marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

ヨハネのよる福音書(敷衍訳)(第3章4節~ニコデモとの対話<Ⅱ>)

2016-10-01 21:55:16 | 日記
◆ヨハネによる福音書◆ニコデモとの対話(第3章4節~) 八木誠一訳(1970年)
4:そこでニコデモは言う。
 「年寄りが生まれなおすなどということがあるものですか。母親の腹にもう一度入ってうまれることができるわけないでしょう」。
5:イエスは答えて言う。
 「私は君に真実を告げる。人は霊によって生まれなければ神の支配のもとに入って救いにあずかることは出来ない」。
 霊とは、この世でもまた世界内の存在でもない神的なリアリティであって、存在者のあり方を定める定め(ロゴス=真理)の下にありながらこの定めに反している人間に、その定めを成就させるものである。だから生まれながらの人は、霊によってはじめて真に生かされるのである。イエスはつづける。
6:「肉から生まれたものは肉である。真理を欠き、また真理に反逆する世から生まれ、このまま世の中ではなされる一切の営みは、何を意図しようと、決して真理にいたることはない。霊から生まれたものは霊である。すなわち世に規定される人の思いや業(わざ)によってではなく、かえって世の営みを切断する仕方で真理の側から真理が霊によってもたらさ7:れたとき、人は真理に即するあり方(神の支配に服するあり方)に変えられる。だから、人は救われるためには新しくうまれなければならない、という事実があるのであって、これに驚いてはならない。
8:風はその好むところに吹く。その音は耳に聞こえ、その働きは眼に見ることができる。しかし、風がどこから吹いてどこへ去るかは、目にとらえられない。
 霊から生まれた者も同じようである。肉から生まれた人は、霊から生まれた人の生に接し、その業を見て驚くことはあっても、彼がどうしてそのように在りうるかは、肉の人にはついに知られることがない」。
9:そこでニコデモはイエスに答える。
 「どうしてそんなことがあり得ましょう」。
 ニコデモの知る限りでは、そうしたことはどのみちありえない。彼は真理とのかかわりをも、真理を認識する条件をも欠いている。
 ニコデモに対するイエスも以下の言葉は、ユダヤ教が真理に対して盲目であることを宣告するものである。
10:「君は聖書とその解釈に通じたイスラエルの教師でありながら、そんなことも知らないのか。私は君に真実を告げる。我々は君達とちがって知っていることを語り、見たものを証言する。しかし、君達は我々の証言を受け入れない。
12:私は君達に地にかかわることを言っても、すなわち『生まれなおす』必要を語っても、それすら解らないなら、私が君たちに以下に述べるような天的な事柄を語っても、君たちはどうしてそれを信じよう。
13:天に上って天的な事柄を知り、これを告げることのできる人はほかに誰もいない、ただひとり、天から下って人となった者、受肉したロゴス、つまり『人の子』私を除いては。決定的に重要なこと、世に対する神の救いの業とはこのことなのである。かつてモーセが荒野で青銅の蛇を高く掲げ(民数記21:8以下)、そして毒蛇にかまれた人がその青銅の蛇を仰いで死を免れたように、そのように『人の子』である私も高く挙げられなくてはならない。すなわちまず十字架の上に挙げられ、屈辱の死を通って、そして神の御許に高く挙げられなくてはならない。それはすべて信ずる者が私によって永遠の命を受けるためである」。

 <(ニコデモとの対話)・・・おわり> ・・・Ω