ジョン万次郎ファンクラブ

ジョン万次郎(中浜万次郎)の偉業を顕彰し、”ジョン万”ファンを広げていきます。

島袋良徳著「ジョン万次郎物語」・・・その3

2015-06-27 | 万次郎に関する情報

島袋良徳著「ジョン万次郎物語」・・・その3

11年ぶりに母と対面

 土佐藩でも70日余の取り調べが続いた。土佐藩主は特に万次郎からの外国事情の聞き取りが目的であった。藩から解放され、中ノ浜に着いたのは10月5日であった。待ちわびた母との対面は、11年と10カ月ぶりにかなえられた。

親子水入らずの生活もわずか、万次郎は藩主に呼び出された。侍に取り立てられ、高知城下の教授館(学校)の教授に任命された。名字帯刀を許され、故郷の地名をとって中浜万次郎と名乗った。

 教授館に通う若者には、14・5歳の後藤象二郎や三菱財閥の創設者、岩崎弥太郎などがいて、民主主義制度によるアメリカの国情や世界の海を航海した体験談に耳を傾けた。間接ではあったが、坂本龍馬も大きく影響を受けたといわれている。 

 1853年にペリー艦隊が浦賀に来航。幕府は万次郎を呼んでアメリカの国情を聞き早期開国を訴える万次郎を召し上げ、幕府直参の役人に登用した。

 

 日米交渉の陰に置かれた万次郎

 1854年1月、ペリーが再び来航し、米船が石炭、薪、水、食糧などを補給する基地として下田、函館2港の開港を幕府と取り決め、3月に日米和親条約を締結した。万次郎が訴えてきた日本の補給基地開港がやっと実現した。しかし、交渉の場にも幕府は万次郎を使わなかった。

「万次郎を通訳に使えば、永年世話になったアメリカへの恩義を思いアメリカのために心が動くであろう」と疑う意見や「スパイの疑いはないが、アメリカの不利になることは好ましくないであろう。米国人と会わすことは避けるべきだ」などの警告もあり、幕府重臣の多くは疑念を抱いていた。

 勘定吟味役の江川太郎左衛門が、万次郎を幕府直参に登用した。万次郎は「大型造船を許可して捕鯨漁を興すことが国益になる」と説いた。江川を通して、熱意が幕府に通じ、大船建造禁止令が解かれ、各藩で西洋形造船に関心が高まり、幕府は万次郎にアメリカ航海術書の翻訳を命じた。日本最初の『アメリカ合衆国航海学書』が出版された。

 1857年4月、江戸の開設された講武所の軍艦教授所の教授に任命され、航海術の指導に当たった。10月、捕鯨事業を興すため函館で捕鯨技術の伝授を任命され、捕鯨基地の調査や漁業者に捕鯨の有望さを説き回った。59年2月、幕府から「捕鯨の御用」に任命され、小笠原近海で西洋型帆船を使っての西洋式捕鯨実習で海洋に出た。

 

荒波にもまれ太平洋を行く咸臨丸

幕府は日米修好通商条約の批准のため、使節団をボーハタン号で米国に派遣し、護衛艦として咸臨丸を送ることにした。司令官に軍艦奉行の木村喜穀、艦長に勝海舟、通弁主務(通訳)に中浜万次郎が任命され、総勢96人が船出した。便乗していたジョン・ブルック海軍大尉が残した航海日誌で艦内の動向が明らかにされている。

暴風雨にあったとき「常に艦主にたっていたのは万次郎のみ。ほとんど徹夜で艦長の役目を果たしていた」。あとで勝海舟は、航海中の指揮命令のすべてを万次郎に一任した。陰の名艦長であった。

