高田博厚の思想と芸術

芸術家の示してくれる哲学について書きます。

マルセル「稜線の路」54

2022-10-19 15:03:21 | 翻訳
187頁

(つづき)彼は幸福ではありません、自分は満足だと表明していても — そしてクラリスは、子供を失った悲しみから癒されることもなく、遅かれ早かれ結核になってしまうことでしょう。ジルベール・ドゥプレーヌはといえば、奇妙なことに、クラリスが独り身になると、心が離れてしまったようです…

(ヴィオレット) ぞっとするようなことばかりですわ。

(アリアーヌ、調子を切り換えて。) 義姉はしばらくの間、私と共に山地で過ごしに来るでしょう。そのうち、あなたに、義姉の処へ会いに来ていただくことも、できないことではないでしょう。

(ヴィオレット) でも… どんな建て前で?

(アリアーヌ) 率直に言って、あなたが会うだけで彼女は元気がつくだろうと、私は思っています。それに、私の友だちどうしが知り合うことは、私の好むところです。

(ヴィオレット) 彼女は知っているのですか?…

(アリアーヌ) あなたのことは話しています。察しているかもしれません。

(ヴィオレット) かなり骨が折れますわ。

(アリアーヌ) 手紙で詳しく書きます。でも、長く私についてお知らせすることなく過ぎることもあるかもしれません。(つづく)


188頁

(つづき)驚きになってはならないでしょう。私は、規則正しい文通相手になったことは一度も無いのです。それに、私の健康状態がそれを許さなかったでしょう。

(ヴィオレット) あなたに言わねばならないことがあります… ジェロームがさっき来たのです。彼は暗澹としていて、とても緊迫していました。

(アリアーヌ) 彼は、私がまさに出発しようとしている時は、いつもそうなのです。

(ヴィオレット) わたしがあなたに隠す権利の無い、ほかのことがあります… (言うのをやめる。

(アリアーヌ) 心配せずにおっしゃい、あなた。私は何でも傾聴できるとご存じよね。

(ヴィオレット) 初めて、彼はわたしに言ったのです、決心がついた、と… 離婚して、わたしと結婚することの。

(アリアーヌ) 彼は本気で言ったの?

(ヴィオレット) 完全に本気でした。

(アリアーヌ) それで、あなたは何と返事したの?

(ヴィオレット) わたしは抵抗しました。それは不可能であることを彼に解らせようとしました。

(アリアーヌ) どうして不可能であると?

(ヴィオレット) そして… わたし、起ったことをあなたに説明することも出来ません… 彼は確かに、わたしが同意していると信じました。


189頁

(アリアーヌ) それで、本当は?

(ヴィオレット、とても低い声で。) 分かりません。多分… それはあなた次第です。

(アリアーヌ、長い沈黙の後で。) あなた、結局あなたは、最も幸福なことは何も私に告げてくれることは出来なかったようですね。この出来事は…

(ヴィオレット) 出来事ではありません。

(アリアーヌ) 私がそれを望んだとは、私は率直に言うことができません。だいいち、私がこんな病気になってからというもの、ああ、そういうことが何を意味し得るのか、もうよく分からないのです… それに、ねえ、人は自分で欲するようには強くないのです… 今日終わってしまう私たちの生活の時代のなかには、たくさんの悲しいこと、たくさんの心を引き裂くことと並んで、深い感謝の感情なしには思うことのできない時期がありました。

(ヴィオレット) 灼けるような愛惜なしには、とは、どうして仰らないのですか?

(アリアーヌ) いいえ、ヴィオレット、はっきり言いますよ。私に愛惜の念があったのは、ずっと昔のことで、私が試練を経ていなかった時期です。その試練から、人は遂に大人になって出てくるのです。過ぎ去ったことへの感情は、私にとっては、すべての辛酸を免除されたものです。その感情に伴っているものは、むしろ、一種の(つづく)


190頁

(つづき)荘厳で… そう、こう言えると思いますね… 宗教的な感動なのです。それは、おそらく、死ぬ瞬間に私が体験するものでしょう、私の意識が依然としてはっきりしているならば…

(ヴィオレット) あなたはそんな高い処を飛翔していらっしゃる… そしてわたしは、地面を這いずりまわっているのですね、路上のあらゆる石にぶつかりながら。

(アリアーヌ) 私は飛翔などしていませんよ、ヴィオレット。私があなたにそんな印象を与えていたって、私自身には私はひとりの喜劇役者に見えています。

(ヴィオレット) もし、わたしがあなたの立場で、あなたがわたしの立場なら、あなたはわたしをぞっとさせるでしょう… わたしは独りごちるでしょう、彼女は自分の目的に達した、と。

(アリアーヌ) あなたは、そんなことは全然思わないでしょう。だいいち、私の立場、あなたの立場って、何を意味しているの? あなたが私の立場になることは、私の苦痛に充ちた過去があなたのものになった場合にしか、あり得ないでしょう。

(ヴィオレット) 恥じ入りますわ…

(アリアーヌ) それが、あなたが経験することになる、最後の感情ですね… つまり、いいですか、あなたが私を問い質していた時、あなたが、自分はひとつの袋小路に巻き込まれていると嘆きこぼしていた時、私が強く感じていたのは、ほかの出口は無い、ということ、必要なのは、決断が(つづく)


191頁

(つづき)ジェロームから出ることだ、ということでした。決断は彼からしか生じ得ないのです。私たちは、どんなものも、急がせたり、手荒に扱ったりすることはできないのです — でも、このことを、私はあなたに言う権利はありませんでした。あなたが憤慨していたから。

(ヴィオレット) わたし、いまは、大きな悲しみしか覚えません。

(アリアーヌ) これは、混乱であって、苦悶ではありません。私の言うことを信じて… ただ、私が知りたいことは… あなたの考えでは、何がジェロームを、こんなまったく新しい態度で、将来のことを考えるようにさせたのでしょうか?

