ジョン万次郎ファンクラブ

ジョン万次郎(中浜万次郎)の偉業を顕彰し、”ジョン万”ファンを広げていきます。

沖縄で愛される中浜万次郎 その3・・・琉球で綱曳きにも参加した

2009-06-04 | 万次郎に関する情報
 出典:土佐清水市 ジョン万次郎トップページより



出典:土佐清水市 ジョン万次郎の生涯より


沖縄で愛される中浜万次郎 その3

琉球で綱曳きにも参加した


琉球に上陸した万次郎の様子を少し詳しく見ておきたい。

万次郎の孫にあたる中浜明氏の書いた『中浜万次郎の生涯』から紹介したい。

万次郎の乗った船が、琉球に近づくと、ホイットモア船長は、上陸させるのは身の危険があると心配してくれた。万次郎は、日本の鎖国という国法はよく心得ています。処罰を恐れていたら、何もできないと主張した。船長は、その言葉に深く動かされ、琉球は日本へはいる場所としては、地理的には一番すぐれている、と勧めてくれた。

万次郎たちはボートに乗り移り、陸地に接近した。二月三日の朝、海岸に土地の人が出ている姿を認めた。話しかけてもいっこうに通じない。

内陸の方に進んでいくと、四、五人に出会い、土地の名をたずねると、一人の若者が出てきて、日本語で、ここは琉球国の摩文仁間切(まぎり、村のような単位)の小度浜と答えた。あなたは、どこから来たのか、なんの用事で来たのかとたずねる。漂流の顛末を手短に語ると、その若者は、日本人であるからには粗末には扱われますまい、心配なさるな、といたわってくれた。

そして、役人のいる所へ案内された。ここでもまた、ふかしたサツマ芋を出して接待してくれ、三人から身の上の聴き取りをされた。

こんどは、那覇に護送する、と出発した。真夜中ごろ、那覇の町に入ろうとする所まで着くと、役人がやって来て、那覇には入ってはいけない、翁長(おなが、現在の豊見城市)村へ行けと命令。夜道を、八㌔も行くと翁長村に着いた。

ここの村役人をしている徳門(とくじょう、屋号)という農家に入る(家主は高安公介)。

家のまわりには竹の矢来が作られた。徳門の家族八人は、隣りに茅葺き家を大急ぎで作って引っ越した。薩摩の役人に取り調べを受けた(琉球は今から四〇〇年前の一六〇九年に、薩摩に侵略されて、その支配下にあったからである)。

薩摩の侍五人と琉球の役人二人が、近くで監視していた。でも、漂流民三人に対する待遇は上等だった。食事は、琉球の調理人が結構なご馳走をととのえ、お酒も添えられた。衣服、寝具にも不自由はなかった。



翁長での取り調べは最初だけで、あとは何の沙汰もなく、ほうって置かれた。

万次郎は琉球語の勉強を始めた。竹の矢来をくぐりに抜けて土地の人々のところにも、話に出かけた。

八月の一五夜には、どこの村でも村民総出で、東西に別れて大きな綱曳きが催されるが、早くからその練習が行われるので、万次郎は自分の宿舎が村の東の方(沖縄では、東は「あがり」、西は「いり」という)にあるところから、東組に加わって綱曳きの仲間入りをした。



この綱曳きは、いまでも沖縄県内ではどこでもとっても盛んである。

稲わらを集めてデッカイ綱をなうところから、集落の人々が夜ごと集まり作り上げる。綱曳きは単なるお祭り、娯楽ではない。

五穀豊穣や子孫繁栄など住民の願いが込められ、神事として行われた。先端が輪の形になった雄綱、雌綱という二つの綱を合体させ、カヌチ(貫抜き棒)と呼ばれる大きな棒を差し込んで綱を結合して曳き合う。

東が勝つか西が勝つかで、豊凶を占う。だから、みんな総がかりで力を振り絞って勝負する。一晩で終わらず、二晩曳きあうところもある。予行演習といっても、万次郎が村の綱曳きに参加したというのは、住民といかに親しくなっていたのかをうかがわせるエピソードである。



わずか半年ほどの滞在だったのに、琉球語も勉強したというのは、驚きだ。

ウチナーグチとよばれる沖縄語は、同じ日本語を母体としながら、方言というより独立の言語と呼べるほど難しさがある。

沖縄に住んで三年を超えた私たちでも、まだごくわずかしか分らない。第一、沖縄人自身が、いまや沖縄語が分らない人が多くなっている。

戦前から学校教育で方言を排除し、共通語を徹底することが追求されてきたからだ。万次郎も、土佐の漁師だったので話せたのは土佐弁だけである。

それも一〇年にわたる外国暮らしで忘れてきていた。この沖縄滞在中に沖縄語を勉強したというのは、万次郎の旺盛な知識欲と、琉球の人々と少しでも交流したいという思いが感じられる。