 咸臨丸が浦賀に寄港して間もなく、万次郎は軍艦操練所教授を免職された。理由は、上司の許可を得ないで横浜港に停泊中の外国船に出向いたことだった。

 万次郎は混迷する幕府の政治や外交にたずさわる幕臣たちに開国のもたらす国益の大きさを機会あるごとに説明していた。これが理解されず、逆にアメリカの利を計る言動であると誤解され、万次郎は常に政治や外交の影の場において活動させられてきた。このような偏見や差別にもめげず、一途に日本の開国による文明開化の招来に尽くす万次郎の決意は一層に高まるばかりであった。

 

 小笠原の国土を守った万次郎

 1861年、万次郎は外国奉行水野忠徳通訳として、再び咸臨丸で小笠原諸島に出向くように命ぜられた。小笠原諸島は1593年、幕府が探検させてあったが、開拓政策もなく長らく放置し、無人島だった。1830年にはハワイ諸島から集団移民が入って来て定住した。ペリーは、アメリカ海軍の補給基地に最適と判断していた。幕府は領土保全のため開拓調査隊を派遣。父島に上ると住民代表のアメリカ人と会い、父島は日本国の領土だと万次郎が説き聞かせた。母島に渡り、島に住む14人の外国人にも同じく説明して廻った。両島の住民は小笠原諸島が日本国領土であることを認め、日本国の掟にも従うことを誓約した。万次郎はアメリカで修得した測量の技術を駆使して両島の測量を終え図面を作成して帰った。調査の成果は、外国の植民地化されつつあった日本の国土を守り、測量によって作られた図面は、その後の同諸島開発のあたっての不可欠の資料に値したと思う。万次郎ならでは果し得なかった大任であった。

 1862年、越後(新潟県)に住む富豪地主の平野廉蔵が捕鯨業を始めたと指導協力を求めてきた。親しい幕府の役人らに捕鯨業の必要性を説き、協力を求め、許可が下りた。準備をまかされた万次郎は、西洋の帆船を買い入れ、必要な機具や設備を整え、船長として乗り込んだ。鯨の群れの発見があれば、大声で乗組員を指示し、追わせた。獲れた鯨を解体して皮脂肪を切り取り、鯨油を取るまでの過程を皆に教えた。

 

 激動の時を開成教育に尽くす

 1864年、開国に前向きな薩摩藩から迎えられ万次郎は藩の開成所教授に、命ぜられた。航海・造船・測量・英語などを教えた。教壇に立つかたわら、藩命により藩士に同行して長崎に行き、外国商人と交渉して汽船を買い求めるなど藩政に積極的に貢献した。

 母の見舞いで中ノ浜に滞在中、土佐藩主山内容堂に呼ばれ、藩校「開誠館」設立に協力した。教壇にも立って教えた。館名の開成は、人知を開発して目的を達成することを意味する。

1866年7月、藩の汽船購入に長崎に行く後藤象二郎に同行するよう藩命が下った。外国商人との交渉にあたって汽船・銃砲・弾丸などを購入し、上海にもわたり、汽船と帆船を買って長崎に帰った。67年4月初め1年余りあけていた鹿児島開成所の教授に復した。11月には、幕府と薩摩藩に交わされた出向の契約期間が切れ、万次郎は江戸へ帰った。

 明治維新の世変わりの時期、新政府は有能な人材を集め、徴士と呼び各分野の役職につけた。万次郎も69年3月に開成学校2等教授、70年2月には中博士を拝命し日本の最高学府の教壇に立った。現在の東京大学の前身で、大・中・小博士、大・中・小教授、大・中・小得業士の教授人である。

 

 ホイットフィールド船長と21年ぶりに対面

1870年8月、普仏戦争視察団の一員に選出された。薩摩の大山弥助、長州の品川弥次郎、土佐の板垣退助など、そうそうたる顔ぶれで編成された。視察団は太平洋を横断し、大陸横断鉄道でニューヨークに到着した。

