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marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

『雪国』その後の顛末・・・

2024-02-02 17:17:20 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

今回の内容は、あちらこちらに話題が飛び、面白くないかもしれない。けれど、僕の求めているのは、ブギウギではないけれど、美人じゃなくても生来のエネルギーというか、そういう女性の肉感的なバイタリティーなのかもしれない。

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何が作家に書かせる思いにさせていたのか。時代はどうか。主人公は何をどうしてそう行動したのか、などとすぐに考えてしまう。哲学や心理学や精神身体医学や、脳神経などという面白く齧っていると(宗教で言えば神学)読んでいくうちにそんなこと作家から主人公からいろいろ考えてしまい、ストーリーを面白く読むなんてことができなくなる。

つたない頭は、むしろぼんやりした文系より理論的な理系だけれど、これまた僕自身幼いころに彼等(👽)からダメージを受けていたので、それは抜きがたく次元の異なる世界なので、それを何とかしなければと思い、今までそれ(我ら人を動かし続けている彼等)を探し続けてきた訳だ。それでこうして終活の入り口まで生きてきたわけ。

すると、その狭間で我々という人に影響を与えている、あるいは同期してその本人になっている彼ら(👽)が少しづつ理解できるようになってきたので、人の物語のありようにいかに彼等が影響を与えてこの世界を成り立たせて動かしているかが想像できるように思われてしまうのだった。

僕らの世界は、その彼らが殆どの人をなしている。だから限りなく広がっているし、僕だけのことではないではないかと、その世界の端ばしを示してくれている彼ら(👽)との会話を僕はブログで綴っているだ。

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三島由紀夫や川端康成や武者小路など何をもってこの作家は書く意欲を保持しているだろうなどと思うと、これは危ない!と感じてしまうか、肌にあわないというか。太宰治なども、それはあの大きな家で母親ではなく乳母の世話を受け、あの長い冬の寒さで苦労なく過ごす、幼少の頃の影響を考えれば『人間失格』を書き大人になり情死するのも分るような気がする。

所詮、人のドラマじゃないかぁ、などと分かったような気持ちになってしまうのは、僕の欠点だ。下手をすると三無主義のように虚無感に陥りそうになる時がある。日本近代文学などというのは、どうも好きになれない。

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女という生き物の悲しさ、などと書くと時代におけるこの国に家父長制やつまるところ、金を稼ぐのが男社会であり、それにかしずいているのが女であった社会という時代であったなどという目線からみれば、川端康成の一連の小説は、むしろ作家本人の精神分析からすれば、大そう歪んだ精神であったなどという評価ができるかもしれない。無論、今から見ればの話だけれど。

女性にとっては今からみれば、ひどい時代であったなぁ、と。けれどももっと昔からこの国の女性はひどい地位にあったなぁと思われる時代であったように感じてしまう。それも今からなので、彼女たちはそれは、その世界でこういうものだと生きてきた訳である。

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ここで、その国の人々に疑いもなくしみ込んだ宗教性でいかに異なるかが出て来て、あのガザのイスラムの人々も、インドのカースト制の人々も、チベットのラマ教の人々も、その他多くの人々の宗教もあろうけれど、最も崇高なものは僕にとっては、聖書の神であった訳だ。かなり数段、最上の神であろう。人を創造したんだから、それ以上は考えにくい。

古代から人の肉体としてあるいは霊としての命のこと。最後は自分の肉体からも自由になるという、その行く末が明確に書かれているからである。人は必ず死ぬからね。

観念的な思いではなく、現実的な今を生きているこの自分についても思考させるものである。それは実態として、キリストが完全なる人として個々の一人ひとりと語るところにある。人格や人権がキリスト教から出てきたものであることが分かる。『生きて私(キリスト)を信ずる者は死ぬことがない』と彼は言われる。

大切なのは個人からの推奨ではなく、自らキリストと語ることだ。

それで話が飛んでしまったようだけれど、僕らこの国のDNAにしみ込んだ宗教性というのは、古代、大陸からの多数の帰化人によってその土台をなして今にある、といのが持論なわけだ。だから、西方浄土ではないだろうけれど、あの中東までつながっている(旧約聖書の世界)というのが僕が考えてきたことなのである。この話は切りがなくなるのでこの辺で。

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ブログの22年の7月から8月にかけて坂口安吾と秋田生まれの美人作家矢田津世子のことを書いた。坂口安吾は秋田美人の矢田津世子にいきなり接吻した、それは本当かという話。

