モラルハラスメント・ブログ

モラルハラスメントな夫と壮絶なバトルの末離婚した二児の母のブログ☆モラハラブログリンク集もあります☆

こころの声

2005年10月08日 01時19分39秒 | モラルハラスメント
あなたは、依存的ですか?
こう聞かれたら私は間違いなく、
「はい」と答える。

わざわざ依存的に生きているわけではなく、
周りの誰かに常に寄りかかって生きているつもりもなく、
ただその生き方を他者と比較した場合、
「依存的」と言えるだろうと思う。

私の場合、性格の傾向として、
好き嫌いは極めてはっきりしているクセに、
大切なことは自分で決められない、という傾向がある。
例えば人と会って、ランチのメニューをどうするかなど聞かれたとき、
「どっちでもいい。」だったり、
「なんでもいい。」だったり、
人に判断を委ねることが圧倒的に多い。
元夫とのことも、
「結婚する」という判断そのものは、
年齢的にプロポーズされればして当たり前という感覚があったので、
何ら問題にも思わなかったけれど、
「元夫が酷いヤツかどうか」については、
全く自分で判断が下せなかった。

「こんなに酷いことを言われた。」
「こんなに酷いことをされた。」
「だから、酷い人だよね?」
自分では、「酷い人」だという烙印を、
当時夫に対して押せなかった。
誰かに、決めて欲しかった。
だからいつも、友人に泣きながら電話しては、
「酷いよね?」
「どう思う、別れた方がいい?」と相談していた。

例えばランチで、イタリアンが食べたいとずっと思っていたとして、
友人が走ってきて、「どうする?」と聞いたなら、
「イタリアン」とは言えない。
「イタリアンなら、ここ。フレンチなら、ここ。おそばもいいし、お鮨ならここ。」
そんな具合に、押し付けないよう、外さないよう、案を提出する。
そうして、「じゃ、うどんにしようか。」といわれても、
「うんうん、そうしよう、それがいい!」と、心からそう思える。
自分の意思を通すぐらいなら、
相手に幸せな気分でいて欲しいから、
自分の中の100人の自分が満場一致で、
相手の意見を賛成するように、できている。

そんなわけだから、
元夫の「断言形」の理不尽な要望に対しても、
ほぼ満場一致で賛成をして、
結果、自分が狂ってしまったのだろう。
一見とても大人で、「いい人」に映るだろうが、
何もいいことはない。なんにもいいことなどない。

自分としては、自分を殺して相手に合わせているのだけれど、
結果的には他人本位で、他力本願で動くことになってしまう。
それが結果的に依存的な自分を作り上げていくのだろう。

DVやモラハラの加害者から「離れない」ことと
生き方が「依存的」だということは、密接に関係があると私は思う。
相手が酷いかどうか決められない、もしくは
酷いのがわかっていても、離れられないのは、
そういった、自分しか「酷い」と感じる人間がいないというシチュエーションの中で、
誰かに「酷いよね?」と判断を委ねてしまう部分というのは、
多分に、強がっているように見せていても依存的な部分を持つ人が
そういった男たちからなかなか離れられない要素になっていると思う。

どうして、酷いかどうかわからないのか、というと
もちろんその精神的虐待がいきなりではなく、
少しずつ少しずつ相手の領域を侵していくからわかりづらいというのも要因だと思うが、
ACだからというケースが大半だと思う。
幼い頃に家庭内における「モラル」を侵され、価値観を歪められた人間が、
そこで成長して大人になったときに、再び「モラル」を侵される。
もしくは、侵されていることに気付かず、
「何かがおかしい、何かがおかしい。」と思い続ける。
本人は不遇と気付かず、そういった環境を当たり前と思わされて育った人もまた、
狂った価値観を押し付けられやすい。

