【長らく更新してませんでしたが】
それにしても、相当忙しい日々でしたですね。
8月1日・2日は新潟伊勢丹でけん玉。
大阪に2回帰省ました。
8月と9月に
9月の18日に鎧郷小学校でけん玉授業
写真は授業終了後のシンポジウム
さてと、久々に大阪大学生協のくじらや食堂に行った。
10月には熊本に
写真は、熊本駅から一駅だが、豪雨と強風で何とかたどりついた、川尻駅から徒歩10分ほどの
川尻ラーメンけんだま
それにしても、店員は、けん玉人に対して冷たいな。
ちゃりんらん屋と大違いだな。
鳥栖の食彩けん玉も行ったが・・・・・・
入れず、逝ってしまった。
まじか???
あのおんぼろ特急の九州横断特急にも乗った。
さんふらわーも
新潟シティマラソンも出た。
ハーフマラソンに1時間55分だった。
さらに全日本クラス別けん玉道選手権も。
Aクラス1・2回戦は勝ったが、3回戦で負けちゃった。
もちろん、拳玉に行ったよ!!
次の週は、大阪大学医学部付属病院薬剤部の無名会に行ったよ!!!
それでも、介護施設でけん玉したり
10月25日は白新中学校でけん玉!!
10月31日は新潟会場のもしかめ選手権大会
さて、ここから本題だ。
11月28日、大阪で全日本もしかめに出るのだが・・・・・・・
サポート役を付けないといけないらしい。
私自身、全日本けん玉道もしかめ選手権大会に今年出ると勤続21年になります。
1995年から1回も休むことなく出ています。
初出場は、1988年。そのときは、なんば、高島屋の屋上で藤原会長主宰でやってました。
僕は、自己ベスト1000回程度で、もしかめしかできなく、周りには1時間以上できる小学生がいたのですが、
気が付いたら、自己ベストを大幅更新して22分6秒で関西2位になったのが最初の出場。
7年間の時を経て、1995年に1時間48分30秒で気が付いたら関西優勝してた。
自分のもしかめの原点は、その後の12月23日に西成青少年会館の阪井さんに頼まれて、
「もしかめ、やってほしい」と、年末ウキウキフェスタで、なんと、4時間10分43秒をやったのが、世界記録挑戦を考えるようになった時です。
そのときから、もしかめをずっと阪井さんに見てもらっていました。
1998年3月の北摂大会で当時世界記録の5時間3分越の5時間5分42秒でやめちゃいました。
当時のけん玉通信が下。
1999年に当時、伊藤佑介くんぐらいしか、4時間近い記録を出す人がいないところに
私が3時間30分07秒をマークして、時代の扉が開かれた。
そして、2000年に挑んだのだが・・・・・・・
伊藤佑介著 けん玉で生きる P118ページの通り、2時間45分の計測で失格になってしまった。
翌年、大阪から新潟に移り住み、2001-2004年と4年連続全国3位。
それでも、表彰状1枚もらったことはなかった。
2003年に6時間8分49秒をマークして、ようやく新聞・テレビに取り上げてもらえるようになった。
それからも毎年、全日本もしかめはずっと出続けています。
2006年・2007年の時も大阪で出ました。
2006年の時は西成の阪井さんに水渡しをしてもらいました。
もしかめ大会で水渡しを成功したのは、日野社会教育センターにいらっしゃった松永会長と阪井さんの2人のみです。
新潟に移り住んでからは、もしかめ大会を東京で出ることが多かったが、ずっと、東京・日の社会教育センターにいらっしゃった
松永会長に見てもらいました。
終わるたびに、いろいろいとお話ししてくださりしたので、ずっと見てもらっているんだ!!!という気持ちが強いです。
関西でやってた頃は、長時間もしかめを練習すると、いっぱいばかにされてたから、嫌な思いしかなかったけど、
西成青少年会館の阪井さんと阪大の先輩の曽我さんだけはそうではなかった。
今回、サポート役は、松永会長が来れないらしいので、僕自身は、
「阪井さん以外の人には絶対につかせない」
気持ちだけです。
阪井さんに見てもらったら、どんな記録でも後悔しません。
僕のやれる精一杯のもしかめを共に歩みたいです。
けん玉協会40年の歴史の半分以上、全日本けん玉道もしかめ選手権に出続けているのは、もはや自分だけです。
もしかめを通して、けん玉界の歴史をずっと見てきました。
自分のもしかめの姿は、ある意味、もしかめの歴史かもしれません。
多分、こういう記念のもしかめに出るのは、年齢的に今回で最後となるだろうから。