彼女は東京に行って作家になるのだけれども、川端康成に「あんたのような美貌があれば女優になったらどうか」と言われたと津世子の解説文にあった。それで、川端のことを思っていると矢田津世子のことを思い出した訳。

矢田津世子の文学館は秋田の五城目にある。どれほど美人だったか、写真を掲載しているので遡って探ってみてください。次回、矢田津世子のことの少し書く。

川端康成の文章表現はうまいなぁと思うけれど、特に冒頭ね。雪国や伊豆の踊子でも。けれど、一転、その本人はどうなのかといえば・・・爬虫類のような顔をして、もっぱら一方向性の女性美化に徹してそれでイメージをつなげていっていた。次からつぎへと、若いイメージを沸かす女性を追いつずけていくのか、と思うとやはり危ない。現実生活において、お手伝いにちょかい出して死期を早めたような記事もあったけど。

そのイメージに羨ましいとは思うけど、所詮、人は老いて死んでいく人である訳だから、もっと清楚な聖母マリヤより、天使ガブリエルからイエスの誕生を知らされ、御心のままにと言い(つまりマリアは天使と会話するだけの霊のモチベーションを持った人だった訳)、イエスがエルサレム神殿で学者と口論して、それを気に留めずマリア一家は帰路についてしまい、三日も探しまわり、イエスをしかるマリア。

「父の家にいるのがどうしてわからなかったのか」というイエス。実の父、ヨセフはいつ、どこで、どう死んだのかも書かれていない。前半だけ顔を出すが、出番はなく早死にしたんだろう。

ということは、聖書はイエスの時代になって、その命を与えている神(神の使い)と地上の女の物語であって、所詮、男という生き物は切った貼ったで歴史を作って、天地を創造した神の摂理の進化(全人類への宣教)の役割を担っている脇役なのかもしれない、ということを開示した書物なのかもしれない。

死から復活したイエスに最初に出会ったのは、女であった。

イエスの兄弟もいたその家族を切り盛りしていた気丈なマリアの姿の方に僕はリアリティーを感ずるし、おそらくとてもバイタリティーがあって魅力があったんではなかろうか。僕の女性のイメージはそちらに傾く。

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心理学や精神身体や脳のことや宗教、とくに神学などと少しでもかじってくると政治の事にも関与せざるを得なくなる。ただ、興味があって読み飛ばしているけれども、深刻に考えればそれらは僕らの生活にも多大なる影響を与えている、普段はあまり考えないけれど事実なのである。人の成り立ち。

結局のところ、お金だ、と。そうだろう・・・とイエスを裏切ったユダは言う。いつの時代もそういう、下心のお金という担保があっての繋がりなのであると、ね。ここが、小説の背景にある時代背景にある。つまるところ、時代の政治的背景なのであると。とくに近代の小説は女性の地位は痛々しい。

そこまで行かずに我々は、その手前で満足できるところでこういうものだと「もののあわれ」を感じて諦観をもって人生を生きつつけているわけである。今の僕らでも。結局、不正に対しても反省もしなければ、その地位に上り詰めれば痛みも感じないというわけだ。

だから、政治的なことまでは考えさせる言葉を持たせない。言葉を駆使する作家は、既に感づいているのだが、第一に教育においてそれらを考えさせる言葉を持たせないという教育を大衆にはしてきたのである。

戦争に負け、進駐軍が国体を維持する誤ったこの国の思想あにむずびつく思想の焚書坑儒をしてしまって、その影響をずっと受けてしまっている訳だ。それは、為政者にとって都合がいい。そうしてくれたから、いまだにそうしてくれた彼らに臍のヲを掴まれているという訳だ。

しかし、考えて見たまえ。異なるいわば崇高なる次元の目線で見れば、それは時代を進化させている、つまり地上の人という生き物の精神のあり様、それは神に近づく崇高なる次元にモチベーションを引き上げんとする時代の背景があるのではないかと思わせられる。

世界はそのように成り立ってきたように思える。

つまり、人の心の浄化意識。必然的な人に沁みついた、意識するしないに関わらず、人の宗教性の実際の浄化。神、使いである彼等(👽)はそれを願っているのだろう。無論、絶滅せんとする奴ら(👾)もいるけれども。

