goo blog サービス終了のお知らせ 

中村良一とマカカ・ルーサーズ・バンド

Macaca Rhesus'es Band.(赤毛猿バンド)
トラディショナルなジャズを広めたジャズマンを紹介します。

Jazz Trumpeter - Ryoichi Nakamura

2023年08月10日 09時35分55秒 | ジャズマン紹介
Jazz Trumpeter - Ryoichi Nakamura
コルネット,トランペット奏者:中村良一(Ryoichi Nakamura.)

ジャズ発祥の地、NewOrleans Preservation Hall.で演奏した、トランぺッターです。
こちら⇒ 1979年、Preservation Hall.で演奏し好評をはくした。

youtubeチャンネル⇒ 中村良一Ryoichi Nakamura

演奏こちら⇒ Undecided.
演奏こちら⇒ My Blue Heaven.
演奏こちら⇒ How long has this been going on ?

ジャズを世界中に広めた、トラディショナルなジャズのジャズマンを紹介します。
こちら⇒ ジャズマン紹介



2002年.ひょんな出会いで、Macaca Rhesus'es Band. を結成し現在に至る。

生まれ:鹿児島県,指宿(いぶすき)、開聞岳の麓(ふもと)
育ち :福岡県北九州市小倉区
卒業校:北九州市立・到津小学校
    北九州市立・曽根中学校
    福岡県立 ・小倉工業高等学校
年 令:近所の柴犬と同級生
干 支:ひつじ
星 座:ふたご座
血液型:A.Rhマイナス型
大好物:しみてるおかき
大嫌物:コハダ(魚類),子供の頃にコハダにあたった!
座右の銘:飛びます、飛びます。

音楽教育
音楽の師匠は現場で出会う諸先輩のミュージシャン。
諸先輩から音楽教育と性教育をご教示して頂いた。
師事する方はいません、師事される方もいません。
天涯孤独でお先真っ暗、でも前向きで明るい...

音楽との出会い
野球の応援で甲子園に行きたくて音楽部に入部した。
野球が好きなだけで、まったく音楽には興味が無かった。
音楽部の先輩から『好きな楽器を選べ』と言われたが、
ラッパしか楽器が無かったのでラッパを手にした。
ラッパに息を入れると音が鳴った、嬉しかった。
これから、ラッパとの付き合いが始まった。

卒業後、三段ベッドの寝台車に揺られて上京、
クラシックをやりたかったが、ジャズマンと出会い、仕方なくジャズを始める。
色んな曲を演奏したが、全部同じ曲に聞こえた。

23歳で渡米、ニューオーリンズはPreservation Hall.に出演。
共演したミュージシャンからつけられたあだ名が、Early Ryoichi.
どうも、出てくる音が曖昧らしい... I My Me ~

数年後、後ろ髪を引かれる思いで、やむなく『坊主頭』で帰国。
帰国後、日本の音楽風土になじめず中華人民共和国へ逃避行。
その後、帰国したものの佐賀県に島流しとなり音信不通となる。
♪~♫~♩~♬~♪
.

クラリネット奏者:Barney Bigard

2023年08月10日 09時14分22秒 | ジャズマン紹介

トラディショナルなジャズを 世界中に広めたジャズマンを紹介します。

Barney Bigard.(バーニー・ビガード)クラリネット奏者

1906年3月3日.ニューオリンズ生まれ。
本名は、オールバニー・レオン・ビガード(Albany Leon Bigard)

1925年シカゴに行き、「キング・オリヴァー」のバンドに参加した。
1928年「デューク・エリントン」のバンドで活躍し、そこで有名になった。
その後、いろいろなバンドを経て、自分のバンドを持って活躍した。

1946年「ルイ・アームストロング」の「オール・スターズ」に参加した。
1953年に来日して素晴らしいプレイを見せた。
1980年6月27日.カリフォルニア州.カルバーシティーで亡くなりました。



クラリネット奏者:Alphonse Picou

2023年08月08日 07時33分23秒 | ジャズマン紹介

トラディショナルなジャズを 世界中に広めたジャズマンを紹介します。

Alphonse Picou.(アルフォンス・ピクー).クラリネット奏者

1878年10月19日.ルイジアナ州・ニューオーリンズに生まれた。
本名は、Alphonse Floristan Picou。
彼はニューオーリンズ・スタイル初期の重要なクラリネット奏者です。

1894年頃までギターとクラリネットの両方でプロのミュージシャンとして働いていました。
また、クレオール・セクションのリラクラブ交響楽団でクラシック音楽を演奏していました。

彼は自らのバンドを持ち、ニューオーリンズで活躍し、レコーディングを残しています。
キング・オリバーは彼に曲作りを依頼し、"Alligator Hop", "Olympia Rag".を作曲しました。

楽曲”High Society"(本来はピッコロのパート)をクラリネットのソロ・パートに取り入れました。
彼の演奏スタイルは、ジョニー·ドッズやジミーヌーンを含む多くの若いクラリネット奏者に影響を与えました。
1961年2月4日に亡くなりました。

演奏こちら⇒ High Society.

演奏こちら⇒ Bill Bailey Won't You Please Come Home.



