出典:土佐清水市 ジョン万次郎トップページより
出典:土佐清水市 ジョン万次郎の生涯より
沖縄で愛される中浜万次郎 その3
琉球で綱曳きにも参加した
琉球に上陸した万次郎の様子を少し詳しく見ておきたい。
万次郎の孫にあたる中浜明氏の書いた『中浜万次郎の生涯』から紹介したい。
万次郎の乗った船が、琉球に近づくと、ホイットモア船長は、上陸させるのは身の危険があると心配してくれた。万次郎は、日本の鎖国という国法はよく心得ています。処罰を恐れていたら、何もできないと主張した。船長は、その言葉に深く動かされ、琉球は日本へはいる場所としては、地理的には一番すぐれている、と勧めてくれた。
万次郎たちはボートに乗り移り、陸地に接近した。二月三日の朝、海岸に土地の人が出ている姿を認めた。話しかけてもいっこうに通じない。
内陸の方に進んでいくと、四、五人に出会い、土地の名をたずねると、一人の若者が出てきて、日本語で、ここは琉球国の摩文仁間切(まぎり、村のような単位)の小度浜と答えた。あなたは、どこから来たのか、なんの用事で来たのかとたずねる。漂流の顛末を手短に語ると、その若者は、日本人であるからには粗末には扱われますまい、心配なさるな、といたわってくれた。
そして、役人のいる所へ案内された。ここでもまた、ふかしたサツマ芋を出して接待してくれ、三人から身の上の聴き取りをされた。
こんどは、那覇に護送する、と出発した。真夜中ごろ、那覇の町に入ろうとする所まで着くと、役人がやって来て、那覇には入ってはいけない、翁長(おなが、現在の豊見城市)村へ行けと命令。夜道を、八㌔も行くと翁長村に着いた。
ここの村役人をしている徳門(とくじょう、屋号)という農家に入る(家主は高安公介)。
家のまわりには竹の矢来が作られた。徳門の家族八人は、隣りに茅葺き家を大急ぎで作って引っ越した。薩摩の役人に取り調べを受けた(琉球は今から四〇〇年前の一六〇九年に、薩摩に侵略されて、その支配下にあったからである)。
薩摩の侍五人と琉球の役人二人が、近くで監視していた。でも、漂流民三人に対する待遇は上等だった。食事は、琉球の調理人が結構なご馳走をととのえ、お酒も添えられた。衣服、寝具にも不自由はなかった。
翁長での取り調べは最初だけで、あとは何の沙汰もなく、ほうって置かれた。
万次郎は琉球語の勉強を始めた。竹の矢来をくぐりに抜けて土地の人々のところにも、話に出かけた。
八月の一五夜には、どこの村でも村民総出で、東西に別れて大きな綱曳きが催されるが、早くからその練習が行われるので、万次郎は自分の宿舎が村の東の方(沖縄では、東は「あがり」、西は「いり」という)にあるところから、東組に加わって綱曳きの仲間入りをした。
この綱曳きは、いまでも沖縄県内ではどこでもとっても盛んである。
稲わらを集めてデッカイ綱をなうところから、集落の人々が夜ごと集まり作り上げる。綱曳きは単なるお祭り、娯楽ではない。
五穀豊穣や子孫繁栄など住民の願いが込められ、神事として行われた。先端が輪の形になった雄綱、雌綱という二つの綱を合体させ、カヌチ(貫抜き棒)と呼ばれる大きな棒を差し込んで綱を結合して曳き合う。
東が勝つか西が勝つかで、豊凶を占う。だから、みんな総がかりで力を振り絞って勝負する。一晩で終わらず、二晩曳きあうところもある。予行演習といっても、万次郎が村の綱曳きに参加したというのは、住民といかに親しくなっていたのかをうかがわせるエピソードである。
わずか半年ほどの滞在だったのに、琉球語も勉強したというのは、驚きだ。
ウチナーグチとよばれる沖縄語は、同じ日本語を母体としながら、方言というより独立の言語と呼べるほど難しさがある。
沖縄に住んで三年を超えた私たちでも、まだごくわずかしか分らない。第一、沖縄人自身が、いまや沖縄語が分らない人が多くなっている。