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高校時代に国語の教科書に載った、川端康成の『雪国』、森鴎外の『舞姫』、志賀直哉の『城之崎にて』無論、他にあったんだが、文学の神様と呼ばれた志賀直哉はともかく、文章のきれいさだけを学べというものだったのか。こういう作家がいたんだよ、だけだったのか。土台であるべき、深く自分というものを考えさせない教育というものは何だったのだろう。

川端康成も安部晋三さんも「美しい日本の~」とか賛美したお二人は、自死したし、殺〇された。大江健三郎が「あいまいな日本の国」のノーベル賞の講演は西欧かぶれと言われたけれど、それは、すべて天地創造をされたその土台に基づいていたものではなかったか。

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ここまでくだくだ書いてきて、結局、数段上の人類をかなりはるかから見通している神の目線があって、その僕らには分からないそれらの演出によって僕らは生かされている、生きているということが理解されてくるということなのであった。・・・


『雪国』その後

2024-01-25 16:13:54 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 TVでは、島村が悲しいほど美しい声と褒めちぎった葉子の方が、見た目、僕なりに好みに思えたんだけれどねぇ。気がふれた様子は見えないし、そもそも突飛なことがなければ現れない普段は隠れている気がふれたような表情をしない、ということもありえるのだが、物語や画面の中では駒子が、葉子のことを嫉妬深い、とうことで決めつけるけれど、それ以上のおかしさは読み取れなかった。

しかし、女性という中にはそれはそれは異常なる向学心や女の虐げられた地位に爆発するような不満をもって生き抜いていた女たちもいたのだろうから、人の気質から見れば、それを抑えたあきらめきれぬ思いで内心気がふれたようになっていた女もいたのであろうことは推察できる。葉子はそういう設定だったのだろうか。

気がふれているというようなことは、特にあからさまに公言することは、まったく村では禁忌事項となっていたものなのであろうか。それが、第三者的にスケベ心で東京から訪れていた島村には、特別に違った意味合いで、その表に現れない異常さが、その女の怪しげな美しさとなって、ことあるごとに美化することになったのであろうと思われないこともないけれど。

駒子にとっても、その鬱屈は、まずが閉鎖的な田舎村であったこと。第一に貧しかったこと。村でいい金を稼ぐにはそれなりに身を落として芸子になる仕事をしなければならなかったこと。芸指導の師匠には、それなりの授業料を上納しなければならなかったことなど。さらに、いいなづけにと考えていた師匠の息子が東京で働きだしたときも、駒子は芸子の上納金の一部を息子の行男に届けに東京まで行っていたことなど。

村に戻って芸者の仕事をするが、同じ村の葉子が、なぜ島村が乗った列車に病気になって回復の見込みのない村に帰って来た行男に看病しながら同乗していたのかなどは、皆目わからない。

葉子も東京にはでて看護婦の仕事をしていた。彼女は行男が東京に行くときに、実は追いかけて行っていたのだろうか。実は行男と生活を共にしていたのだろうか?死の床で行男を下の世話までして看病するが、この辺の関係はさっぱりわからないのであった。

この実は気の触れた女の妖艶な美しさ?! いづれにしろ、島村の女性に対する異常なほどの美化意識は、これも時代の反映というべきなのであろうか。

普段には、美人に見える年ごろの女。しかし、普通の生活においても、一転あることにおいては、急に狂いだす。実は内面、そういう気質を持った女だったというのはどうだろう。

それは、先に述べた村の閉鎖的な環境、貧乏と、閉鎖という村の環境と女という生き物の地位の低さ、その閉塞感が雪深いとう状況設定で、一層、内向的に自己を押し込め、追い込むことになった。そういう困窮とした状況での女のいきものとしてエストロゲン(女性ホルモン)のバランスが崩れると、もう狂うしかない・・・か。

実際にそういう女が存在しているということは、体験的に知らないことではない。。。

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2022の4月のブログに書いたが、川端康成のこの『雪国』の草稿メモが見つかったとのことを書いた。そのメモには。「葉子は、駒子のこと思い、島村を殺した」・・・という設定もあったということだった。

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昨晩からの雪は、あちことに大雪を降らせて道路の渋滞が報じられている。地震のあった能登半島の状況には心が痛む。雪は朝一面、地面を白くしたが僕のいるところは、まだそれほど積もらず、ブーツでも大丈夫。けれど今晩、降り積もるだろう。

