モラルハラスメント・ブログ

モラルハラスメントな夫と壮絶なバトルの末離婚した二児の母のブログ☆モラハラブログリンク集もあります☆

脱出、その時1

2006年03月22日 14時39分51秒 | 脱出
脱出したのは、2年前のこの季節だった。

きっと毎年これからもずっと、この季節になれば、
あの日のことを思い出すのだろう。

前日、夫の帰宅がいつものように遅ければいいなと思っていたが、
思いのほか早かった。
いつものリビングで、
巨大なテレビの前にあぐらをかいて座っていた夫の、
私はその後ろにあるソファにペタリと座り込んでいた。
心は、
「何も感じるな」
「何も思うな」
と私に訴え続けていた。

幸せになりたかった。
夫と、子供たちと、4人で幸せな家庭を築きたかった。
けれど、何をやっても、何もしなくても、どうしても、だめだった。
この家庭が終わることについて、話し合うこともなく、
夫に一切知られることなく、突然に、明日、
この家族の歴史が終わってしまうことを、
私しか知らないことが何とも重苦しく、辛かった。

脱出準備をしていた時、バツイチの友人に言われた。
「どうして、ダンナさんに何も言わずに出て行くの?」
「二人で始めたんだから、逃げちゃいけないよ。」
彼女もDVの被害者で、当時子供一人を連れて出て行ったらしい。
今は再婚して幸せな家庭を築いている。
彼女の一言で私はずいぶん迷った。
実は、夫の背中を見ながら、
「明日出て行くねん」
と言いたくなった。

喉まで出掛かった。

けど、言わなかった。
ただ、私が愛した人の背中を、
愛しても愛しても傷つけられるばかりで
決して愛してくれなかった人の背中を
ぼうっと眺めていた。
この家における、私のすべき仕事は、
全て終わっていた。
荷物はすべて必要なものと不要なものに分けられていて、
けんかの時にゲットした双方の署名捺印済みの離婚届も手元にあった。
あとは夫に、心の中でさよならを言うだけだった。

テレビを見ていた夫が、私に背中で語りかけてきた。
「おい」
「はい」
「あの、なんだ。結婚記念日がもうすぐやから、な。」
「はい」
「いつものフレンチ、明日予約しとくわ。」

そう、毎年結婚記念日かその前後には、
夫と一流ホテルのフレンチへディナーに出向いた。
子供たちが赤ちゃんの時は、ホテルのベビーシッティングルームへ預けて、
大きくなってからは義母に頼んで、
その行事は滞りなく毎年続けられた。

一番お値段の高いコースメニューが3万円なのだが、
大体その一つ下のメニューと、4万ほどするワインをオーダーしたりするので、
結果的に結構な出費になることが多かったが、
「一年一度のことだから」と毎年、連れて行ってくれた。
ちょうど3月がそのシーズンで、
しかも自分が妻を骨折させた負い目があるからか、
夫は、いつもより早めにそのように申し出てくれた。

「うん、ありがとう。」
私は、ただただ、泣いた。
涙があとからあとから溢れてきて止まらなかった。
心の中では、ついさっきまで、
「何も思うな」「何も感じるな」と念じ続けてきたはずなのに、
もう、どうしようもなく、すべての想いが溢れてきた。
「しかしな、あれや。よう毎年続いたな。」
いや、予約されては困る。
予約したら、夫は、キャンセルするという恥をかかなきゃいけない。
だから、泣きながら夫に言った。

「私ね、まだそんな気分になれないから。行けないよ。」
夫は、ぴくりと首筋のあたりを動かした。
体はテレビを見たままだった。
「そぅか。ほな妹と言って来いや。俺の代理や。」
「・・・なんで結婚記念日に妹と行くんよ。」
「いや、お前にはちゃんと年に一度はな、感謝したいからな。」

今思えば・・・私の地方の言葉で言うと、
「何いうとんじゃ」
なのだが、私はその時、その夫を置いて出て行くのだと、
その罪悪感につぶされそうになって、また泣いた。
「ごめんね。」
そのまま泣きながら私は2階へ上がって、翌日に備えて眠った。
2階に上がる前に、夫を振り返って見た。
憮然とした表情でテレビを見つめている夫を見た。
ありがとう、とは思わなかった。
ただ、この人とはこれでお別れなんだ、と思った。
夫と別れることが悲しいのではなく、
こんな形で結婚生活が終わってしまうことが、悲しかった。