ホイットフィールド船長と万次郎が再会したさいと見られる写真

万次郎は30日朝、ホイットフィールド船長宅を訪問するため汽車でフェアヘブンを訪れた。21年ぶりの対面に胸がつまりしばらく言葉も出なかった。家族全員が揃い、夜明けまで思い出の話し合いが続いた。翌朝、近所の人たちが集まり、万次郎を暖かく歓迎してくれた。地元の新聞が取材し、「一人の捕鯨船長の漂流少年に対する愛情は、少年をフェアヘブンの公立学校で教育を受けさせた。その結果、彼は今日本の捕鯨産業の振興と開国のために活躍し、米国と日本の交友関係の絆を結ばせている」と報道した。

 

 晩年の万次郎は鎌倉の別邸で悠々自適の生活を送っていた。若いころには、閉ざされた日本に海外修好への扉を開かせるために尽力し、幕末から明治初期にかけては日本の政財界に活躍した多くの人材育成に貢献した。しかし、政治にかかわりある職務に就く機会は少なかった。本人もそれを望んでいなかったようである。晩年に至っても政治の権力に反発するかのように、身辺の生活困窮者に対しては細かな配慮をして援助の手を差し延べていた。

 明治初期に活躍した洋画家高橋由一が、衣食に乏しく生活に困窮していたころ、見兼ねた万次郎は、知人に呼びかけて彼の生活や修業を手助けしたこともあった。後に日本の美術界の名を成した。

 1898年(明治31)11月12日、息子の手を握って永い眠りにつき、71歳の生涯を閉じた。

              翁長に建つジョン万次郎記念碑 

 島袋さんは、35年前に万次郎ゆかりの地である大渡海岸に記念碑を建立することや万次郎の子孫と万次郎が滞在した豊見城市翁長の高安家の子孫との対面の準備を進めていたという。

 2002年5月11日に、万次郎直系の4代目、中浜博氏が豊見城市翁長の高安家を訪れ、5代目当主、高安亀平氏と151年越しの対面が実現した。その後も交流は進んでいる。

万次郎と高安家の子孫が初めて対面したさいの報道

 記念碑は、「ジョン万次郎上陸之地記念建立期成会」がつくられ、建立計画が進められている。

 これまで紹介した「ジョン万次郎物語」は、米須在住で、期成会メンバーとして熱心に活動する和田達雄さん(高知県出身。別名、和田・ジョン・たつお)の手で、手製の冊子にまとめられた。それによって読むことができた。感謝である。

 

島袋良徳著「ジョン万次郎物語」・・・その1 

島袋良徳著「ジョン万次郎物語」・・・その2 

島袋良徳著「ジョン万次郎物語」・・・その3

ジョン万次郎に関する記事・・・沢村さんの沖縄通信より

沢村さんの沖縄通信 目次

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島袋良徳著「ジョン万次郎物語」・・・その2

2015-06-27 | web

島袋良徳著「ジョン万次郎物語」・・・その2

             島袋良徳さん

小渡浜に着く

1850年5月、万次郎は日本への帰国を決意した。資金づくりのためゴールドラッシュにわくカリフォルニアで金山に入り、雇われて働いたその後独立して採金を始め、70日間で600ドルの大金を稼いだ。帰国に必要な捕鯨用ボートを買い求め、アドベンチャー号と名付け、準備を整え、漂流仲間にも呼びかけ、3人で帰ることになった。

 万次郎たちを乗せたサラ・ボイド号は琉球に接近した。船長は、3人の身を案じて「米国へ帰ろう」と話したが、「母を思えば、ここから引き返せません。私はもとより死を覚悟の上であります」と答えた。

 3人はボートに乗り本船を離れた。1851年旧暦の正月3日であった。冷たい強風が吹き荒れる。懸命にボートを漕いで数時間後にやっと岸に近づいた。ボートで一夜を明かした。浜辺のヒシ(干瀬)に出ていた人々は見慣れないイフーナスガイ(異風な服装)に驚いて次々姿を隠し、一人だけ残っていたが、言葉が通じない。近くに人家があるに違いないと、万次郎ら2人が島に上って、4,5人に出会った。若者が日本語で「ここは摩文仁間切(マブニマギリ、いまの町村)である」と答えた。漂流のいきさつを語ると「日本人とわかれば大事にいたしましょう」と慰め、北の方に船着場があると教えた。