「ジョン万次郎を語る会」刊行の長田亮一氏著の『ジョン万次郎物語』は、村民との交流の模様を次のように記しています。

徳門家には美人姉妹がいて、万次郎は二人の姉妹に好感を抱き、土佐の話やアメリカの話などを聞かせた。夜になれば、星空のもと、自分を取り巻く村の青少年たちに、航海術で学んだ星座や天体の仕組みなどを話したという。

たとえ、半年の短い期間であっても、異国の土佐人で、しかもアメリカで暮らし、世界を航海して来た万次郎の滞在とその話は、村民にとっても強い印象を与えたことは疑いない。



万次郎が、鹿児島に向けて出発する際には、「郷里に無事着いたら便りを出しますが、若し便りがなかったら処刑されたものと思って下さい」といった別れの挨拶をしたという。

万次郎は、みずから製作し大切にしていた六尺棒を形見として徳門家の主(あるじ)に進呈した。

後年、病魔が沖縄南部一帯で蔓延した時、徳門家の家族が一人も病気にならなかったのはこの六尺棒のお蔭だとして、守護神のように大切にされていたが、沖縄戦で消失したという。

また、万次郎が江戸に住むようになってから、一冊の分厚い本を徳門家に寄贈した。

今次大戦時、アメリカ帰りの万次郎が昔滞在したというだけで、徳門家は昭和一九年(一九四四年)の戦争末期に、憲兵隊や特高の立入調査の対象にされ、万次郎が贈った本も検閲された。それもまた戦火の中で消失したという。これも、長田氏が著書で紹介している話である。

HN:沢村 (二〇〇九年二月三日、万次郎の沖縄上陸から一五八年目の日に)  月刊誌「高知人からの転載」

沢村さんの沖縄通信

沖縄通信・・・沖縄で愛される中浜万次郎 その2

2009-06-04 | 万次郎に関する情報
沖縄で愛される中浜万次郎 その2



ジョン万次郎 1880年頃 (出典:ウイキペディア)

万次郎の漂流と一〇年間の外国暮らし

初めに、万次郎の漂流以来の足跡をスケッチしておこう。

土佐清水市中の浜で生まれた漁師、万次郎は一八四一年に出漁した船が遭難し、アメリカの捕鯨船・ジョン・ハラウンド号に救出された。

ホイットフィールド船長にかわいがられ、そこで教育を受け、さまざまな知識を得た。

一八四七年には捕鯨船フランクリン号で世界の海を航海する。一八四九年には、日本に帰る旅費を稼ぐため、ゴールドラッシュのカリフォルニアで、砂金採りなどして資金を得て、ハワイに渡り仲間二人と帰国を準備する。

ボート「アドベンチャー号」や土産物などを買い集めた。万次郎ら三人は、一八五〇年、ハワイ経由で上海に向かう商船・サラボイド号に乗せてもらう。ちょうど漂流して一〇年目にあたる一八五一年二月三日、琉球の小度浜に上陸した。

その後、鹿児島、長崎、そして土佐藩で取り調べを受けた。当時の日本は鎖国をしており、海外渡航は厳しく処罰される状態にあったからである。



万次郎は、西洋事情に通じた知識や英語の能力をかわれて、幕府に招かれた。

幕府直参の旗本となって、中浜の姓も名乗るようになる。

だが、一八五四年にペリー来航のさいに幕府は、万次郎がアメリカの不利になることは好まないだろう(つまりアメリカに味方する)、ペリーに会わせない方がよいという強硬な意見があり、通訳をさせなかった。

一八六〇年には、勝麟太郎や福沢諭吉らと咸臨丸に乗り渡米した。

一八七〇年には、フランス・プロイセン戦争の視察でヨーロッパを訪れ、その途中にアメリカで恩人のホイットフイールド船長と二〇年ぶりに再会した。一八九八年に死亡。七一歳だった。

HN:沢村 (二〇〇九年二月三日、万次郎の沖縄上陸から一五八年目の日に)  月刊誌「高知人からの転載」

沢村さんの沖縄通信

沖縄通信・・・沖縄で愛される中浜万次郎 その1

2009-06-04 | 万次郎に関する情報
沖縄で愛される中浜万次郎 その1



 沖縄に移り住んで驚いたことの一つに、中浜万次郎(ジョン万次郎)がとても、県民の間でよく知られていることがある。

二〇〇五年一〇月だったか、初めて沖縄本島の南部に行ったとき、地図に糸満市の大渡(おおど)海岸が中浜万次郎の上陸地点であることが記されていて、「ああ、万次郎は沖縄に上陸したのだった」と改めて認識した。