戦前から学校教育で方言を排除し、共通語を徹底することが追求されてきたからだ。万次郎も、土佐の漁師だったので話せたのは土佐弁だけである。
それも一〇年にわたる外国暮らしで忘れてきていた。この沖縄滞在中に沖縄語を勉強したというのは、万次郎の旺盛な知識欲と、琉球の人々と少しでも交流したいという思いが感じられる。
「ジョン万次郎を語る会」刊行の長田亮一氏著の『ジョン万次郎物語』は、村民との交流の模様を次のように記しています。
徳門家には美人姉妹がいて、万次郎は二人の姉妹に好感を抱き、土佐の話やアメリカの話などを聞かせた。夜になれば、星空のもと、自分を取り巻く村の青少年たちに、航海術で学んだ星座や天体の仕組みなどを話したという。
たとえ、半年の短い期間であっても、異国の土佐人で、しかもアメリカで暮らし、世界を航海して来た万次郎の滞在とその話は、村民にとっても強い印象を与えたことは疑いない。
万次郎が、鹿児島に向けて出発する際には、「郷里に無事着いたら便りを出しますが、若し便りがなかったら処刑されたものと思って下さい」といった別れの挨拶をしたという。
万次郎は、みずから製作し大切にしていた六尺棒を形見として徳門家の主(あるじ)に進呈した。
後年、病魔が沖縄南部一帯で蔓延した時、徳門家の家族が一人も病気にならなかったのはこの六尺棒のお蔭だとして、守護神のように大切にされていたが、沖縄戦で消失したという。
また、万次郎が江戸に住むようになってから、一冊の分厚い本を徳門家に寄贈した。
今次大戦時、アメリカ帰りの万次郎が昔滞在したというだけで、徳門家は昭和一九年(一九四四年)の戦争末期に、憲兵隊や特高の立入調査の対象にされ、万次郎が贈った本も検閲された。それもまた戦火の中で消失したという。これも、長田氏が著書で紹介している話である。
HN:沢村 (二〇〇九年二月三日、万次郎の沖縄上陸から一五八年目の日に) 月刊誌「高知人からの転載」
沢村さんの沖縄通信
出典:土佐清水市 ジョン万次郎の生涯より
沖縄で愛される中浜万次郎 その3
琉球で綱曳きにも参加した
琉球に上陸した万次郎の様子を少し詳しく見ておきたい。
万次郎の孫にあたる中浜明氏の書いた『中浜万次郎の生涯』から紹介したい。
万次郎の乗った船が、琉球に近づくと、ホイットモア船長は、上陸させるのは身の危険があると心配してくれた。万次郎は、日本の鎖国という国法はよく心得ています。処罰を恐れていたら、何もできないと主張した。船長は、その言葉に深く動かされ、琉球は日本へはいる場所としては、地理的には一番すぐれている、と勧めてくれた。
万次郎たちはボートに乗り移り、陸地に接近した。二月三日の朝、海岸に土地の人が出ている姿を認めた。話しかけてもいっこうに通じない。
内陸の方に進んでいくと、四、五人に出会い、土地の名をたずねると、一人の若者が出てきて、日本語で、ここは琉球国の摩文仁間切(まぎり、村のような単位)の小度浜と答えた。あなたは、どこから来たのか、なんの用事で来たのかとたずねる。漂流の顛末を手短に語ると、その若者は、日本人であるからには粗末には扱われますまい、心配なさるな、といたわってくれた。
そして、役人のいる所へ案内された。ここでもまた、ふかしたサツマ芋を出して接待してくれ、三人から身の上の聴き取りをされた。
こんどは、那覇に護送する、と出発した。真夜中ごろ、那覇の町に入ろうとする所まで着くと、役人がやって来て、那覇には入ってはいけない、翁長(おなが、現在の豊見城市)村へ行けと命令。夜道を、八㌔も行くと翁長村に着いた。
ここの村役人をしている徳門(とくじょう、屋号)という農家に入る(家主は高安公介)。
家のまわりには竹の矢来が作られた。徳門の家族八人は、隣りに茅葺き家を大急ぎで作って引っ越した。薩摩の役人に取り調べを受けた(琉球は今から四〇〇年前の一六〇九年に、薩摩に侵略されて、その支配下にあったからである)。