当日トラックは、昼から来る予定になっていた。
前日から荷造りをするわけにはいかないから、
朝から荷造りをする必要があったからだ。
近所の友人が、渋々引き受けてくれて、幼子を連れてパッキングを手伝ってくれた。
「ごめんな、ありがとう。どれだけたすかるかわからんよ。」
「ううん、ほんまは行って欲しくないから、手伝いたくない。」
ぐっと涙をお互いに堪えながら、
お互いに泣いている暇もないから、
下唇を噛んで荷造りをした。

トラックは2時に来ると改めて電話があった。
私は、離婚届を市役所に出しに行こうと思ったが、
「明日にしよう」となぜか思ってしまった。
かわりに、クリーニングに行こうと思った。
夫がその脱出の朝、いつものように、「もうカッターシャツないぞ。」と言った。
5枚をローテーションにしていたので、たまったらクリーニングに
私が出しに行っていたからだ。
引越し準備でなかなかクリーニングに行けていなかったから、
私は「うん、出しとくよ。」と言った。
それがあの家での、夫との、最後の会話となった。
クリーニングに行き、引き換えの伝票を夫の棚に置いた。
それを自分で取りに行く夫のことを想った。
ごめんね、とは思わなかった。
ともかく、何も感じないように、何も思わないようにした。
そうでもしないと、脱出なんてできないと思った。
少し時間が余ったから、掃除機を当てたり、窓拭きをしていた。

ほどなくトラックが到着した。
荷出しをしているときに、義父が来た。
「何をしてるん?これは何?」
「もうやっていけないから、出て行きます。」
「○○は知ってるんか?」
「いえ、話していません。」
「そりゃアカンやろ・・・。」
そのまま、義父は消えた。
次に、義母がやってきた。
隣に住んでいるのだから、バレるのは仕方ないと思っていたが、
二人とも来るかよと思った。
義母は怒りながら、泣いていた。
私に抱きついて、泣きながら、怒った。
「ずっと娘と思って接してきたのに・・・」
「なんで一言相談してくれなかった・・・」
私は、義母の悲しみがわかるから、泣いた。
何も言わずに出て行こうとしている私は、
何もいえるはずがなかった。
こう言うのが精一杯だった。
「お義母さんには、本当に感謝してもしきれない程感謝しています。」
そう言ってお互い泣きながら、数分が過ぎた。

義母は「あっちでの用事もあるんだろうから」と私から離れた。
泣きながら私は深深と頭を下げた。
毎日、ご飯を作ってくれたり、子供たちと遊んでくれた義母。
私に何かあればいつも子供たちの面倒を快く見てくれた義母。
毎日、赤ちゃんの時からずっと、
入浴をさせてくれた義父。
子供たちを、目に入れても痛くないほどかわいがってくれた義父。
裏切ってごめんなさいと思ったが、
いかんせん、そのような思考に立ち止まっている暇がなかった。

また、そのあとに、夫から電話があった。
全ての荷物を運び切る直前ぐらいのことだった。
「・・・お前、何してるねん。」
「・・・出て行きます。」
「だまし討ちみたいなことすんな。」
「ごめんなさい。」
「子供たちも、連れて行くんか。」
「はい。」
「そうか。」
「ごめんなさい。」
「俺は一人になるんやさかい、何も要らないから、全部持っていってくれ。」
「うん、そうする。ありがとう。」
夫からの電話はそれで切れた。
わかってくれるはずもなく、わかってほしいとも思わなかった。
用意してあった、手紙をテーブルの上にそっと置いた。
「あなたへ」
A4の紙に7枚ほどの書置きだった。
ただ、私が出て行った理由を知って欲しいと思ったから、そうした。
今思えば、意味のないことだったのだけれど。

最後に、大好きだった「器」である部屋に挨拶をした。
そこで起きたいいことも悪いことも、思い出す暇がなかった。
ただ、その瞬間、大きな大きな挫折感と、
悲しみに包まれたことを記憶している。

「家」は単なる「器」である。
中身が良くなければ、どんなにすばらしい器であっても、
すばらしいと言えるものではなくなる。
逆に、中身さえよければ、器なんてどうでもいいのだろうと思う。
「家」「庭」で家庭というが、「家族」が幸せでなければ、
家庭など意味のないものになってしまうと思う。
からっぽの家と、見慣れた庭を眺めて、そんなことを思って
あの家を後にした。