(ヴィオレット、動揺して。) わたしはほんとうに、自分でも、何が起ったのか、解らないのです… この曖昧な状況は、彼にとって、我慢のならないものになったのです。

(アリアーヌ) 曖昧な、ということで、何を理解しているの? ヴィオレット。

(ヴィオレット) あなたとわたしの間に生じた親しさです。

(アリアーヌ、厳しく。) すると、あなたは彼に、私があなたたちの関係を知っているとは、言わなかったの?

(ヴィオレット) 言っていません… わたしは、彼に言うと、あなたに約束していましたけれど。でも… 彼がわたしに開いたこの二重なものが、彼を新しい状態の中に投げ入れていたのです。(つづく)


















マルセル「稜線の路」53

2022-10-19 14:27:45 | 翻訳
184頁

第九場

アリアーヌ、ヴィオレット

(アリアーヌ) 私、当惑してるのよ、ね。

(ヴィオレット、気詰まりして。) あなたのお兄さまが、子供の息子さんにレッスンをしてほしいと、わたしに頼みに来ていらっしゃったの。

(アリアーヌ) 何てすごい考え!… とにかくとても良いことよ。お嬢ちゃんのほうはどんな感じ? 

(ヴィオレット) 目に見えて改善しているの。気管支炎がとても軽くなりました。

(アリアーヌ) 良かったこと! かなり心配していたのよ、そのことで。

(ヴィオレット) どうも… 

(アリアーヌ、ヴィオレットをじろじろ眺めて。) 兄の訪問はあなたには愉快ではなかったわね。

(ヴィオレット) 何を仰りたいのですか? 全然分かりません。

(アリアーヌ) もしかして、あなた、兄が好奇心から来たとお感じになった?


185頁

(ヴィオレット) そんなふうに思うなんて、わたし、考えもしませんわ。

(アリアーヌ) 彼がそうしないとは、私、確信できないの… たとえ、彼が分かっていても… 彼が当てこすりを敢えて全然しなかったと、私が思う? それは、らしくないわ…

(ヴィオレット) わたし、正直に申しますと、そんなによくは分からないのですが… それでも、彼にはほかの理由があったことは、判ったつもりです… おねがいです、これ以上お聞きにならないでください。わたし、たとえその気があっても、彼の言ったことを正確にあなたに繰り返すことは出来そうにありません。それはとても微妙な話だったので、とても…

(アリアーヌ、優しげに。) それでも、あなたは、彼の話が私に対して向けられたものだったと、解ったでしょう?… 確かだと思うわ、ヴィオレット。いいこと、彼は私たちの間に、とても嫌な状況を自らつくったのよ。こういう状況では、私は、物事をはっきり見通す態勢にはなかなかなれません。あなたは、兄が離婚していることを、もちろんご存じです。クラリスは私の幼なじみのひとりでした。兄と彼女が別れることは、私にとってひじょうに激しい苦痛となり、最後の瞬間まで私は、この離別の決定が考え直されるよう、万策を講じました。このことで、兄は私を赦していません。私は知っていますが、彼の妻には、『過誤』と呼ばれるものがあったのです。しかも、彼女はそのいっさいを自分の夫に、ほかの多くの人々なら出来ないような率直さで打ち明けたのです。じっさいには、兄は(つづく)


186頁

(つづき)この件において責任が無いどころではないのです。兄なのです、ジルベール・ドゥプレーヌを誘ったのは。兄が、彼を、自分たち夫婦の親密な関係の場に入らせたのです。私は確信をもって言えますが、初めのうちは、兄は、この知的で優雅で世慣れした青年が私の義姉とおしゃべりしたがるのに気づいて、嬉しそうでした。兄は、そこにひとつの誘惑さえ覚えていましたが、この青年に関しては、兄も、そのことに殆ど無感覚になってしまっていたのです。

(ヴィオレット) はっきり申しまして、お話をお聞きするのは、とても気詰りですわ。わたしに関係あることでは全然ありませんし…

(アリアーヌ) それはちがいますよ、ヴィオレット。今日ほど、私に、物語という物語をすべて繫ぐ鎖がはっきりと見えることはありません。その物語の中では、私たちは観客であると同時に演技者なのです。物語どうしは互いに照らし合います。これこそ小説家たちが良く理解したことであり、こうして彼らのみが、人生の真の意味を、光で照らすように私たちに明らかにするのです。私の兄は私のことを不自然だと判じています。なぜなら、私は、彼とは反対に、二人の罪人の味方をしているから、と彼は言うのです。強い精神の持ち主たち — 兄は自分がそのひとりであると誇っていますが — 、彼らが、しばしば、罪過とか、判決とか、刑の宣告とかの言葉を出すのは、何ととんでもないことでしょう。彼があなたに、私のことで、何かはっきりとしない警告をしに来たのは、一種の、ばかばかしい攻撃的な対立の態度によるものです… 憐れなフィリップ! (つづく)