創造神の基へから遠く離れ、地上をうろつく帰りどころの無い霊に翻弄され、あるいは満たされなかった霊の再生を願いに転生を受けつつ人類は終局を迎えていく。個人に於いても実際のこの地球上の生活のドラマにおいても・・・。そこで、僕らは、他人としての生を同時に生きることは出来ないのだが、しかし、人は動物としてのドラマをどうしても作って行く。それは、わたしでは無くてもよかったのだが、意識において言葉化にするならば、落胆せずに走ってしまった(生を受けてしまった)からには、特に恥をかこうが、裕福であろうが、貧しかろうが、名誉を得ようが、いずれ僕らは、どうしても自分のこの地上の三次元のこの空間を埋めているこのときから逃れることは出来ず、それをするには意識化つまり言葉にしないことだとは知りつつ、それを受け入れるとすれば人生は長い。楽にこの肉体を抹消するには肉体の処分を誰かに任せねばならなくなり、同時にその抹消をこの目で見たいと願うやからも発生する。神の似姿に創造されし、あまりに遠く離れてしまったこの生き物の不可思議・・・。だからこそ僕はこの地上に命を受けた意味を知りたい。人がこの地球に命を受けるという意味を・・・
◆何やら訳の分からぬことから書き始めたが、このブログの主旨は何ら変わらない。僕はイエスの言葉、永遠の命を宗教というジャンルから外したい。宗教というジャンル自体、人が作ったものだろう。そもそもそのことから、すでに人の総括、その位置づけを図り、その前提の上に自分の思考の位置を定めるという人の思考構造の限界を示しているものだから・・・。使徒パウロは、肉体と霊の「法則」と言い、イエスは、イスラエルの教師ニコデモにこの地上で実際に行われている霊の動きを話して、この地上で起こっていることが分からなければ天に於いて行われていることがどうして分かろうかと叱責する。その当然に行われていることを、より知ろうとすれば、宗教で説かれるところの道徳律のような呪文は、一体なにか、と素直に僕らは疑問に思わなければいけない。しかし、この国は、そのうやむやの中に心情として全てが制度として気づかぬうちに飲み込まされてしまうことの苛立ち。
◆「知性は情念の奴隷である」(ヒューム)・・・この国は、結局のところ大衆はその出来事の意味を深く知ること無く、当然としての動物として持ち合わせる心情に一般通念を求めて納得してしまう。これは肉体に引きずられる言葉が強く、肉体を越える言葉を持つことが出来ない。つまり、解放されて自由になるべく全てのしがらみの第一要因は、己の肉体にありということが理解できない、だから、これからの脱出を図らなければならないというのが、実は宗教家が教えるところの第一要因であるのだ。・・・続く