marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(364回目)「新しい人間」 近代化の精神構造 Ⅵ(雑感)

2017-06-10 20:45:39 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教
 表題が難しいようなのであるが、あまり難しいことを考えている訳ではない。僕なりに書くとこういうこと。つまり、人それぞれが深刻な課題の解決にいかにすべきかとまちまちの考えを持ったときに、それが神が自分に語りかけるという確信において、同時に他の人にも別様に語りかけることが当然あると思われるが、そのときに、今一度、「何の目的のために」と語りかけるのかと、その同じ語りかけた神の目線に一段ゆっくり共に上って冷静に考えて見るということの必要性である。私の意見、そしてあなたの意見、しかしそれは同じ目的のためにであったということに気付くこと、共に同じ神の下での対等な人間であると気付く事なのである。
◆そうすれば、目的達成のために我らは議論しているのであって、議論のための議論をしているのではないということに気付く事なのです。神の目線にまで、イメージが湧かない人は、鳥瞰図的目線で行く先に目標が見えるはずであるから確認することである。鳥さんの目線から実行となれば蟻さんになって着実に物事をこなしていこうとすることだ。
 目的を達成するための目標(なすべきこと)なのであって、とかく議論伯仲で、かっこよく言えばアプローチの違いなのに相手を罵倒するなり、人格を否定するなりで、結局仲違いになるとことが多い。そこまで、自分を絶対化しないことである。神の下での自分の相対化が大事だと言うこと。切った張ったといがみ合っている内に共に立っている足下の土台が崩れるという舞台終焉にならないようにということ。(人はそれぞれ、次の世界に行くまでに解決すべく自分に人生の宿題が課せられていることをキリストを知る人は知るようになるのだ)
◆これが何故、デモクラシーなのかと言えば、会議の進め方において他を尊重し、自分を絶対にしない。目的は、異論がある相手も同じこの社会という土台に存在しているからである。無論ここに於いても議論のための多くの情報と言葉を準備しておかなくてはならないが何も競争している訳ではない。そのことも共有化して提供し合えば良い。キリストによりカルチャベートされて言葉を選べる人は、おそらくその議論に加われるだろうということです。(ここで、自由を感じない人は、まだ学ぶべき神の御心があると希望をもつといい)
◆もし、そのことが個々人により生涯における訓練として人生を過ごす、それは死後、よりキリストに近づくための彼の試練(十字架)と同期させることによる、自分の困難、苦難も乗り越えていく力をえることに共感する人々には、まったく同感できる内容であると思われるのです。(ここまできて、ずいぶん高圧的な書き方になってきてしまったなぁ)
◆目的は、目標を持つ。そして手段も、考える。第一に何が障害(リスク)となるか、何(公の法律)を守らねばならないか。手立てを作りそして実行する。良ければシステム化する、つまり標準化をして、誰でもがその通りに規則性をもてるようにする。本来、身につけばこれらは不要となる。それで、そのことが目標達成のために有効かを考える。それから効果も確認する。目的はその決めごとの実行で有効かどうか、効果を上げているかどうかまでをさらに深めて見ていかなくてはいけない。維持されていくことが重要だから。評価は効率化。しかし、ここで、あくまで人を主眼として考えなければならず、人が機会の一部にように考えられては決していいけないと言うことである。この文章の◆は、もの作りの工場における、標準化システムの基本の考えになっている。(現在は既に環境から、安全から、無論、品質から・・・すべてに於いて考え方が現実に今ある。・・・レスポンシブル・ケア・・・これは実は人間が自分の所作すべてに責任を持つということでベースの考えはキリスト教から来ているのであると言える)
◆宗教性による他国との違いは、やはり、こういう言葉にならない、しにくい(なぜなら、我が教祖はこう宣い、それが神の願いだとか、さらには女性はこうであらねばならないとか・・・)言い伝えだとかにより拘束される。これはまさにしがらみの筆頭になる訳だ。マックス・ウェーバーのいう「呪術からの解放」にもなるわけだが、人間という生き物とししての種にまとわりつく、実は当然のこととして自己了解し、実はその事により自分を拘束し不自由な世界ながらもそれに甘んじざるを得ないどうしようもない人間。その中でそれさえも解体して、いずこの国の人も同等に、地球に存在せしめられし神の似姿の被創造物としての人間の世界を解体していくこと(人権思想へ)。そして、次の世界に生きるべく新しい人間という考えを誰しもがなして生きなければ、もう次の世界はかなり危ういものとなるだろうと僕は案じているのである。・・・ 続く   

