高田博厚の思想と芸術

芸術家の示してくれる哲学について書きます。

マルセル「稜線の路」46

2022-10-11 14:58:39 | 翻訳
153頁

(セルジュ) このところ、もう眠れないんだ。不幸、事故… 元気になれなくちゃならない。だけどきみたちのせいである場合、すべてを自分たちで台無しにした場合、それも愚かさによって… あるいは…

(ヴィオレット、悲しそうに。) 台無しにするようなものは何も残っていなかったと思うわよ。

(セルジュ) ただ愚かさによってだけじゃなく…、卑劣さによって…

(ヴィオレット) 何をまだ探そうというの?

(セルジュ) 思い出せよ、きみがスコラでコンサートを開いた晩、彼ら全員、きみを讃えに来た時のことを、きみがひとつの… 真の… 成功の路を歩み始めたと、皆が信じることができた時のことを。

(ヴィオレット) 何ですって?

(セルジュ) ぼくがどんなにきみを恨んだか、きみに言えない… きみはもう、ぼくに注意を向けなかった。そして翌日、きみは放心していて、雲の中にいるみたいだった… ぼくは独りごちた、人生は我慢のできるものじゃないのだろう、と。その日だよ、ぼくがシュザンヌに初めて、ぼくと結婚する気があるかどうか、訊ねたのは… これは伝染… すまん。

(ヴィオレット) かわいそうなセルジュ!


154頁

(セルジュ) きみは理解してくれるよね、昔、ぼくが最初の賞を取った時、ぼくは自分が理想の、真の…名手になるだろうと、ひじょうに期待していた。もっとも、はっきりしていることは、もしぼくたちがこの不潔な時代に生きているのでなければ、ということだ… きみはぼくのことを法外に恨むということはないよね?… ぼくはきみのことをもっと嫌にはならないよね?

(ヴィオレット) まず、わたし、あなたが言ったばかりのあなたの気持は、分かっていたわ… そして、わたしにそれを告白したあなたは勇気があるわ…

(セルジュ) 勇気じゃないんだよ… 手紙の通りさ。

(ヴィオレット) その手紙のことはもう話さないようにしないこと?

(セルジュ) きみは、ぼくを許さないと言ったよ。

(ヴィオレット) わたし、矜持に過ぎたのよ。言い張り過ぎたわ。

(セルジュ) どういうことなのかい?

(ヴィオレット) もうずっと以前に、無礼を許すことは徳ではなくなっているの。ふつうの人々のことを言っているのよ… わたし、時々思うのだけれど、ただひとつの罪しかないのね、それは、安易さという罪よ。

(セルジュ) 芸術家にとっては…

(ヴィオレット) 芸術家のことを言っているのではないわ。(つづく)


155頁

(つづき)人生のことを言っているのよ。わたしがぞっとする言葉があるとしたら、それは、「仕方のないものとして受け入れる」、という言葉よ。何てこと! わたしに、他の人々と同じことをすべて押しつけることが出来るだろうなんて。

(セルジュ) きみはぼくに何か隠してるのかい?

(ヴィオレット) いけないセルジュね。どうしてわたしが、自分にのしかかっていることのすべてを、あなたに言わなければならないの? それは心の広さでも、有益なことでもないわ。

(セルジュ) モニクのことについては?

(ヴィオレット) いいえ。現在わたしに気懸かりなのは、モニクのことではないと、あなたに確約します…

(セルジュ) 他の、ぼくにとって恥ずかしいことがあるんだ… このところずっと、ぼくが来ていたのは、ほんとうはあの子のためじゃないんだ。それはむしろひとつの口実だったんだ。ただ、きみは分かっている、どんなにぼくが… とうとう自問するようになったのは、あの子の病気を自分のために利用することで、ぼくはあの子を不幸にしたのではないか、ということなんだ。

(ヴィオレット) 哀れなひとだこと!

(セルジュ) 時々ぼくは自分のことを、成長しなかった男のようだと思うことがある。まるで、ぼくの成長が、誰もそれに気づくことなく、止まっていたみたいに… そうだよ、多分、ぼくが賞を得た時だよ。

(ヴィオレット) あなたは、あの頃、すごく疲れていたわね…
















マルセル「稜線の路」45

2022-10-11 14:41:10 | 翻訳
150頁


第三場

セルジュ、ヴィオレット

(セルジュ) どういうことなんだい? ええ? ご説明ねがえますか… 

(ヴィオレット) セルジュ!

(セルジュ) 何を彼女はほのめかしているの? ええ?

(ヴィオレット) あなたの声は偽りの印象を与えるわ。

(セルジュ) ええ?

(ヴィオレット) ええ、はやめて… セルジュ、あなたなの? あの手紙を書いたのは。

(セルジュ) どんな手紙を?

(ヴィオレット) あなたはとてもよく知っているでしょう、自分がわたしを騙すのに一度も成功しなかったことを。神さまはご存じよ、あなたがしばしばそれを試みたかどうかを… セルジュ! わたし、あなたにそんなことが出来るとは思わなかった…

(セルジュ) 何だって?