万次郎上陸地の小渡浜から米須番所への説明(和田さん作成)

 船着き場にボートを留め、小渡村の海岸に上陸した。土佐の港から出漁してから10年の歳月が過ぎていた。コーヒーを入れる準備をしている間に、村人たちが蒸し立ての暖かい芋や砂糖きびをバーキグヮー(ざる)に盛って差し入れてくれた。

 

万次郎が滞在した豊見城間切翁長の高安家の当時を再現した絵(和田さんが修整再現) 

米須番所で取り調べ

砂浜に大勢の人が集まっている。「これから番所まで案内します」と男が案内し、宿道を通り、米須の村中に入った。番所に着くと、昼食が与えられた。2人の役人から取り調べを受けた。取り調べた役人は、首里王府から摩文仁間切へ派遣されていた、下知役(ゲチヤク)は喜久里里主親雲上(キクザトサトゥヌシペーチン)、検者(ケンジャ)は新嘉喜里主親雲上(アラカキサトゥヌシペーチン)であった。3人がハワイから持ち込んだ品物も取り調べた。砂金や銀のほか、航海術書をはじめ数学、辞書、歴史、ジョージワシントン伝記など13冊の英文書と地図7枚、時計など日用品、航海に必要なオクタント(八分儀)やコンパス石板、ピストル、鉄砲など道具類があり、役人たちは見たことのない品物ばかりだった。

 

翁長村にかくまう

 検者は「3人を那覇に護送するように」と間切長に命じた。番所を出発した一行が豊見城間切、小禄間切を過ぎ、ようやく湖城村(クグシクムラ・現国場川南岸地域)にたどり着き、夜明けまで休もうと腰をおろすいとまもなく、首里王府から急便が来て命令を伝えた。「漂流者の3人を那覇に入れてはならぬ。豊見城間切の翁長村へ連れて行け」。

 那覇の手前までたどり着いた万次郎たちを引換させた理由は、時の琉球国外交官・小禄親雲上(ウルクペーチン)から那覇里主(市長役)に出した文書で明らかである。

漂流者は那覇に送るべきであるが、万次郎は米国に10年も居て教育を受けて居り、普通の漂流者とは事情が違う。那覇には英国人のベッテルハイムが滞在中であり、彼に万次郎を会わすと都合が悪いとあり、当時薩摩藩から琉球に派遣されていた在番奉行による内々の取り計らいでなされていた。

万次郎が滞在した豊見城間切翁長の高安家の当時を再現した絵(和田さんが修整再現)

 翁長村で薩摩藩から派遣された役人が取り調べにあたった。3人が国外在住したことをとがめることもなく、終始おだやかな顔で取り調べにあたった態度に安どの胸をなでおろした。

 万次郎たちの住まいにあてられた家は、徳門家(徳門は屋号、高安家)の家族が住んで居た茅葺きの家であった。家の人は急いで隣に茅葺きの家を建て、家族8人が移り住むようになった。3人をかくまった家は高い竹の柵で周囲をかこい、近くには宿舎を設けて薩摩の役人5人と琉球の役人2人が交代で詰め、監視にあたった。それでも3人は日常生活には何の不便もなかった。食事は琉球王府から3人の調理人が派遣され、米飯に豚・鶏・魚肉や豆腐・野菜などを使った質の高い琉球料理を揃え、時には王府から贈られた泡盛が添えられるほどのもてなしであった。

万次郎と高安家の子孫が初めて対面したさいの報道

 このように、漂流者である3人を特別にもてなすことは、薩摩藩の政策的な配慮にもよるが琉球王府にとっては、漂流者が土佐藩の住民であれば、王府が大事にもてなすべき過去の事情があった。