世界のベストセラーを読む(363回目)「異論の妥協でもない真のデモクラシー」 ピューリタン 近代化の精神構造 Ⅴ(雑感)

2017-06-10 00:39:29 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教
 先の続き。歴史が進んできた現在の有り様は、聖書の基盤、特に神学的にその歴史を学んで、実際に神はこの世をどのように変えられたかという光の面(あえてこう書く)の「天におけるごとく地にもなさせ賜え(主の祈り)」と奮闘した人類の歴史の面から見れば、その結果であるとという見方もできるということである。僕らはその終末にその時代を生きているのであると。
◆ピューリタンの時代の人々の考えは、今までの人間の生活の基盤ともなしてきた統べたのもの(精神的に拘束してきた宗教制)を土台から全く超越している聖書の神の位置からの変革を迫り、それを実行して全人類に普遍性のもつ仕組みの一端をもたらす(神の摂理)ものと言えるものだったろうと思われる。
◆ブログで以前、聖書の神は「脱出と前進」と書いたが、ここで「脱出と契約」、新たなる神との契約思想が、人間社会にも適応される契約思想へと変じて光をもたらされた時代であったと言えると思う。モーセの紅海が、ピューリタンの大西洋と置き換えられた時代であったということだ。・・・しかし、時代は今に降り、まさに今そのスピリットはどうなのか・・・、人間という生き物の精神的遍歴は、新大陸にいようとも旧約の時代に人々の精神遍歴、これはかの時代に守り抜いてきたイエスの神への人間の精神性へと改めて回心し確認しなければ(つまり旧約聖書を読みなさいということ)「終わりの始まり(イエスによって人類に永遠の命か死かの神の摂理の開示)」が「終わりの終わり(終末、人類の審判)」に近づいてきた様相を世界は提示し始めていると言えるのではないだろうか。
◆マタイ伝の荒野の試練の中でイエスがサタンとの会話がある。サタンはいつも自分の出番を待っている。そして、隙ある魂の人間に入り、死を蔓延させようと狙う。時代が降り、イエスの言葉が世界に行き渡りつつ、それが人間の手中に取り込まれ、これまた腐敗が始まらんとする歴史を我々は感じてきた(あえて言葉で明確に書かない)。イエスが来られて、人間の終わりの始まりが起こり、世界の終末時計が残り少なくなってきて、彼の言葉により、常に改めて新しき人を創世しつつ、次の時代(再臨待望の時代)を整えつつあるに、闇も行き所がなくなってきていると見なされる。とすれば、これだけ情報が瞬時に行き渡りつつある時代だからこそというべきか、光と闇のその事件が瞬く間に世界を駆け巡る中において、我らは、永遠の命への言葉をすべてのまとわりつくものを捨てて自分のものとしなければならないのではないか。「イエスの言葉を信ぜよ」ということは、悪魔と会話した内容も、まさかそこだけ聖書記者の創作物語という訳にはいかないだろう。
◆先の回の課題、それではクロムエルが語る矛盾はどう解決されるべきか・・・。本来、民主的な討論(意見の相違)はその討論が実になり有効性を持ち実行力をもつ、つまり議論が議論で終わらぬためにも、真に我ら人類を創造せし、神に向かう栄光なる精神(あえてこう書く)に前進するというスピリットを持ち維持し、自ら変革し続けるという人々でなければ最終なしえない事であると思われる。つまり、聖書的に言えば、地上の肉的思いというしがらみにまとわれ、それにも気付かず、まして脱却しようとさえ思わない人々にとっては、非常に困難なことではないかと思われる。・・・ 続く