ジョン万次郎ファンクラブ

ジョン万次郎(中浜万次郎)の偉業を顕彰し、”ジョン万”ファンを広げていきます。

沖縄ジョン万次郎会の新年会に招かれる

2012-01-30 | 万次郎に関する情報

沖縄ジョン万次郎会の名嘉真和彦事務局長と昨年末、偶然知り合いになった。それが縁でこの同会「20周年記念誌」を送っていただき、私も「沖縄で愛される中浜万次郎」と題する拙文を送った。 

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 沖縄ジョン万次郎会の新年会に光栄にも、夫婦でお招きをいただいた。会場は、万次郎の記念碑が建てられた翁長共同利用施設である。公民館のように使われている建物だ。建物のすぐ裏手に万次郎が滞在した高安家がある。

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会長の大城光盛さん、前会長で顧問の大城盛昌さん、副会長の大城恵子さん、与那覇正文さん、そして万次郎が半年間滞在した高安家の5代目当主の高安亀平さんらを紹介され、挨拶を交わした。万次郎会の活動のことは知っていたが、まさかこんな形でお招きされて、みなさんとお会いできるとは、夢にも思わなかった。

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写真は左から大城会長、大城顧問、高安さんである。高安亀平さんは、5代目当主となる。昭和4年(1929)生れなので、1827年生れの万次郎とは102歳違い。ことし数え年で85歳になるそうだ。とても元気そうだ。それぞれが万次郎についてのエピソードを話してくれた。
 万次郎は、琉球の大度浜海岸に上陸して、この豊見城村の翁長集落に来た。高安家に滞在したが、ここにきて1週間でもう外に出て、村の住民と交流し、方言も覚えたという。スゴイ言語力だ。沖縄の古い家は、家に入る正面に衝立のようなヒンプンがある。万次郎はこのヒンプンを飛び越えて外に出ていたという。
 銅像の写真は「沖縄ジョン万次郎会結成20周年記念誌」から。

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このとき万次郎はまだ25歳の青年だから、身も軽い。
 翁長の万次郎記念碑(写真下)向うに道路が少し広くなっている。ここは馬場だったという。馬場で、昔から綱引きが行われ、万次郎も参加したことが伝えられる。綱引きは、「6月ウマチー」という旧暦6月のお祭りと旧暦8月15夜の満月の2回行われる。私の拙文では8月15夜の綱引きに参加したと書いたが、その時は万次郎はもう翁長にはいなくて、6月ウマチーの綱引きに参加したとのことだった。拙文を読んだ大城会長が指摘してくれた。

055 綱引きは、東(アガリ)と西(イリ)に分かれて引く。万次郎がいた高安家は東方だった。この時の綱引きでは、東が勝ったので、万次郎が加わったので東が勝ったのでは、といわれたそうだ。

 まだ高安家を訪問したことがないので、そのうち一度、訪ねてみたい。

 

 新年会は、那覇市のホテルからシェフが来て出張料理をするという豪勢なものだった。料理とお酒をいただくと、余興が始まった。

 事務局長の名嘉真さんは、とみぐすくカラオケサークル仲間達の会長さんでもある。ジョン万会にはカラオケがつきものとなっている。2月には謝恩ステージカラオケ交流歌謡祭を那覇市内で開催することにもなっている。

 新年会には、この歌謡祭に出演する皆さんも参加して、舞台で次々に自慢のノドを披露してくれた。

 もちろん、大城会長(左)、名嘉真事務局長(右)も最初に歌ってくれた。050

 051 名嘉真さんは、「とみぐすく万次郎音頭」という歌の作詞もされて、記念碑の横には、この歌を紹介する案内板も建てられている。

 

 

 

 

 