毎年、雪が積もると川端康成の『雪国』を思い出すのであった。・・・


高橋一生主演:NHKBS 川端康成の『雪国』を見る

2024-01-23 18:57:33 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

  2024年1月20日夜、NHKBSで川端康成の『雪国』を見た。ここも雪国ではあるが信越地方程雪深くはない。年を明けたとは言え、雪がまだ降らない。寒くなり今晩あたりから大層な雪が降るというニュースである。

ノーベル賞をもらった方とは言え、川端康成はどうもすかんけれど、表現がとてもいいといいうかきれいな書き方をする作家と思う。心理学や精神医学やら脳味噌に関する本などを読むのが僕はすきなのだが、というのも自分の阿保さ加減を点検できるようで。そんなのをかじっていると、書いた作者や物語の中の人々の心理状態や心情を思ってしまって、こういう表現は何故かなぁ・・・などと思ってしまう。うまい書き方だなどと偉そうに思ったりするが、この作家はすごく危ないところがあるなぁ。

すかんけれども、と書いたのは、はっきり言えば、これは一線を超えない主人公が爽やかに思い込んでいるだけのエロ小説である。それに時代とは言え、女性蔑視なのではないかと思ったりする。けれども時代が許せば、それは一時の切ない物語なのであると。『はじめからただこの女がほしいだけだ。』なんて言葉が出てくるし、第一、のっけから駒子に『この指が君を覚えていたよ』なんて言うのは、おいおい、その指で何したんだよ、などど思ったりしたものだった。

島村は自分(川端自身)ではない、と末の注解に書かれているけれど、女性の見た目や声をこれほどまでに美化して書いて表現するには、やはり川端自身が危ない、と思ったりする。なぜ、これほど女性を美化して、それが彼のイメージの原点なのだが、表現するんだろう。そのイメージが川端の作品のイメージの基なのだ。それにしても。。。

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殊に娘(葉子)の顔のただなかにの山のともし火がともった時には、島村はなんとも言えぬ美しさに胸がふるえたほとだった。・・・娘の眼と火が重なった瞬間、彼女の眼は夕闇の波間に浮かぶ、妖しく美しい夜光虫であった。・・・ 女(駒子)の印象は不思議なくらい清潔であった。足指の裏の窪みまできれいであろうと思われた。・・・細く高い鼻が少し寂しいけれども、その下に小さくつぼんだ唇はまことに美しい蛭の輪のように伸び縮が滑らかで、黙っているときも動いているような感じだから、もし皺があったり色が悪かったりすると、不潔に見えるはずだが、そうではなく濡れ光っていた。・・・葉子の悲しいほど美しい声・・・。

以上のような表現が点在。とにかく、女性に対する目線は、今から言えばちょっと異常!!特に、清潔とか不潔とか、の言葉はどうなのだろう。

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幼少の頃に何かあったんだろうな、と思ってみると、やはり2~3歳で父母を、7歳で祖母を、15歳でたった一人の姉と祖父が亡くなっていた。そういう悲しみの人だったのだ。島村が駒子に『早死にするわよ』と言われる場面があるけれど、そのように川端は自ら早逝してしまった。

これは小説の中で描かれてはいないのではなかったかなぁと思われた箇所。駒子が『貧乏がいやだ』となんども内心叫ぶところ。それから、いい名づけではなかったかと言われた芸後の師匠の息子の行男の名前をなんどもノートに書きつける場面。小説では、師匠も夫婦になるのを願っていたのであろうけれど、駒子はそれを否定したし決して表立って公言せず、むしろ村に病気で帰ってきても会おうとしなかった。

不思議な物語でもある。結局、病気になった行男を看病しつつ東京から付き添って来た島村が列車の中から瞳や声が美しいと形容する葉子と、駒子の関係はやっぱりはっきりしなかった。それをはっきりさせないところが不思議なところで、駒子は葉子さんと呼び、葉子は駒ちゃんと呼ぶ関係。同じ村で知り合いの若い娘が、いづれ東京に出ていくが、東京にいっていた行男との関係はどうだったのか、何故、駒子が村に戻り芸者を勤め、雪の晩に、国境のトンネルを抜けて島村が同乗していた列車に行男を看病しながら葉子は乗って帰ってきたのか・・・??