私の場合はそんな風に、
「つい譲る」+「酷いかどうかの判断が、極めて鈍感」
の両方の要因が重なって、
傷口がどんどん広がって行った。
「つい譲る」人だけれど、「酷いかどうかわかる」人なら、
こんなに長くは辛抱していない。
つい先日、親しい友人に久しぶりに会って、離婚したことを告げ、
私が家庭内で受けていた仕打ちをつぶさに説明すると、
「なんでその時点で別れなかったの」と何度も言われたし、
「なんでそこまでガマンしたの」と、これも何度も言われた。
「ガマンが美徳」と親に言われて成長したし、
いつか夫もよくなると思っていたし、
出てくるよりあそこに居る方がラクだと信じていたし・・・と話すと
「なんで!自分を大切にしなきゃ!」と泣かれた。
「自分を大切に」、ねぇ・・・
私にとっては、「私は」と言えないのと同じ位、
ぴんと来ない単語なのだ。
つまりはそういうことを意識せずに生きている、ということなのだろう。
そういう意識がある意味欠落している、ということなのだろう。

だから、モラハラ被害者の方で、すでに脱出なさっている方が、
「また、同じようなのに、ひっかかりそうで怖い。」
というのには、とても頷ける。
どこをめくっても、モラが出てくるのではないかと、
それならもう恋愛なんてしないぞと、思うのもごく自然のことだと思う。
自分が引き寄せているのかとすら、言う人もあるし、
自分もそう思う。
夫にすべて自分のせいにされていたから、そう思うのかも知れないが、
多分「甘い」部分に付け込まれる傾向があるのに違いない。

そんな「依存的で他人に甘い自分」を発見した時、
どのように「依存的ではなく他人と同等でいられる自分」に変えていくか、
これが目下の私の課題だと思っている。
また、「おかしい」「酷い」と思う感覚を、
幼い頃から封じ込めて来た傾向があるから、
「これは、おかしい。」「この扱いは酷い。」
そういったことを、ちゃんと声に出して言うように心がけている。
いや、心がけたいと思っている(笑)

あと、「つい譲ってしまう自分」というのは、
強い劣等感の表れだと思うときもある。
相手の要望に沿うことで、ようやく対等につきあって「もらえる」という、
哀れなまでに自己否定的な発想である。
自分の要望を通して、相手を不快にさせるぐらいなら、
いっそのこと自分を殺して相手を通そうと、
その繰り返しの中で、
「相手次第にしてしまおう。」と一貫した態度を取るように、
人間ができてしまっていたと思う。

私は、相手のどんなわがままにも対応できます、と
それが一見「包容力」があったり、
「優しい」のかと評価されると知っていて、
それも狙ったりしながら、でも実のところは、
「相手に合わせる方がラク」だから、
実はずっとそうして「家族もしくは他人の要望」
を最優先にして生きてきたから、
常に人に決定権を委譲している方が圧倒的に「ラク」なのである。

でも人間「ラク」をすると必ず「ツケ」が回ってくる。
人に判断を委ねる「ラク」を続けたことで、
それも決してラクなことではない場合も多かったのだけれど
とりあえず、自分で判断するなどというリスクは犯さず
「誰かに決めてもらう」という繰り返しの結果、
「肝心なことは、なんにも自分で決められない」というツケが回ってきた。
当然といえば当然の、ことなのだろう。

妹は同じ家庭に育っているが、
徹底的に厳しくしつけられ、
母の要望にロボットのように応えてきた私と異なり、
徹底的に放任されて育っているせいか、
あらゆることは自分で判断するように、人間ができている。
そんな妹は、結婚相手に関し、
あまりにも頭でっかちな条件を並べ立てていたから、
随分結婚するのが遅くなったが、
おかげさまで今月結婚することになった。
彼女の言葉の中で、
「私は」とか「自分で」という言葉が非常に多いことに私は気付いていた。
私は心の相談室に電話したときに、
「さっきからあなたは、「夫がこうしたこう言った」だとか、「義母がこう言った」だとか「友達はこう言った」としか言いませんね。挙句に、「あなたはどう思いますか、と私に尋ねてくる。」「わたし」はどう思うのですか?「わたし」は何を感じているのですか?」
そう言われ、言葉を失った経験がある。
「私は・・・私は・・・」と唸るだけで、
私がどうしたいか、言えなかった。

ここでこうして色んな思いを告げる時、
「私は」と敢えて連発しているのは、
実は「リハビリ」なのである。
私は「私は」がいえなかった。
結果、その人に「わたし」はどう思うのか聞かれたとき、
長い沈黙のあと、
随分病んでしまっていたから仕方ないのだけれど、
「わたしって、何ですか?わたしって言っていいのですか?」
そう答えた記憶がある。

