記憶探偵〜益田啓一郎のブログ(旧博多湾つれづれ紀行)

古写真古地図から街の歴史逸話を発掘する日々。ブラタモリ案内人等、地域の魅力発掘!まち巡りを綴ります。

西武と西鉄、球団と室内スキー場をめぐる数奇な縁

2015年07月05日 07時14分19秒 | 福博まちの記憶

今回の埼玉西武ライオンズ球団への訪問で、もうひとつ確認したかったのが「狭山スキー場」と「西武鉄道と西日本鉄道の縁」です。

1959(昭和34)年12月22日、高松宮ご夫妻が出席して開場のテープカットが行われた狭山スキー場。その前身は前年の1958(昭和33)年11月23日に西武鉄道グループの「豊島園」に開業したインドアスキー場です。

西鉄と西武鉄道は、ご存知のように「西鉄ライオンズ」と「埼玉西武ライオンズ」ライオンズ球団の前身後身の関係ですが、実は二つの会社は輪廻天性のような不思議な縁で繋がっています。ひとつは西鉄が戦前の1943(昭和18)年の1シーズンだけ保有しプロ野球に参入した「西鉄軍(西鉄産業軍)」というプロ球団の縁。1936(昭和11)年の現行プロ野球発足の年に参入した7球団のひとつ「東京セネタース」は西武鉄道(現在の西武新宿線)が共同運営に名を連ねた球団で、オーナーは貴族院議員・有馬頼寧伯爵(競馬「有馬記念」で知られる筑後久留米藩主の末えい)でした。

不思議な縁というのはココからで、セネタースのユニフォーム&球団マークには当初からライオンがデザインされていました。戦時下で球団経営に行き詰まったセネタースは次々と共同経営会社が変わり、最後に依頼を受けたのが発足したばかりの西日本鉄道の社長・村上巧児でした。村上は有馬氏の依頼を受託し「西鉄軍」として昭和18年のシーズンにプロ参入、前期後期制の後期には巨人軍と争い優勝争いにも絡みました。

戦争が激しさを増し、出征する選手が相次いだことから同年限りでチームは解散。戦後、村上を中心に西日本鉄道は再度のプロ野球参入を目論みますが、解散した球団は再参入の権利がなくノンプロ西鉄を経て(昭和23年に都市対抗野球で優勝)、2リーグ分裂時に「西鉄クリッパース」として再参入が叶い、これが翌年に西日本パイレーツとの合併により「西鉄ライオンズ」誕生となる訳です。

これらの縁は西武球団の「ライオンズクラシック2013~東京セネタースと西武鉄道物語」に詳しく説明されています。

もうひとつの不思議な縁は、世界初のインドア(室内)スキー場についてです。1958(昭和33)年11月23日に豊島園に世界初のインドアスキー場(オカクズと砂を混ぜた人工雪を使用)が開設され、翌12月には西武百貨店屋上にも登場します。そのわずか3週間後、同様にインドアスキー場の開設を目論んでいたのが西日本鉄道を中心とする福岡市の企業が共同運営し、筥崎宮参道に建設された「福岡室内スキー場」です。結果、1958(昭和33)年12月12日に世界で3番目、西日本初となるインドアスキー場が開設されて、全国的なスキーブーム到来目前の福岡でスキー入門施設(室内スキー場で体験し、大山や三瓶山へスキーバスツアー)として愛好家に親しまれました。

福岡室内スキー場についての記録写真はにしてつWebミュージアム「にしてつ画像ライブラリー」にて公開しています。

前身会社が次々と100周年を迎えている西武鉄道、所沢駅など駅ごとに歴史紹介パネルが展示されていました。

 

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