薩摩の侍五人と琉球の役人二人が、近くで監視していた。でも、漂流民三人に対する待遇は上等だった。食事は、琉球の調理人が結構なご馳走をととのえ、お酒も添えられた。衣服、寝具にも不自由はなかった。
翁長での取り調べは最初だけで、あとは何の沙汰もなく、ほうって置かれた。
万次郎は琉球語の勉強を始めた。竹の矢来をくぐりに抜けて土地の人々のところにも、話に出かけた。
八月の一五夜には、どこの村でも村民総出で、東西に別れて大きな綱曳きが催されるが、早くからその練習が行われるので、万次郎は自分の宿舎が村の東の方(沖縄では、東は「あがり」、西は「いり」という)にあるところから、東組に加わって綱曳きの仲間入りをした。
この綱曳きは、いまでも沖縄県内ではどこでもとっても盛んである。
稲わらを集めてデッカイ綱をなうところから、集落の人々が夜ごと集まり作り上げる。綱曳きは単なるお祭り、娯楽ではない。
五穀豊穣や子孫繁栄など住民の願いが込められ、神事として行われた。先端が輪の形になった雄綱、雌綱という二つの綱を合体させ、カヌチ(貫抜き棒)と呼ばれる大きな棒を差し込んで綱を結合して曳き合う。
東が勝つか西が勝つかで、豊凶を占う。だから、みんな総がかりで力を振り絞って勝負する。一晩で終わらず、二晩曳きあうところもある。予行演習といっても、万次郎が村の綱曳きに参加したというのは、住民といかに親しくなっていたのかをうかがわせるエピソードである。
わずか半年ほどの滞在だったのに、琉球語も勉強したというのは、驚きだ。
ウチナーグチとよばれる沖縄語は、同じ日本語を母体としながら、方言というより独立の言語と呼べるほど難しさがある。
沖縄に住んで三年を超えた私たちでも、まだごくわずかしか分らない。第一、沖縄人自身が、いまや沖縄語が分らない人が多くなっている。
戦前から学校教育で方言を排除し、共通語を徹底することが追求されてきたからだ。万次郎も、土佐の漁師だったので話せたのは土佐弁だけである。
それも一〇年にわたる外国暮らしで忘れてきていた。この沖縄滞在中に沖縄語を勉強したというのは、万次郎の旺盛な知識欲と、琉球の人々と少しでも交流したいという思いが感じられる。
「ジョン万次郎を語る会」刊行の長田亮一氏著の『ジョン万次郎物語』は、村民との交流の模様を次のように記しています。
徳門家には美人姉妹がいて、万次郎は二人の姉妹に好感を抱き、土佐の話やアメリカの話などを聞かせた。夜になれば、星空のもと、自分を取り巻く村の青少年たちに、航海術で学んだ星座や天体の仕組みなどを話したという。
たとえ、半年の短い期間であっても、異国の土佐人で、しかもアメリカで暮らし、世界を航海して来た万次郎の滞在とその話は、村民にとっても強い印象を与えたことは疑いない。
万次郎が、鹿児島に向けて出発する際には、「郷里に無事着いたら便りを出しますが、若し便りがなかったら処刑されたものと思って下さい」といった別れの挨拶をしたという。
万次郎は、みずから製作し大切にしていた六尺棒を形見として徳門家の主(あるじ)に進呈した。
後年、病魔が沖縄南部一帯で蔓延した時、徳門家の家族が一人も病気にならなかったのはこの六尺棒のお蔭だとして、守護神のように大切にされていたが、沖縄戦で消失したという。
また、万次郎が江戸に住むようになってから、一冊の分厚い本を徳門家に寄贈した。
今次大戦時、アメリカ帰りの万次郎が昔滞在したというだけで、徳門家は昭和一九年(一九四四年)の戦争末期に、憲兵隊や特高の立入調査の対象にされ、万次郎が贈った本も検閲された。それもまた戦火の中で消失したという。これも、長田氏が著書で紹介している話である。
HN:沢村 (二〇〇九年二月三日、万次郎の沖縄上陸から一五八年目の日に) 月刊誌「高知人からの転載」
沢村さんの沖縄通信