高田博厚の思想と芸術

芸術家の示してくれる哲学について書きます。

実存哲学者ならではの深い人間反省 

2022-10-06 22:06:20 | 日記
彫刻家・高田博厚の思想と並んでぼくが関心をもつ、哲学者・ガブリエル・マルセルの思想の、すくなくともその一表現である、彼の戯曲は、日本では過去に二つの作品しか翻訳紹介されておらず、ほとんど未知の世界と言ってよい。その未邦訳の作品の一つを、拙訳で、いま、紹介している。いちど訳したものを見直しながらだが、実存哲学者と云われている彼の作品だけあって、途中経過としての諸人物会話そのものに、彼の深い人間反省をみることができる。この反省そのもののために、これは充分、紹介に価するものだと、さいわいにも、いま、思っている。 




















マルセル「稜線の路」35

2022-10-06 14:50:15 | 翻訳
118頁

(つづき)(掃除婦、出てゆく。ほんのしばらく後、ヴィオレットを招き入れる。

(ヴィオレット) こんにちは、奥さま。申しわけございません、遅くなったのではないかと。

(アリアーヌ) そうは思いませんよ… いずれにせよそれは全然問題ではありません。私たちとお茶を召し上がりますでしょう? お茶ができるのを待つ間、私、多分あなたがご存じなくて、あなたと一緒に弾きたいソナタがあるかどうか、見てくるわ。その間、主人があなたのお相手をします。ね? ジェローム。(出てゆく。


第九場

ジェローム、ヴィオレット

(ジェローム) これは全部、気持のわるい偽りだ。気づかないかい? 苦しく思わないかい? (ヴィオレット、無気力な素振りをする。) この稽古を終わらせる口実を見つけなければならない。

(ヴィオレット) それは出来ないわ。

(ジェローム) きみはこの全部を仕方のないものとして受け入れている。その安易さに… ぼくは深くショックを受けるよ。


119頁

(ヴィオレット) それについて何をあなたは知っているの? 

(ジェローム) 時間が無いと言うことは、いつでもできる… いいや、事実は、ぼくの妻はきみに愛情を抱いたということであり、きみにとっては恐怖にちがいないこの感情は、それどころか、きみにへつらっている… きみはもう同じきみじゃない。

(ヴィオレット、彼をじっと見つめて。) とても単純な方法は無いのかしら?… あなたの手に届く方法が… この嘘を終わらせるための。

(ジェローム) 彼女に事実を言うのかい? 駄目だ。重ねて言うが、それは駄目だ。なにしろ、彼女の健康状態はとても脆弱なままだ。そういうショックは… どうなるか分からない… 

(ヴィオレット) それが唯一の理由?

(ジェローム) いや、多分ちがう。

(ヴィオレット) あなたは自分自身にたいして率直じゃないわ、ジェローム。それが中心の理由ではないことを、あなたはよく分かっているわ。

(ジェローム) ぼくがそれを出来ない理由を、ぼくが詳しく言う必要はない… もし彼女が気づいているとぼくが推測することがあったなら、どうしてよいかぼくは分からない… ぼくにはもう生きることのできる人生は無いだろう。

(ヴィオレット) どうして? ジェローム。


120頁

(ジェローム) きみは、彼女とぼくの間にあるものが解っていない…

(ヴィオレット、深く悲しそうに。) ちがうわ、あなた。わたしが見逃しているものは、むしろ… ともかく、わたしにそれを勇気をもって言ってくださるのは、とても単純なことではないかしら。あなたが、わたしたちは間違いをしたと思っているのなら、いまがそのことを認める時なのよ ― そのことでわたしはあなたを恨まないと約束するわ。 

(ジェローム) ヴィオレット! ぼくたちは間違ったことはしていないと、きみはよく知っている。今週ずっと、きみがいなくてぼくがどんなに淋しかったか、きみが知ってたら… もう自分を保っていられなかった。(ヴィオレットを抱きしめる。)それどころか、要るんだ… 要るんだ… きみはぼくを解っている…

(ヴィオレット、取り乱して。) だめよ… すべて、品の無いことだわ… あなたたちの間に、あなたの言う絆があるのなら… ましていま、わたしは彼女を知っているのだし… 