 1705年7月、琉球の進貢船が福州からの帰りに遭難して土佐清水の港に4か月間滞留した。役人、乗組員82人が世話を受け、死亡した1人は地元蓮光寺境内の墓地に墓碑も建立して丁重にまつられた。進貢船が帰国の際、土佐藩主は狩野探幽画3幅の外に2幅の掛物や尾戸焼陶器などを船に託して琉球王に贈り、船員に対しては多量の食糧品が贈られた。45年前の出来事であった。この度の漂流者は土佐藩に対する返礼の機会でもあった。

 その後、取り調べはなく、万次郎は柵を抜けて積極的に村人たちと交わり、旧暦6月25日の村の綱引にも参加した。

 

 薩摩へ送られる

 取り調べに当たった薩摩役人たちは、万次郎があまりにも外国の事情に詳しいことに驚いた。在番奉行は、万次郎は日本の開国に臨んで最も必要とする人材になると予察し、野元一郎を急便として薩摩に帰藩せしめ、藩主島津斉彬に調査始末を報告させた。

 早期開国を望んでいた斉彬は、万次郎から外国情報の得られることを期待して急ぎ鹿児島に召還することを決め、5月に護送するよう命じた。梅雨に入り、風雨の強い日が続き5、6月中に送還できなかった。

 万次郎は、片言の沖縄言葉を覚え、村の環境にもなじんでいた。高安家に滞在中の話が伝わっている。

 月夜の晩、万次郎が満月を仰いで泣いていた。わけを尋ねると「お母さんの夢を見た。元気でいればいいが心配でならない。早くお母さんに会いたい」と言い、その心の優しさに、高安家の主人も心を打たれたと言う。

 旧暦7月11日、薩摩役人が来た。本国へ送還するから出発の準備を命じた。翌朝、多くの村人が集まり、涙を流して別れを惜しむと、万次郎は沖縄言葉で「皆も元気で、もし私の手紙が届かなかったら殺されたと思って下さい」と別れを告げ、出発した。

 那覇港から18日、薩摩の官船大聖丸で出航した。12日目に鹿児島の山川港に着いた。斉彬は3人を賓客なみに扱い、人払いをして万次郎からじかに米国事情を聞いた。島津公の熱意に感心した万次郎は、英語まじりの変調な日本語でアメリカ国民の自由・平等や文化の実情を細かに語った。万次郎が与えた海事知識は、後に薩摩藩の海事政策に役立った。

 3人は、幕府の取り調べを受けるため長崎奉行所へ送られた。漂流から帰国までの事情を問いただし、踏絵を終えると牢屋に入れられた。9カ月を過ぎ、1852年6月に奉行所の判決があり、3人は土佐藩から来た役人に引き渡された。

 

島袋良徳著「ジョン万次郎物語」・・・その1 

島袋良徳著「ジョン万次郎物語」・・・その2 

島袋良徳著「ジョン万次郎物語」・・・その3

ジョン万次郎に関する記事・・・沢村さんの沖縄通信より

沢村さんの沖縄通信 目次

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島袋良徳著「ジョン万次郎物語」・・・その1

2015-06-27 | 万次郎に関する情報

島袋良徳著「ジョン万次郎物語」・・・その1

高知県出身で沖縄在住の沢村さん(沢村さんの沖縄通信・・・でおなじみ)より、下記の文章をいただきましたので、何回かに分けてご紹介させていただきます。

沢村さんより・・・この文章は、島袋良徳さんという方がもう30年ほど前に書かれたもので、出版もされないままになっていたものを、糸満市米須に在住する高知県出身の和田達雄さんが、手製の小冊子にまとめられて、それを頂いたので、その中から一部を抜粋してものです。

島袋良徳著「ジョン万次郎物語」

   

               冊子の表紙

                  裏表紙

 「糸満市公報」に1990年4月号から1995年6月号まで5年2カ月、「ジョン万次郎物語」が26回にわたり連載された。糸満市文化財保護委員長をつとめた万次郎研究家の島袋良徳さんが執筆した。糸満市商工観光振興委員長の肩書である。