沖縄に移り住むまで、万次郎がアメリカから帰国する際、沖縄に上陸したことは、まるで失念していたというか、そもそも認識がなかったという方が正確だ。東京に三〇年余暮らしていたので、万次郎に対する関心そのものが薄れていたといってよい。



 この上陸地点の大渡海岸(小度浜=おどはま=といっていた)は、沖縄戦の終焉の地といわれる摩文仁(まぶに)のすぐ近くにある。

沖縄戦の際、住民は海岸の岩陰や小さなガマなどに隠れたが、激しい戦闘に巻き添えになり、地区住民の半数以上が犠牲になった悲惨な歴史がある。

でもいまは、海岸に岩礁が広がる浜は、シュノーケルをする若者が集まるポイントになっている。万次郎が漂流した仲間二人とボート「アドベンチャー号」を漕いでこの浜に上陸したのは一八五一年二月三日のことだ。

いまから一五八年も昔になる。浜辺に立って「万次郎はどんな思いでこの浜に上陸したのだろうか」と考えながら、真っ青な海と空を眺めると、なにか感慨深いものがこみあげてきた。



 その後、図書館で万次郎に関する著書を探してみると、なんと万次郎の関する著書は、沖縄関係図書のコーナーに並べられている。

しかも、沖縄の人が、万次郎の生涯を書いた本が、青少年向けや絵本を含めて何冊も沖縄の出版社から出されていることにまた驚いた。

「上陸しただけで、こんなに万次郎本があるとは、いったいどういうことだろうか」「沖縄でなぜこんなに万次郎が注目されているのだろうか」と関心がわいてきた。

さらに、「ジョン万次郎を語る会」という団体まであって、活動していることを知り、なおさら興味がわいてきた。沖縄に上陸したといっても、滞在したのはわずか半年ほど。「万次郎はなぜこんなに愛されているのだろうか?」。



万次郎を語り継ぐ沖縄の取り組み

本題に入る前に、沖縄での万次郎に関する主な取り組みを紹介しておきたい。

万次郎が琉球に上陸して、一四〇年の節目に当たる一九九一年、万次郎ゆかりの豊見城村(とみぐすくそん、現在は市になっている)に在住する何人かの有志によって「ジョン万次郎を語る会」がつくられた。

会は、「万次郎伝」の執筆を長田亮一氏に依頼し、長田氏は九一年一〇月、『ジョン万次郎物語』を同会から刊行した。

その後、会はシンポジウム、講演会など催し活動を続けている。一九九三年には、万次郎の生まれた土佐清水市と豊見城市が姉妹都市を締結し、児童生徒の交流など行うようになった。



万次郎が沖縄に上陸して一五〇年目にあたる二〇〇一年二月三日、豊見城市内で「万次郎来村一五〇年を祝う会」が開かれた。

この年、六月一二日から「沖縄タイムス」紙上で「絵物語・琉球に上陸したジョン万次郎」が一二回にわたり連載された。著名な版画家の儀間比呂志さんの文・画、神谷良昌さんの案によるものだ。



二〇〇二年五月には、万次郎から四代目の中浜博さんが、万次郎の子孫としては初めて沖縄を訪れて、万次郎が滞在した豊見城の高安家の子孫と対面した。

博さんは「万次郎が沖縄で親切にしてもらったことは代々伝わっている」と述べたという。この年、一二月には、豊見城市の市制施行記念自主企画事業として、長田氏の著書を原作にして市民劇「歴史ロマン・ジョン万次郎の夢~豊見城編」が上演された。

二〇〇六年一一月には、劇団四季のファミリー・ミュージカル「ジョン万次郎の夢」が宜野湾市で上演された。



二〇〇六年四月に、第一〇回豊見城市教育長杯(ジョン万カップ)少年野球交流大会が行われ、土佐清水市からも二チームが参加した。二〇〇七年九月には、万次郎の子孫で五代目の中浜京さんが豊見城市に来て「私の大好きなジョン万次郎」と題して講演した。

二〇〇八年一二月には、「寺子屋ニッポン!じんぶん伝―ジョン万次郎琉球へ」が沖縄テレビによって制作され、フジテレビ系列で放送された。

万次郎はなぜ琉球を目指したのか、琉球上陸は偶然ではない、綿密な計算があったというのが主題になっている。

HN:沢村 (二〇〇九年二月三日、万次郎の沖縄上陸から一五八年目の日に) 月刊誌「高知人」からの転載



沢村さんの沖縄通信