島袋良徳著「ジョン万次郎物語」・・・その1
高知県出身で沖縄在住の沢村さん(沢村さんの沖縄通信・・・でおなじみ)より、下記の文章をいただきましたので、何回かに分けてご紹介させていただきます。
沢村さんより・・・この文章は、島袋良徳さんという方がもう30年ほど前に書かれたもので、出版もされないままになっていたものを、糸満市米須に在住する高知県出身の和田達雄さんが、手製の小冊子にまとめられて、それを頂いたので、その中から一部を抜粋してものです。
島袋良徳著「ジョン万次郎物語」
冊子の表紙
裏表紙
「糸満市公報」に1990年4月号から1995年6月号まで5年2カ月、「ジョン万次郎物語」が26回にわたり連載された。糸満市文化財保護委員長をつとめた万次郎研究家の島袋良徳さんが執筆した。糸満市商工観光振興委員長の肩書である。
島袋さんが万次郎研究にはずみをつけたのは、1966年に出された字米須の「要覧」だった。「口碑伝説」の項目に、万次郎の上陸地については、「その地点が摩文仁間切小渡浜といわれ」とあり「われわれはこのいわれをこの浜にむすんで永く記念したいものである」と記してある。「この結びの一節に強く心を動かされた」という。
しかし、当時万次郎の小渡浜上陸は史実でないという意見もあり、万次郎のふるさと(土佐清水市中浜)を訪ねて多くの関係資料を見せてもらい、万次郎が1851年1月3日(旧暦)、摩文仁間切小渡浜に上陸したことを確かめて帰った。研究のかたわら、つとめて多くの方々と万次郎のことを語り合う機会をつくってきたという。
「幕末から明治初期に至る日本の文明開化の夜明けに活躍したジョン万次郎は、帰国の時にこの地を選び、アメリカの文化を身体一ぱいに詰め込んで大度の浜に上陸しています。海の水は青々と澄み、風光明媚な浜辺には、明るい誇るべき真実の歴史があることを、より多くの市民に知っていただける機会になればと願いを込め」書き続けたと記している。以下、「ジョン万次郎物語」からの抜粋し要約して紹介する。
捕鯨船に救われアメリカへ
万次郎は早く父を亡くし、貧乏な家に育ち、漁師になれば母に苦労をかけずに食べて行ける。そう決意してカツオ船に「かしき」(飯炊き)として乗り込んだ。船が遭難して5人が無人島に漂着した。
アメリカの捕鯨船、ジョン・ハウランド号に救われ、船名から「ジョン・マン」と呼ばれるようになった。半年後にハワイのホノルル港に停泊し、5人はハワイにとどまることになった。しかし、万次郎だけホイットフィールド船長に付いて捕鯨船に戻り、1年4カ月航海し、母港のアメリカ・ニューベッドフォードに入港した。その間に万次郎は英語を覚え、日常の会話に不自由しないほどになっていた。
船長の郷里、フェアヘーブンに着いた。土佐では寺子屋にさえ行けなかった万次郎は、船長の計らいで小学校に入学し、16歳で勉強するチャンスをつかんだ。勉強熱心な万次郎は、成績を認められ上級のパートレット専門学校に進学した。英語・数学・測量術・航海術など高度な内容の授業にも人一倍の努力で勉強した。
彼の勤勉さは有名で、1916年の地元新聞に「いつもクラスのトップで、優秀な成績で卒業した」という同級生の談話が載っている。勉強のかたわら、桶屋に住み込んで鯨油樽を造る技術も習得した。19歳の時、万次郎を見込んで米国一流の捕鯨船フランクリン号の船長が乗船を頼み、船員となった。
母港を出帆して10か月目にグアム島に寄港した。万次郎はホイットフィールド船長に手紙を書いた。手紙は、これから琉球に行くことを告げ、「琉球上陸のチャンスをつかみ、捕鯨船が琉球で水や食糧を補給できるように私は琉球の開港に努力したい」と結んでいる。
フランクリン号は小笠原諸島を西に進み、琉球列島のある小島に万次郎は上陸した。島の役人から牛2頭を贈られ、お返しに綿布を贈った。この島を「マンピゴミレ」と呼んだが、現在の何島であるかはっきりしない。
フランクリン号は航行中に、デービス船長が発病し、後任選出を全乗組員で行い、万次郎は普通9~12年ほどたたき上げなければなれない一等航海士と副船長にわずか3年余の航海歴で選ばれた。父親同様のホイットフィールド船長は「ジョン、お前は西洋式航海術で世界を回った最初の日本人だ」とほめたたえた。
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