モラルハラスメントの被害者の方のブログが最近増えて、とっても嬉しい。
(右の「ブックマーク」欄から行けます☆)
中にウメさんの「こころの声に耳をすませて」というブログがあるが、
私はこのブログの「題名」をよく口ずさむ。

自分の心の声など、
聞かないようにして生きてきた。
自分の心がどう感じているかなんて、
どうでもいいことなんだと、言い聞かせてきた。
自分の、こころの声なんて、聞いたことがない。
「誰か」の意見を聞くことはあっても。
「誰か」の心を思いやり、察することがあっても。

目を閉じて、耳を塞いで、
自分のこころの声を聞こうとしても、
何も聞こえない。何も感じてはいない。
聞く訓練や感じる訓練を、ここから、スタートしなきゃ、と思う。
これが、
「自分を大切にする」ことに繋がるのだろう。

思えば、自分を大切にしないで、生きてきた。
好きなことや得意なことは沢山あるし、やりたいようにやってきたようで、
随分、自分の感情を無視し譲り切り売りして生きてきた。
結婚生活はその象徴だろう。

ここからは、自分を大切に生きたい。
人のこころの声でなく、自分のこころの声が、
ちゃんと聞こえるようになりたい。
何もかも人に譲ったりしないで、
時には「私」をちゃんと主張して、
自分のことは自分で決められるようになりたい。
依存的な自分を卒業して、主体的に生きられる自分になりたい。
もうすぐ40のクセにまるで「10代の主張」のように幼い宣言だけれど、
情けないけれど、本当にそう思う。
心がいっぱい傷ついたあとの「回復」を意識したことはないが、
きっとそういうことがちゃんとできるようになって初めて
真の「回復」はやって来るのだろう。

あなたには、
自分のこころの声が聞こえていますか?
あなたのこころの声は、
何って言っていますか?

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24 コメント

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考えさせられました (アイリ)
2005-10-08 01:40:56
相手にとってよかれと思ってしていることなのだけど、「私はこうしたい」って言ってしまうと、相手に自分を拒絶されてしまうのではないかという不安の裏返しかもしれないなあ、とふと思いました。相手がモラの場合は、こちらが譲ったり我慢していることが、「しめしめ・・」なのかもしれません。依存的・・私もそうかも知れません。いつも相手に譲ってばかりいると、たまに自分の我を通すと「わがまま」扱いされたり。難しいですね。
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依存的・・はまってます(苦笑 (ハルル)
2005-10-08 08:24:20
まっちーさんの話うなずける部分が沢山ありました。

今の彼と付き合う前は私は

「彼が私といて幸せと思ってくれることが私の幸せ」

そう友達と話していました。

でもその言葉の裏には彼が幸せでも私が必ず幸せか?

といったら違うのだと今の彼と住んで思いました。

私が。私が。私が。

自己主張をこの家では避けていたのかもしれません。

私が・・・・を封印して自分の気持ちが見えなくなっていたような気がします。

何がいいのか解んなくなっちゃいますー。
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はじめまして♪ (みなみ)
2005-10-08 11:16:44
まっち~さん はじめまして

まっち~さんブログの大ファンのみなみです。



まっち~さんの魅力的な文章にいつも感動しております。脳裏をかすめたけど通り過ぎてしまった思いや、この気持ちはなんだろう??ってモヤモヤしていた感情をぴたっと言葉にしてもらって、「そうそう!」ってひとりうなづいています。



“自己主張”“自分を大切にする”全くもってモラハラを知ったときからの自分の課題です。本を読みあさりネットサーファーと化した時期ありです。



私もアサーショントレーニング中です。境界線も甘いし、特に「NO」が苦手なんです。



“自分を大切にする”は何か標語のようにしか耳に入ってこなかったのですが、自分を大切にできなければ他の人も本当の意味では大切にできないのではないかと気づきました。

でも私もよくわからない...