(ジェローム) きみが彼女を知ったのは、不運だった。

(ヴィオレット) そのことも不運よ… 

(ジェローム) 生そのものが脈絡の無い狂気であるのが、ぼくのせいだろうか? 生そのもののようにぼくたち自身が無脈絡でないことがどうしてあるだろうか? ヴィオレット、ぼくたちは、ほかの本質から出来てはいない。ぼくたちをつくっている素材は同じものだ。それは、「矛盾」、というものでしかない。

(ヴィオレット) わたし、そういうふうには考えられないわ。
















マルセル「稜線の路」34

2022-10-06 13:41:08 | 翻訳
115頁

(ジェローム) 度が過ぎてるよ。

(アリアーヌ) 教えてあげましょうか、この稽古は私の喜びであるだけでなく、彼女の経済的な得にもなっているのよ。

(ジェローム) じゃあ慈善でやってるのかい? 

(アリアーヌ) そんなんじゃないわ。

(ジェローム) もし彼女がそう思っていたら、ここへはもう足を踏み入れないような気がするなあ。彼女はとても誇り高いからな。

(アリアーヌ) あなたはしばしば彼女の処にいたの?

(ジェローム) 四度か五度、いたと思うよ。 

(アリアーヌ) もっとじゃないの?

(ジェローム) それはないと思うな。数えたわけではないけど… 彼女はぼくにはとりわけ好意的なわけではない。

(アリアーヌ) バシニーって何者?

(ジェローム) 興行者さ。

(アリアーヌ) その人、彼女の生活で何か役を演じてるの?

(ジェローム、荒々しく。) なんだって? (自分をとり戻して。) それについてはぼくは何も知らない。彼女はぼくには自分の個人的生活の事情を知らせてくれないんだ。

(アリアーヌ) 初めて私が、(つづく) 


116頁

(つづき)彼女と一緒のあなたを見たとき、ねえ、私、一瞬、疑ったわ… 

(ジェローム) 何だい?

(アリアーヌ) 今では、そんな考えがどのくらい馬鹿げたことだったか、って思ってるの。

(ジェローム) それはよかった… 

(アリアーヌ) 何がよかったの?

(ジェローム) きみが自分から、まったく常軌を逸した想定を放棄したことがさ。(口調を変えて。)許してくれ… いや、そうじゃない、自分で知っているが、ぼくはきみと、ぼくがそうあるべきようにはうまくいっていない。ぼくのせいじゃない。ぼくは虚弱で、幸福ではない。ぼくには、まったくちがった生活が必要だったろうと、自分で推察している。ぼくの両親が相変わらず貧しかったのだったら、ぼくにとってそのほうがまだ良かったのだ、とぼくは思っている。ぼくは慎ましい生活への準備ができていただろう。ところが両親は破産して… それがぼくを駄目にした… ぼくはそこから決して立ち直るまい。

(アリアーヌ) あなたはおかしいわ、ジェローム。あなたみたいに、お金のことを重要視しない人を、私はほかに知らないわ。

(ジェローム) それはおそらく正しい。だけど反対もまた正しいんだ。独立ということだ、解るね、アリアーヌ、独立ということ… ぼくは独立なしにはいられない。同時に、(つづく) 


117頁

(つづき)独立がぼくには怖い。それで、もしぼくに独立を提供しようという申し出があれば、ぼくは多分わるく思わないだろう。

(アリアーヌ) なんて自分を苦しめるの! なんて自分を不幸にするの!

(ジェローム) 時々ひどい不眠になるんだ。

(アリアーヌ) もうひとつ、あなたが私に隠していたことがあるわ。(ジェロームの動揺。) でもそのうちわかるわ。最近私の知った錠剤は最高よ。チェコスロバキア製の。一箱送らせましょうか。何の不都合も無いわよ。


第八場

同上の人物、掃除婦
それから ヴィオレット

(掃除婦) 奥さま、マドモアゼル・ヴィオレット・マザルグさまです。

(アリアーヌ) いいわ、お入りさせてくださらないこと? お茶を私たちにおねがいします、エリーズ。

(掃除婦) かしこまりました、奥さま。(つづく)