marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(151回目)自己内の偶像化の回避Ⅳ

2016-10-09 19:46:40 | 日記
◆世界のベストセラー聖書を読む◆ 記念すべき日、今日は礼拝司会の担当の日であった。
2016年10月9日(聖日)。何が記念すべき日なのであるかというと牧師のメッセージの説教でとりあげた聖書の箇所がヨハネによる福音書第9章まるまるであって、その箇所は僕が福音書の中でもっとも好きな箇所であるからなのだ。だいぶ寒さが増してきたこの頃であったが秋晴れの青空が見え、一時講壇に陽もさして司会者としてマイクをとおして長々と読む(いつもは1章まるまるはまずない)機会に恵まれたのは感謝なことであった。
◆さて、本題に戻ろう・・・150回目のつづき ヨハネ福音書が共観福音書と異なり毛色が異なってよく読むと不思議な編集がされていることが解り、特有な述べられ方、書かれ方がなされているということについて。
異邦人の僕らが聖書を理解するには、いささか単純に簡単なことではない(実は難しいと思わない人もいる、すーと理解できる人もいるのですがこれ、宗教的人間というものでしょうね。たとえば、音感に優れてモーツアルト・・・すごい例えをひっぱたきたが・・・なんなくピアノを弾いてしまうとかの人もいる。それと同じように霊感に強い人というかその道の感性に秀でているというか、イエスの言葉にふれてビビットくる人もいるらしい)と述べてきた。イエスが天に帰られて、ヨハネも長生きして、その生きた証を散らされたユダヤ人、そして改宗した先理解のない(ユダヤ人の律法や伝統慣例行事などに)ギリシャ人に述べ伝えうるに、いよいよ世界宗教の土台ができつつあるものとして読み取れるのが、ヨハネ福音書なのであった。(だからこそ福音書のエッセンスはヨハネ伝で十分とルターさんは言ったのである)。
◆来年は宗教改革から500年。来年まではあとわずかになりつつある、プロテスタントの開祖M.ルターの推奨するヨハネ伝はイエスに導かれた愛弟子たちが書いてきた歴史物語も重要であろうが、「私のことばを信じなくてもその業(イエスが病人などをいやされたその奇跡)を信ぜよ」とイエスが言われたその業のなされた生身の人々がヨハネ集団の中の目の前に共にいたと考えられるから、この事実として「生きて私を信ずる者は永遠に死ぬことがない」と言われたことは、このように見て、ふれて解る実態として我らもかの日にはこのように事実として復活の事実に預かることができるのであるということを全世界の神の造られた被創造物たる人間に伝えねばならないと書き残したものであるのだ。(余談:イエスがイスラエルの教師ニコデモに話された「新たに生まれなければ神の国を見ることはできない」と言われたこと、死んで四日もたったラザロが生き返らされその後ともに生活したこと、そしてイエスが言われた(ヨハネ伝3:12)「地上のこと」とは、東日本で震災に遭われた方が今もようやくというべきか、霊の可視化現象が起こっているということ、幽霊などとびっくりではあるがこれが普段に霊に生きる者には当たり前に起こっている地上のことなのだということになるのである)。
◆さて、そこでそれが天地創造来の事実であると言われても、イスラエルの教師であるならば、そういう霊に関することを学ぶ機会はなかったということになるニコデモさんが解らなかったように。旧約聖書やその他、伝えの学びにはない訳だから、というか霊のことは霊的な人にしか解らないから残すべくテキストもないわけだ。イエスがニコデモさんに「イスラエルの教師はそんことは解らないといけないよ」と言っているのだから、時代がくだり今日は2016年の10月だがいよいよ、物質的には満足、しかもおかしなことに食べるのに困っている子供達もいるというゆがんだ時代になって、霊的にイエスの言(ことば)を解釈し、共有化しつつこの時代を学びの中で過ごして行かねばならない時代にとうに入りつつあることが理解されてくるのです。・・・ つづく