だから、娘を引き合いに出して考えることにしました。娘が他の人からされたとして、私が許せない行動や言葉は、自分がされても許してはいけないって。



私はまだ夫と同居中ですがだいぶ、肩の荷を降ろしました。忙しさにかまかけてなかなか自分の気持ちと向き合うことがじっくりできていないので、いつもまっち~さんの文章に自分を取り戻す作業を手伝ってもらってる気がしています。(これも依存といえば依存か!?)



長文でおじゃましました~

いつも応援しています。またコメントさせてください

返信する
私もモラハラ受けてんのかな? (くろうさ)
2005-10-08 12:03:08
はじめまして。以前からここに立ち寄ることがあったんですが、自分でもモラハラ被害にあってるのかわからないところがあって、まっちーさんやここにくる方ならわかるかなと思ってコメントしてみたです。

もしよければ、私のブログも見てください。
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同じ同じ(^^) (れんれん)
2005-10-08 13:34:31
依存的に生きて来た人が、その結果手痛いしっぺ返しを受け、その後始末も自分で責任を負わなきゃならない状況になった時、

人って「覚醒」するのかもしれないですねー。

・・・・・・・・・

私は人の望む私を、それはそれは長い事与え続けてきた。

けれど、だから?

それで私は楽になったのか?

いいや 違う。

苦しいのは変わらない。

むしろ、苦しさはいや増し、私は私を殺している。

今まで以上に殺している。



もうやめよう。

私は誰のためにでもなく、

私は私自身の為に生きて生きたい。



・・・・・・・・・・・・・・



もうずーーーーっと前に自分の日記で書いていた言葉です。



私はもう、リハビリは終わったのかな。

ずいぶん楽に生きています。

自分を大切にする事を自分で獲得したっていう実感がね

なお更に自分を大切にしたい・・って思えてます。
返信する
「わたし」を考える (nasa)
2005-10-08 14:17:48
まっち~さん、お久し振りです!

ランチの時の話、とても良くわかります。

相手の食べたい物を考えて優先してしまう...まっち~さんは、とても思いやりがあって素敵な方なんですね。



欧米では「わたしはランチにこれが食べたいのだけれど、あなたは?」という風に先ずは「わたしはこうだ!」と主張するようです。自分の食べたい物より相手の食べたい物を気に掛けると言った所は、日本人独特の奥ゆかしい文化?「譲り合いの気持ち」を持つ事は、自分が苦痛でなければ素敵な事の様な...。



でも、「わたし」はどうしたいのか?は本当に大切だと思います。

「自己主張する」と言う事は「相手に自分の主張が受け入れられない」=「自己否定される可能性も受け入れる」事になりますが、事実をありのままに受け止められるしっかりとした「わたし」でありたいです!



まっち~さん、いつもブログ更新を楽しみにしていますが、ここはどうか無理をなさらず、まっち~さんの”マイペース”で綴っていってくださいね!
返信する
心の声、、、 (ばなな)
2005-10-08 15:51:32
まっちーさん、お久しぶりです。



家族や親身になってくれた親友はある程度、離婚の理由をその人達なりに解釈し理解し、改めて私を信じてくれる、一緒に頑張ろうと言ってくれます。本当にその気持ちには感謝し、甘えさせてもらっています。

でも、、、だからといって、人知れず、自身の責任を追求しないではいられず、、、。自分自身について考える日々です。

『回復の為』にも、まず、『病的なまでの自責の気持ち』を捨てなければならないこともわかっていても、やはり、いくら、事故のようなものだとか、誰でも、被害者になる可能性があるとはいえ、

『自分の招いた結果』を他人のせいにして、楽にはなれようなものでもないし、新しい自分に切り替えられるものでもなく、、、日々いろんなことを考えます。



まっちーさんの日記には、そんな時ぼんやりと頭を掠めるいくつかのフレーズと同じものがあり、じーんとしてしまいました。



私はたぶん、ADではないです。

むしろ、家庭環境に恵まれて、人種の存在に無知なところがあったかもしれません。

18の時に父を亡くし、母子家庭になり、妹もいますので、自然と、各々が精神的に依存するのではなく、環境もあり、自立した上に、親子、姉妹という枠を外した、一人の人間と人間として認め合い、支えあって生きてきました。