 村田英雄の曲に「あゝ万次郎」056 という歌があり、舞台でカラオケサークルのメンバーが歌ってくれた。初めて聴いた。

「♪怒涛逆巻く足摺岬 海で育ったいごっそう 父は亡くとも泣くもんか 負けるもんかの男の気概 土佐は清水の快男子 あゝ中の浜万次郎」(一番)

「♪目には手ぬぐい押しあてながら 逢えて嬉しと泣いた母 十と一年十カ月 苦労かけたとお袋さんに わびる男の目に涙 あゝ中の浜万次郎」(三番)

 こんな歌詞である。なかなか勇ましく、勢いのある歌だ。賀川幸星作詞作曲である。

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わがツレも舞台で「愛の賛歌」をカラオケサークルの人のように、伴奏音楽のテープを用意していないので、アカペラで熱唱した。

 最後に高安亀兵さんと記念撮影をさせてもらった。

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元日の贈り物・・・ジョン万次郎と牧野富太郎

2012-01-30 | 万次郎に関する情報

タイトルを見ると、なんのことか意味不明だろう。元日といえば、届くのは年賀状が普通。それが、今年の元日は、なんと郵便局から年賀状とは別に、2回にわけて配達があった。こんなことは初めてなので、ビックリ。さっそく開いてみると、一つは「沖縄ジョン万次郎会」の『結成20周年記念誌』である。もう一つは、故郷の同級生が送ってくれた町発行のカレンダー。といっても、町出身の植物学者の牧野富太郎の植物画を各月に掲載したものだった。
 新年に届いたプレゼントに、元日から嬉しい気持ちになった。この二つの贈り物に共通するものは、「ジョン万と富太郎」という2人とも、高知県出身の誇るべき偉人であるということだ。長くなるので、今日はジョン万次郎記念誌を紹介したい。

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これを送ってくれたのは、沖縄ジョン万次郎会事務局長の名嘉真和彦氏。年末にある忘年会でたまたま一緒になり、名嘉真さんがジョン万会役員であることを知り、連れ合いが「夫は高知県出身です」と伝えたところ、「記念誌を送りますよ」と言ってくれたのだった。

 中浜万次郎は、漁船で遭難してアメリカの捕鯨船に助けられ、10年間アメリカで過ごした後、1851年に琉球の大渡海岸に上陸し、取り調べのため半年間、琉球に滞在した。滞在したのが、豊見城村翁長(トミグスクソンオナガ)の高安家だった。万次郎は、幕末の日本に西洋の事情や民主主義の思想を伝え、開国の先駆者となった。その万次郎が、滞在したさいは、村の先代たちは、温情ある接遇をしたという。この史実や万次郎に関することを広く普及していこうと、1991年に発足したのが、この会である。

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記念誌は、A4版で154ページもある立派な装丁である。記念誌は、各界の人たちの祝辞から20周年の記念事業の経過報告、記念の座談会、会のあゆみ、講演会の模様、さらには市民劇「歴史ロマン・ジョン万次郎物語・豊見城編」、ジョン万カップ少年野球交流大会、土佐清水ジョン万祭り、アメリカのジョン万祭り(フェアヘーブン)の様子まで盛り沢山の内容だ。上の写真の記念講演会には、前高知県知事の橋本大二郎氏の姿も見える。

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万次郎を助けたホイットフィールド船長の故郷、マサチューセッツ州フェアヘーブンの「ホイットフィールドー万次郎友好協会」のゲラルド・ルーニー会長や万次郎直系五代目の中浜京さんの祝辞も掲載されている。中浜京さんが、万次郎が滞在した高安家を訪ね、ここで過ごした日々、地元の人たちとの交流などを聞き、「万次郎の帰国の地が、琉球でよかったとつくづく感じております」とのべているのは、興味深い。

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2010年9月には、ジョン万次郎記念碑が建立された。ここには、記念碑ができたことを知り、すぐ訪ねたことがある。

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「歴史ロマン・ジョン万次郎物語・豊見城編」の上演は新聞でも大きく報道された。一度、観劇してみたい。沖縄ジョン万会が多彩な活動をしていることが、よくわかる。