 島袋さんが万次郎研究にはずみをつけたのは、1966年に出された字米須の「要覧」だった。「口碑伝説」の項目に、万次郎の上陸地については、「その地点が摩文仁間切小渡浜といわれ」とあり「われわれはこのいわれをこの浜にむすんで永く記念したいものである」と記してある。「この結びの一節に強く心を動かされた」という。

 しかし、当時万次郎の小渡浜上陸は史実でないという意見もあり、万次郎のふるさと(土佐清水市中浜)を訪ねて多くの関係資料を見せてもらい、万次郎が1851年1月3日(旧暦)、摩文仁間切小渡浜に上陸したことを確かめて帰った。研究のかたわら、つとめて多くの方々と万次郎のことを語り合う機会をつくってきたという。

 「幕末から明治初期に至る日本の文明開化の夜明けに活躍したジョン万次郎は、帰国の時にこの地を選び、アメリカの文化を身体一ぱいに詰め込んで大度の浜に上陸しています。海の水は青々と澄み、風光明媚な浜辺には、明るい誇るべき真実の歴史があることを、より多くの市民に知っていただける機会になればと願いを込め」書き続けたと記している。以下、「ジョン万次郎物語」からの抜粋し要約して紹介する。

 

 捕鯨船に救われアメリカへ

万次郎は早く父を亡くし、貧乏な家に育ち、漁師になれば母に苦労をかけずに食べて行ける。そう決意してカツオ船に「かしき」(飯炊き)として乗り込んだ。船が遭難して5人が無人島に漂着した。

アメリカの捕鯨船、ジョン・ハウランド号に救われ、船名から「ジョン・マン」と呼ばれるようになった。半年後にハワイのホノルル港に停泊し、5人はハワイにとどまることになった。しかし、万次郎だけホイットフィールド船長に付いて捕鯨船に戻り、1年4カ月航海し、母港のアメリカ・ニューベッドフォードに入港した。その間に万次郎は英語を覚え、日常の会話に不自由しないほどになっていた。

 船長の郷里、フェアヘーブンに着いた。土佐では寺子屋にさえ行けなかった万次郎は、船長の計らいで小学校に入学し、16歳で勉強するチャンスをつかんだ。勉強熱心な万次郎は、成績を認められ上級のパートレット専門学校に進学した。英語・数学・測量術・航海術など高度な内容の授業にも人一倍の努力で勉強した。

 彼の勤勉さは有名で、1916年の地元新聞に「いつもクラスのトップで、優秀な成績で卒業した」という同級生の談話が載っている。勉強のかたわら、桶屋に住み込んで鯨油樽を造る技術も習得した。19歳の時、万次郎を見込んで米国一流の捕鯨船フランクリン号の船長が乗船を頼み、船員となった。

 母港を出帆して10か月目にグアム島に寄港した。万次郎はホイットフィールド船長に手紙を書いた。手紙は、これから琉球に行くことを告げ、「琉球上陸のチャンスをつかみ、捕鯨船が琉球で水や食糧を補給できるように私は琉球の開港に努力したい」と結んでいる。

 フランクリン号は小笠原諸島を西に進み、琉球列島のある小島に万次郎は上陸した。島の役人から牛2頭を贈られ、お返しに綿布を贈った。この島を「マンピゴミレ」と呼んだが、現在の何島であるかはっきりしない。

 フランクリン号は航行中に、デービス船長が発病し、後任選出を全乗組員で行い、万次郎は普通9~12年ほどたたき上げなければなれない一等航海士と副船長にわずか3年余の航海歴で選ばれた。父親同様のホイットフィールド船長は「ジョン、お前は西洋式航海術で世界を回った最初の日本人だ」とほめたたえた。

 

島袋良徳著「ジョン万次郎物語」・・・その1 

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ジョン万次郎に関する記事・・・沢村さんの沖縄通信より

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