(ヴィオレット) 今度のことは、わたしがあなたを許すことができない最初のことよ。

(セルジュ) きみはぼくを何についても許してくれたことはない… ああ!(つづく)


151頁

(つづき)ぼくは、きみがぼくを嫌っているとは言っていない。それどころじゃない。きみはぼくを軽蔑している。

(ヴィオレット) わたし、あなたを軽蔑してはいないわ。

(セルジュ) 多分、ぼくがルプリユール夫人に手紙を書いたことが、その理由だろう。なんとも、きみがぼくを軽蔑するに充分な理由だ。

(ヴィオレット) もっと単純なことよ。あなたは復讐として手紙を書いた。わたしがちょっとの幸福でも持つことが、あなたには我慢できなかった、というのが理由よ…

(セルジュ) 幸福なきみだって? きみねえ、きみには自分が見えたことがない… 彼女はきみにその手紙を見せたのかい? (ヴィオレット、いいえ、という仕草をする。) 彼女が手紙を受け取ったということを、どうしてきみは知ってるの? 彼女はその手紙から何を結論づけたの?

(ヴィオレット) 見たところでは、何も。

(セルジュ) なんと! でも、馬鹿げたことをしたとは認めるよ。それでもきみは理解している… ぼくの人生は、おどけたものではない… 

(ヴィオレット) 分かっているわ。

(セルジュ) いいや、きみには想像できない。シュザンヌ… ああ、あれは悪い女じゃない。だけど、だいいち、あれは芸術家ではない。そして、ただ音楽の聴き方を何も知らないだけではなく — 彼女もじぶんの主張はするにしても、きみは想像もしないだろうけれど、彼女はその際、口出しを(つづく)


152頁

(つづき)時々するんだ。ぼくへの助言のつもりでね… 「あなたは力を入れて弾きすぎるわ… ペダルを使いすぎるように思うのよ… 」… うるさいのなんのって… これはまだ遣り過ごせても、ぼくはとうとう彼女を命令で従わせることになる。とにかくあいつは機転が全然利かない。機転が全然利かない女なんだ。あいつがきみたちに時々口にすることができることといえば…

(ヴィオレット) それはそんなに大事なことじゃないわ。彼女はあなたを愛しているのよ。

(セルジュ) ぼくは、あんなやり方で愛されるのには耐えらないね… だいいち、あいつはぼくを疲れさせる。

(ヴィオレット) 思い出して。あなたはわたしのことも非難していたのよ、わたしがあなたを疲れさせる、と言って。

(セルジュ) すまない、ヴィオレット… それでもぼくは詳細をきみに言うことはできない… 彼女は暴れ、地獄の生活だよ。

(ヴィオレット) かわいそうなセルジュ。嘗ては洗練された話し方をしていたあなたが…

(セルジュ) それでもぼくは白痴であることが出来たんだから! ぼくが思うに… 白痴以上だ、嫌悪だ… 

(ヴィオレット) わたしたちの慣習を思い出してよ。

















マルセル「稜線の路」44

2022-10-11 14:10:14 | 翻訳
147頁

(ヴィオレット) お黙りなさい。

(フェルナンド) 女性どうしの恋仲よ、いまのほとんどは。まったく! 時々、それを知らずにね。

(ヴィオレット) わたしはあなたを軽蔑するわ。どれほどか、あなたは知ることができない… 

(フェルナンド) またも、身分不相応で長くもたない贅沢ね。ベルが鳴らなかった? マダム・ジュキエはまだ出かけていない。彼女が開けようとしているのかしら…

(ヴィオレット) セルジュにちがいないわ。

(フェルナンド) またなの! (誰かがドアを叩く)。誰? 

(セルジュ、外から。) ぼくだよ。

(ヴィオレット、くすんだ声で。) 入っていいわよ。


第二場

同上の人物、セルジュ

(セルジュ) 女医さんは何と言った?

(ヴィオレット) 気管支炎は(つづく)


148頁

(つづき)治まりつつあるって。でも彼女の言うには、モニクは再感染の危険があるから、体温が下がり次第、転地療養が必要なのですって。少なくとも一年、田舎で、サナトリウムの中で、過ごさせるべきだという判断よ。

(フェルナンド) その考えについて私が思うことは、私は既に言ったわ。

(セルジュ) きみはどうするつもりだい? シュザンヌとぼくは、知恵を絞り続けている… 彼女はこういう状況でのこつをよく心得ている自分を証明したと、ぼくは言わねばならない。(躊躇しながら。彼が、覚えたひとつの訓示を復誦していることは、明らかである。)その上彼女は、自分の遠い親戚のひとりが行政会議のメンバーであることを思い出した… 施設の名前をぼくはもう思い出せないが、グルノーブルの近くであることだけは知っている。

(ヴィオレット) それはグランセにちがいないわ。話を聞いたことがあるわ。

(フェルナンド) その辺りの家屋は値がとても高いわよ。

(セルジュ) シュザンヌは、たいそうな好条件を手に入れることができると自負している。彼女の父親が昔手助けしたらしい従兄の力によってね。

(フェルナンド) あなたは訓示を復誦しているような感じね。


149頁

(セルジュ、気詰まりして。) いま言ったことは全部、ぼくの意識のなかでは、かなり曖昧なんだ。

(フェルナンド) 残念ね。バイヨンヌ近くの神経性疾患専門の診療所に行くべきね。

(ヴィオレット) まあ、フェルナンドったら!

(セルジュ) それは幸運なのですよ… もっとも、可能性としてですが。

(ヴィオレット) あなたの奥さまにくれぐれも宜しく。彼女から多分何らかの詳細を報告していただけるでしょう。

(セルジュ) 手紙で。彼女は現在、とても風邪をひいているんです。かなり困ったことです。 

(フェルナンド) あなたはおかしい雰囲気ですよ。

(セルジュ) まったく! 静かにしといてください。

(フェルナンド) 私は長居する気はありませんから、ご安心を… でも、一つあなたに助言するなら、次回はもう少し上手にご自分の筆跡を隠すことですね。(フェルナンド、外へ出る。