泣いている暇はない。
私は、車の中で泣いた。
前が見えないぐらい泣いた。
泣きながら急いで、新居のマンションに向かった。
引越しトラックはもう到着していた。
事前に積み込んであった二段ベッドやふとん類、
調理器具や清掃道具の他は、トラックで運んだ。
ずいぶん破棄したつもりだったが、結構な荷物の量だった。
荷物を降ろすと、5時になっていた。

あわてて、幼稚園に子供たちを迎えに行った。
延長保育を依頼してあったから、
6時前に子供たちをピックアップできた。
「今日からね、新しいおうちに行くのよ♪」
「だからね、お祝いにおいしいもの食べに行こうね♪」
「お祝いに、楽しいおもちゃをいっぱい買おうね♪」
「二段ベッドも買ってあげたからね。楽しいよ♪」
そう話すと、子供たちはワクワクしていた。
途中で夕飯を済ませて、子供たちを連れて部屋に入ると、
段ボールで一杯の空間の中に、二段ベッドを見つけて
子供たちはそこではしゃいでいた。

「ねえ、ママ、おじいちゃんやおばあちゃんは?」
「おとうさんは?」
「うん、今日からママと、子供たちだけでここで暮らすのよ。」
「ふうん、もう会えないの?」
「ううん、会えるよ、大丈夫よ!ママが居るから心配しないで!」
「そっか、わかった!」
子供たちはまだ幼なかったから、
違うところでお泊まりするような気分だったのだろう。
ウキウキしているようだった。
「明日遠足だから、早く寝ましょうね♪」
「はあい♪」
現実翌日は子供たちの遠足だったので、早く眠らせて、
自分はとっとこ荷解きをした。
友人や、知り合いの弁護士にメールして、
無事脱出を果たしたことを告げた。

私は1時半に・・・ようやく休むことにした。
用意してあった、幸せの白い布団に体を横たえた。
体がふとんと同化していくのを感じたとき、
例えようのない幸福感を覚えた。
この幸福感が、今までの私を支えたと言っても過言ではないと思う。

また長くなったので、続きます。脱出、その時②

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2 コメント

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こんにちは (saki)
2006-03-22 22:57:37
はじめまして

こちらのブログの存在を知り涙ながらに読ませていただきました。私が脱出したのは10年前になります。そのときのこと思い出しました。心がボロボロになり何度も逃げたいと思いながらも、情に負けて出来ませんでした。その日の前日髪を切るのに付き合うことになっていましたが、どうしても気持ちがついてゆかず

行きたくないと言ったために部屋の中は無残にも破片だらけになりました。大事にしていたスピーカがぼこぼこになりました。そして出血と骨折で救急車を呼んでくれと言われ泣きながら電話。でも付いて行きませんでした。今度こそ逃げようと思いました。車が行ったあと、荷物をまとめてあわてて出ました。鍵をドアの郵便受けから中に投げてこれでお別れだとけりをつけたつもりでした。そして駅に向かうためタクシーに乗りました。なのに・・・

あわてすぎて肝心なハンドバックを置いてきました。財布もカードもその中でした。万事休す。私は逃げる事も許されていないのか?泣けました。でも大事なものが全部入っていたのでまた戻りました。部屋の外で待っていました。戻ってきて、お互いに無言でいました。今回はもう駄目だと悟ったのでしょう。今日だけ一緒にいてくれと泣きながら言われました。その夜は一睡も出来ませんでした。朝になって、「出て行ったら俺は片手で何も出来ないのにどうすればいいんだ?せめて治るまでいてくれ。」と話が変わりました。今度はバッグを抱きしめて逃げました。裸足で追って来ました。雪の降る寒い朝でした。走って走って逃げました。何とかタクシーを捕まえて逃げる事が出来ました。逃げたのは彼からでもあり、自分の心の弱さからでもありました。寂しくて人に依存しないといられなかった弱さが招いた事でした。
コメントありがとうございます (sakiさん)
2006-03-26 17:00:18
sakiさん



これは過去のことなんですね?

でもすごい壮絶で、私も涙が出ました。

怖かったですね。



>逃げたのは彼からでもあり、自分の心の弱さからでもありました。寂しくて人に依存しないといられなかった弱さが招いた事でした。



とてもよくわかります。

相手を置いておけないと同じぐらい、

自分も一人になりたくなかった。

二人で居る方が孤独ってこともあると知ったのは、

別居した後でした。

また来てくださいね☆

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