不思議な結論めいた回答をさがすと、どうも葉子は気がふれている(きちがい)という設定で、これを露わにしないために詳細を語らないために、彼ら(行男、葉子、駒子)の関係が最後までわからないという設定だったのではないか、と勝手に思っている。それにしても、島村の葉子に対する形状や声の美化は不思議なほどの描写である。

『国境のトンネルを超えると雪国だった』という場面。この場面から列車の中の筋向いにすわった女性葉子の描写からなど駅長との葉子の会話は、高校の教科書に載った。そのころ僕は当時、雪深い青森にいたので、非常にこの場面が印象に残ったのだった。1999年新聞にモデルとなった駒子さんが亡くなったという記事が掲載され、僕はそれを切り取って古本屋で100円で買った新潮文庫に挟めていたのだ。

  2022年の4月にも掲載した新聞の記事である。むしろ、こちらの実際の記事が僕はとても感動したものだった。

空想に夢を馳せ早死にした作家、対し小さき頃からの困窮に絶え、現実をたくましく生きた女性。あらためて当時の新聞の記事そのままを掲載して、この寒い夜の今晩から降るであろう雪国からのブログを終わることにします。

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 『川端康成の名作「雪国」のヒロインで「温泉芸者・駒子」のモデルと言われた小高キクさんが先月31日午前11時39分、胆管がんのため新潟県三条市の済生会三条病院で死亡していたことが3日、わかった。83歳だった。

小高さんは1915年(大正4年)11月23日、同市の生まれ。10歳の頃から新潟県長岡市や「雪国」の舞台となった同県湯沢町の置屋で「松栄」の名で芸者として働いていた。

川端が初めて湯沢を訪れたのは34年の冬。川端は高半旅館(現・雪国の宿高半)に宿泊し、当時19歳だったキクさんが呼ばれ、酒の相手をした。川端は36年まで、湯沢を訪れるたびに高半旅館の二階の「かすみの間」に泊まり、キクさんを電話で呼び出したという。

キクさんは40年、24歳の時に芸者をやめた。湯沢町の神社で川端にもらった原稿や本をすべて焼き捨てて三条市へ帰り、小高久雄さんと結婚。以降、和服仕立て屋の女将として暮らした。

その後、川端との交流はなかったが、川端がノーベル賞を受けたのを聞き「あの人も世界の先生になりよございましたの」と越後なまりで答えたという。亡くなる間際、「最後は静かに送ってくれ」との遺言があり、葬儀・告別式は〇日午前11時半から、三条市内で親族のみで営まれた。』


(その5)『聖餐式』についての書かれた救済の仕組み:聖書私的勝手解釈!

2023-11-12 22:03:33 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 ウクライナとロシアの戦争も1年も経とうとしているのに止むことなく、今度はイスラエルとパレスチナの戦争も起こって、1万人以上も人が亡くなったというニュースである。

***********イエスと弟子たちの会話

弟子が問う。

「・・・世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」

イエスは話された。

「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現われ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争の噂を聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ、世の終わりではない。民は民に、国は国に対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。・・・」(マタイによる福音書24:4~8節)

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・・・あぁ、異邦人である僕らには、あまりに多くの先理解が必要なようだ。しかし、世界を見渡せば、ネットや世界のニュースもテレビには飛び込んでくる。戦争が起こり、人と人の対立や、愛は冷え込んでいくだろうと彼は語る。彼の言葉は、そのようだし彼が我々を目覚めさ、彼の再来はまじかなことだと思われてくる。

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何千年に渡って、どうして書き続けられて来たのだろう。思うに、人を創造された神は生きておられ働いておられるのだろうなぁ、ということ。そして、世界を見渡せば、分かろうとしない者は、ますます分からなくなり、理解しようと思う者はよりおおく教えられるであろう、というところか。

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さて、世界のキリスト教会での聖餐儀式についてなのだが、これだけでも紀元前からの教えというものが・・・、人は必ず死を迎えるわけだから、それをこの地上からの、この今の肉体からの脱出と考えれば、神の人と呼ばれたモーゼが旧約時代において、神の使命により民を導いて、あのカナンの地、最終エルサレム(エル・シャローム 神の平安、平和)の地を目指したのは、全人類を死からの脱出(肉体を超えた永遠の霊を持つために)の故に、地上にイエスと言われる救い主(永遠の救済者)を誕生させたという、永遠の神の平和の世界へ我々を導くというこの筋書きが改めて思わされてきて、それが不思議でたまらない。