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会の会則では、「国際交流及び青少年の健全育成に寄与する」ことを目的に掲げている。今後とも、会が発展することを期待したい。

 

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元日の贈り物・・・ジョン万次郎と牧野富太郎、その2

2012-01-30 | 万次郎に関する情報

元日に送られてきたプレゼントの二つ目は、わが郷里の町で発行した「町民カレンダー」である。町がカレンダーを出すなんて、他ではあまり聞かない。新潟にいる同級生が送ってくれた。
 大事なのは、毎月、世界的な植物学者だった牧野富太郎の植物図が使われていることである。

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牧野博士は、1862年(文久2)4月24日、高知県佐川町の造り酒屋「岸屋」の一人息子として生れた。学歴は小学校中退だが、佐川には名教館(メイコウカン)という優れた私塾があり、そこで学んだ。といってもあとは、独学で植物を研究した。植物分類学を専攻した。「草を褥(シトネ)に木の根を枕 花と恋して90年」と自身が語ったように、土佐をはじめ全国の山野をかけ巡り、採取と標本作成に専念し、新種の発見命名は1000種、学名変更は約500種にのぼるそうだ。東京帝国大学の助手、講師となった。

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業績は書きだすと果てしない。「約一世紀の生涯を植物に捧げつづけた牧野富太郎博士は『日本の植物学の父』として敬愛されている」。カレンダーはこう記している。95歳で亡くなったが、死後に文化勲章を受けた。牧野博士の名前は鳴り響いていたのに、なぜ生前に授与しなかったのか、ここにも日本の学歴偏重の歪みがあるのかもしれない。

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牧野さんの著書『植物一日一題』が手元にあるが、これを読むと、われわれが今でもいわば常識と思っていることを「間違い」と正していることがとても多い。たとえば「ジャガイモは断じて馬鈴薯そのものではない」「キャベツを甘藍(カンラン)だというのは無学な行為」「アジサイは紫陽花ではない」という具合である。

 紫陽花という名の出典は中国の白楽天の詩が元であるが、「アジサイは日本固有産のガクアジサイを親としてそれから出た花で断じて中国の植物ではない」と言う。もう15年ほど前に読んだけれど、牧野さんの研究に裏打ちされたこうした明快な指摘が記憶に刻まれている。 

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 ところで、なぜカレンダーを紹介しようと思ったのかが、本題である。それは牧野さんの書かれた植物画が、とても繊細で美術としても観賞に値すると思うからである。

 カレンダーは、高知県立牧野植物園の協力で制作したものである。表紙とともに13枚の植物画が掲載されている。そのうち5枚をここでアップした。

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一番上の植物画は、「ガマズミの実」。ガマズミはスイカズラ科で、高知の方言では「ヨージメ」と言う。初夏に花をつけ、実は甘酸っぱく食べられるそうだ。

 2番目は「ワカキノサクラ」1892年に佐川町の旧尾川村で発見したサクラ。播種した翌年から花を咲かせるのでこう命名したそうだ。つまり若い木で花を咲かせるという意味である。このサクラは、子どもの頃から身近にあって知っていた。

 3番目は「ヒメキリンソウ」。四国固有の多年草である。キリンソウによく似ていて、小さいことからこう呼ばれているとのこと。

 4番目は「コオロギラン」。1889年に越知町の横倉山で発見された。和名は、円形で淡い紫色の唇弁が、コオロギの羽に似ていることによると言う。

 5番目は「ジョウロウホトトギス」。これも1887年に横倉山で発見された。和名は、花の美しさを上臈(ジョウロウ=宮中に仕える女官)の上品さにたとえたものだと言う。

 ここに上げた植物画は膨大な植物画のごくごく一部にすぎない。でも、今年一年、このカレンダーを掲げて、植物画を眺めたい。

 

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