どちらかというと、、、年のわりに、自我もはっきりしていたと。幼少の頃から、女の子同士が固まると誰かの悪口をいう性質が嫌いで、持ちかけられても私は自分はこう思うとはっきりと言う性格でもありました。

そういう自分自身の認識があったからこそなのか、確かに、常に自分のそれを表に出すのではなく、状況を見、その場その場の空気で判断して、必要に応じて自己の主張をしてきました。それが癖?に自然なやり方になっていた気がします。



何事にもこだわりのある人間だけど、、、

私の中では、他人への過剰な中傷や、生命に関わることを除けば

どれもこれも、我慢というほどのものではなく、譲れないことはないような『どちらでもかまわない事』の範疇でした。



それが、、、きっと、、、

よき人間の間では、よい関係が出来ていたのが、、、

モラルを犯してくる人に対しても、『嫌悪感』や『嫌』という感覚をも、鈍さが生じ、その我慢に自然と耐えてしまうという、狂いと甘さが生まれてしまったのかなと思っています。



『我慢は美徳』だという環境に育ったのもあり、

やはり母親の中でも、そこの境界線を犯されてると理解するのには、時間がかかったみたいでした。



結婚一年半での離婚でした。子供が居ないのにも、実はモラハラの言動がからんでのこと、、、。

やんわりとはしていても確かな虐待を感じていたのに、、、。



私は、一年半『しか』とか『すぐ』根をあげてしまったとか、、、いう感覚にとらわれていた気がします。



祝福を受けた人達に申し訳ない、情けないと、友人に話すと、やっぱり『我慢しすぎだよ』『どうして言ってくれなかったの』と返ってくる。

他の誰かの理解を求めたのかもしれない。

相手のモラハラが、日常では非常にわかりにくいといった卑怯なやり方であったとしても、自分が、酷い、違和感、嫌悪感、を抱いた気持ちに確信を持ちきれなかった。我慢に自然と切り替えられてしまった。



やはり、『NO』に弱いところがあるのだと思う。



自分の心の声、、、

そうですね、、、。響きました。いつも、相手の心の声には最新の気を配っていたのに、

自分の心の声、、、は自分でいかようにもコントロールできるなんて傲慢だったかもしれません。無下にしてたかもしれません。

今、意識してみると、結構、心の声ってあります。

『わがまま』との境界線もあるから、むづかしいけど、ちょっと意識することで、回復に繋がるのかな、、、。



いまだに、というか、最近のいっそう闇の中です。



私からすると、このブログに支えられ、リハビリにもなっているのは確かですが、れんれんさんも書いてられましたが、まっちーさんも無理なさらないでくださいね。



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最近読んでます ()
2005-10-08 19:06:23
最近読んでいるので、昔の文章の読みにくさにびっくりしています。あなたは頭の良い人なのですね

頭の回転が速いあなたがどうしてこういう結果になったのかテン昔の文章は読みにくいので読んでも理解できない頭の私です。うらやましいような、でもモラ男言い負かしてこうやっていけるあなたがいるような、私も環境的には似ていますが言い負かされなれないまま未練って気持ちありますよね、負けず嫌いなとこもあります。もしお時間があれば私のなんていうのかな?言い負かされずに一緒に過ごして言い負かしてやりたいってエネルギーをもっていることに日記がでたらうれしいです、子供には親が必要なんですよね、早く成人しないかしら私の子供たち
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こんにちわ。 (あずき)
2005-10-08 19:21:38
うんうん。のみです。

私もよく考えさせられます。



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はじめまして (きょろん)
2005-10-08 23:28:10
マッチ-さん、いつも読んでます。

私は共依存と自覚して、15年、2年前の別居・離婚後、モラ彼と1年半お付き合いしてます。彼とは別れなきゃ、と思いつつずるずる付き合って1年半。最近これは虐待じゃ?と知人から言われ、モラハラ関係の記事を読みまくってます。

私はセルフヘルプのミーティングに毎週顔を出しています(海外に住んでいます)。同じような共依存症の人たちが25人ほど集まります。年齢・職種・性別・カルチャーも色々な人が皆悩んでいます。

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