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聖餐式について・・・私的勝手に解釈とは何の文献も見ないで、そう教えれたと聖書のみによって僕が拾う言葉である。とにかく、無心に読むことによって、ぽこぽこと表に現れてくる、遠い過去からの時間の流れの中で、地下水脈のように流れ、それが現在とそして、未来にまでおそらく流れているのだろう泉のように表現される言葉にその繋がりが推測されて来る。その生きた言葉というもの。

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聖書は誰が書いたんでしょうね。時折、学びの後に口ずさむ、牧師に問いかける僕の言葉であった。「文字を書いたのは人なのでしょうけれど、書かせたのはやはり神様なのでしょうねぇ。何千年にも渡っての物語の中に、ときおり現れる地下水脈のように湧き出る繋がりというか、それがイエスという男につながっていると理解する者には、そのように深層からの答えが返ってくるように思われる。」と。

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聖餐式とは、最後の晩餐に記念として行えとイエスが弟子たちに示された事柄である。

聖餐とは、キリスト教会にとっては大切な儀式なのではあるが、多くは、それがイエスと言われる方が、イエスが十字架に掛からんとする囚われの身になる夜に、弟子たちと最後に夕食を共にした最後の晩餐で、イエスが行われた儀式めいた行為なのである。

「これは皆の為に裂かれる私の体、これは流される血である。記念としてこれを行いなさい。」としてパンと葡萄酒をその例えとして共に食していた弟子たちに与えた行為なのであった。

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この新約聖書部分のみから聖餐式がキリスト教会で行われるようになったか、と言えば、そうではなく、神の当初からの救済のプログラムの中に仕組まれた行為だったということだ。

まず先理解の第一の層には、我々は神の似姿に神により創造された者らである、ということである。

次に、状態として我らは神に息(霊)を吹き込まれ人という種になった者らである、ということである。

永遠の命とは、その神の住む世界に帰り、まったき(からだをもつ)霊として永遠に生きることである。

背後の物語を除き、聖書の言葉だけをあげると、無論、多くの言葉があるけれど、一つの救済の神の仕組みとしてそれが、旧約時代からの筋書き上にあったという、驚きである。霊を吹き込まれ、人となり、肉としての不完全さに神から離れ、その代償として遣わされたイエスの身代わりの犠牲の故にその理解を得た者ら(信者)の救済が完成した。

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その言葉を数か所拾ってみよう。『過ぎ越し』の脱出時の種入れぬパンは『最後の晩餐』のパンの類比。

〇出エジプト記12章13~14節

「あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない。」

〇レビ記17章11節

生き物の命は血の中にあるからである。わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである。」

〇マタイ26章26~29節(マコ14:22-28、ルカ22:15-20、Ⅰコリ11:23-25)

「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。また、盃を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この盃から飲みなさい。これは、罪が許されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」

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つまり、聖書の起源前からの聖餐は神の救済の仕組みとして、永遠の命への脱出として・・・定められたものなのであった。

疲れ、困難のある肉の世界から神の永遠の霊の世界へ、イエスは御自身の身をとおして、そのからだを犠牲として捧げられたのであったという筋書き。そして生きている者は聖霊を送ると言われた。人が生きるのは霊による、と。

どのような不完全な者をも彼を信じた者には、召された後にキリストを着て永遠の国の祝宴に招かれるのであると。

更に、古来から伝統により、神の導きがあったと心底においては理解している当時のユダヤ人やその歴史を知っているであろう異邦人信者に対しても、完成度高いと言われるギリシャ語で書かれたへブル人への手紙にその神学論を展開しているのである。

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〇ヘブライ人への手紙9章11~15節

「・・・御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。・・・まして、永遠の”霊”によって、御自身をきずのないものとして神にささげられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。」

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聖書を読むには、崇高な高い次元からの解釈と読み取りが必要にもなり、それは我らにはその意味合いを掲示として示されるのであろうが。

「さぁ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。」と。

今生においてイエスの救済の言葉に感応する者らは、その元の命は神のもとに居た者らであるらしい。この地上に派遣されて、命をつないで今の命に在らしめているDNAの浄化を図って、イエスに出会い救済に与る、という宿題をやり遂げるために、命が与えられているのであるということになろうか。

「生きていて私を信ずるものは、死ぬことがない。」******* 時は、近づいている。  


(その3)死んだら、どうなるのか? 東京神学大学長講演

2023-11-02 21:00:32 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 前回の項目3.になります。

▶死んだ後、人間はどのようになるのか。・・・・・大きく分けて二通りの考え方がある。Ⅰテサ4:13~17を踏まえるなら、信仰を持って死んだ者は、イエス・キリストの再臨の時に復活するのであり、それまでは、言わば、「眠っている」。

しかし、フィリ1:23によれば、死ぬことは、キリストと共にあることである。体を持たない人間というのはあり得ないから、例えば、死んだ人間の魂は、イエス・キリストの許に、しばらく憩い、復活の時を待ち、イエス・キリストの再臨のときに、新しい、「霊の体」(Ⅰコリ15:46)を与えられて復活する、と考えることはできる。この復活を信じることが、「身体のよみがへり」を信じるということである。

▶人間は死によって失われてしまうわけではない。(イザ49:14~16、出3:6、マコ12:26)

▶「永遠の命」とは何であるか。・・・・・永遠というのは、神の性質である。従って、「永遠の命」ということで、まず考えられなければならないのは、神の命である。

▶神の生きている永遠の命というのは、神がかかわり・交わりの中にあるということ。神が三位一体の神として、独りでありながら、自らの中に父・子・聖霊の交わりを持っているということ。この、神の生きている交わりに与るようになることが、永遠の命。

▶永遠の命に与ることは、既に始まっている。イエス・キリストの霊である聖霊が与えられていることで、人間は神の子とされる。(ロマ8:15~16、ガラ4:6)。信仰を与えられているということは、聖霊によって、イエス・キリストを通して、神の交わりの中に入れられているということ。

▶永遠の命に与っている具体的なしるしは、礼拝である。『ハイデルベルグ信仰問答』によれば、「問58 永遠の命の項は、どんな慰めを、与えますか。/ 答 わたしが。今すでに、心の中に、永遠の喜びの初めを受けていますように、この生命の終わった後にも、人の目もいまだ見ず、人の耳もいまだ聞かず、誰の心にも、いままで浮かんだことのない、完全なる祝福を持ち、そのうちにあって、神を、永遠に、賛美するようになることであります」ということである。

▶礼拝もまた第一に神の業である。まず、神の業としての礼拝があり、その神の業に与ることによって人間の業としての礼拝が成り立つ。「今述べていることの要点は、わたしたちにはこのような大祭司が与えられていて、天におられる大いなる方の玉座の右の座に着き、人間ではなく主がお建てになった聖所また真の幕屋で、仕えておられるということです。」(ヘブ8:1~2)

▶信仰を与えられることなく、世を去った者について、はっきりとした答えをするのは難しい。ただ、ロマ:14:9やⅠペト3:19によれば、死によって失われたと決めつけることことはできないであろう。

▶他の生き物(ペットなど)についても、はっきりとしたことを語るのは難しい。ただ、詩36:7やロマ8:19と21を踏まえると、死によって失われると考える必要はないと言ってよい。

▶信仰を与えられて死ぬ者は、世の終わりを待ち、世の終わりに当たって復活させられ、神との交わりの中に憩うことになる。いま既に与えられている、神との交わりが、死によって断ち切られることなく、永遠なる神によって保たれる。・・・・・<講演内容おわり>

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(👽)私見

キリスト教神学というのは、このような話を共有化しているということだが・・・聖書の内容をあるていど先理解している方に話された講演なので、何のことやらと思われるかもしれない。

いずれにしろ、聖書の教えるところは、人の死後の世界のありようがとらえ方は多々あるが、あらゆる宗教の中でも実にはっきりしているということだ。

そして、それは介在するものを最終一切いれずに、あくまで個人で、その今も生きて我々に命を与えて生きているという(自分の命があるのはそのことなのだが)聖霊につながり(いろいろうろつく悪い?霊もあるのだ)、教えられるという自覚を持って生涯を送る、ということなのである、と。

あなたの死後、霊の慰めにとりなしを行う仏教者、僧侶にそれを尋ねなさい。この国の殆どの方はそうだろうから。僧侶は、[輪廻転生]のことは基本教義として、当然とのこととして身に着けてお在られるはずだ。・・・しかし、それでは我々は、どこにいくのだろう。

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彼(イエス)は、明言する。「私はどこから来て、どこへ行くのか知っている。・・・・わたしに繋がっていなさい。」と。

時代のニュースは世界を巡る。天と創造の世界を支配される父なる神は言われる。「わたしは、生きている。」と・・・時は近い。