ウクレレ奏者:Roy Smeck

2023年08月04日 09時28分26秒 | ジャズマン紹介
Roy Smeck.(ロイ・スメック)
ウクレレ、バンジョー、ギター、スチール・ギター奏者

1900年、ペンシルべニアに生まれた。
弦楽器の魔術師(Wizard Of Strings)と呼ばれた、伝説のマルチ・プレヤーです。
ウクレレの演奏は神業で、ウクレレと遊んでいます。
1994年4月に亡くなった。

映像はこちら ⇒ ウクレレ演奏

映像はこちら ⇒ ウクレレ演奏

映像はこちら ⇒ ウクレレ演奏







コルネット奏者:William.C.Handy

2023年07月27日 16時54分39秒 | ジャズマン紹介

トラディショナルなジャズを 世界中に広めたジャズマンを紹介します。

William.C.Handy.(ウィリアム.C.ハンディ.).

コルネット奏者,ピアニスト,作曲家。
本名は、William Christopher Handy.
1873年11月16日.アラバマ州フローレンスに生まれた。

彼は有名な「St. Louis Blues 」によって、「ブルースの父」と呼ばれ、ジャズ史上に不滅の名を遺した。
また、ブルースの形式をはっきりした形で、おおやけにしたのは、Handy.が最初であり、
ブルースという言葉も、のちになってから彼によってつけられたと言われている。

1909年.に「メンフィス・ブルース」が作曲され、1913年に「ジョゴ・ブルース」の作曲に続き、
「セントルイス・ブルース」は第三番目の作品で1914年に出版された世界的な傑作である。
この不滅の名曲は、Handy.がセントルイスを放浪していた頃の悲惨な生活を書いたものと言われている。

幼少時代、メソジスト教会の牧師をしていた父は、情操教育のつもりでHandy.に古典音楽を教えた。
父に内緒で買ったコルネットをかかえて、ブラス・バンドに参加し、19歳の時にバーミンガムで教師になった。
しかし、音楽的な才能を持ち、音楽が好きでたまらなかったHandy.は薄給を理由に教師を辞めた。

彼は、ベッセマーのパイプ工場で働きながら、音楽を学んだ。
その頃、シンコペーションとスイングの音楽を知ったのである。
同年「ローレッタ・クワルテット」という楽団に入り、プロのバンドマンになって、各地を巡業するようになった。

しかし、プロになったとはいえ、完全に生活ができるわけではなく、セントルイスに着いた時には、
ボロボロの服をまとい、空腹のために倒れんばかりであったという。
この時の体験が、「セントルイス・ブルース」を作曲する動機となったのである。

やがて、ミンストレル(宮廷に仕えた職業芸人)のトランぺッターとなり、編曲もやるようになった。
そして、1909年には、メンフィスで小さなバンドを持っていたが、市長選挙があって、
候補者:クランプ氏の選挙運動のために雇われたのである。

この時、「ミスター・クランプ」という曲をつくって、市中を演奏して歩いて、
評判がとても良く、そのために、クランプ氏は当選した。
この曲はのちに「メンフィス・ブルース」と改題されて有名になった。

Handy.は以前から黒人の民謡の歌詞やメロディをノートし、音楽として独特のものであると思っていた。
さらに古臭い、12小節の歌などを思い出して「ミスター・クランプ」を書いたのである。
わずか、12小節からなる古い歌の形式がブルースであったが、ブルースという言葉はなかった。

南北戦争後には黒人たちによって良く歌われ、ラグタイム・ピアニストたちに演奏されていた。
Handy.は、それらを集め、素材として作曲するまでは、世に出なかったのである。
やがて、Handy.は約60曲ほどの作品を世に出した。

晩年には出版社を経営しながら、TVやステージの仕事を続け、
黒人俳優ユニオンをつくったり、盲人たちのために、ハンディ基金を設立した。
Handy.の生涯は、1960年に映画「St. Louis Blues.」で紹介されました。
1958年3月28日.多くの人々に惜しまれながら、亡くなりました。





コルネット奏者:Wild Bill Davison

2023年07月03日 06時26分19秒 | ジャズマン紹介

トラディショナルなジャズを 世界中に広めたジャズマンを紹介します。

Wild Bill Davison.(ワイルド・ビル・デヴィソン).コルネット奏者

1906年、オハイオ州に生まれた。
本名は、William Davidson.

シカゴ・スタイルのコルネット演奏の名手の一人である。
1924年、シンシナティのローカル・バンドをふりだしにジャズ界に入った。
1933年から1942年まで、自分のバンドを持ってミルウォーキーで活躍した。

1940年代にニューヨークに進出した。
1946年から1957年までエディ・コンドンの経営する「コンドン・クラブ」で活躍した。
「エディ・コンドン・バンド」でスターとなり数多くのレコーディングを行った。

その後、1957年にはドイツに渡り、ドイツのバンドと共演した。
帰国後は、ニューヨークに戻り、自分のバンドをひきいて活躍した。
1989年11月カリフォルニアで亡くなった。



Wild Bill Davison.の奥様から頂いたピン・バッチ。


トランペット奏者:Joseph "Sharkey" Bonano

2023年06月30日 16時44分38秒 | ジャズマン紹介

トラディショナルなジャズを 世界中に広めたジャズマンを紹介します。

Joseph "Sharkey" Bonano.(シャーキー・ボナー)トランペット奏者

1904年4月9日、ルイジアナ州ミルンバーグ生まれの白人。
スウィング時代に「ルイ・アームストロング」の真似をして売り出した。
色々なニューオリンズの地方バンドで活躍した。

1936年には、ニューヨークでピック・アップ・メンバーによる、
ディキシー・ランドのバンドを組み、レコードの吹き込みを行った。
1961年4月に来日し好評を得た。

また、有名なミュージシャンとも共演し活躍しました。
1972年3月27日、ニューオリンズで亡くなりました・



コルネット奏者:Red Nichols.

2023年06月25日 09時14分16秒 | ジャズマン紹介

トラディショナルなジャズを 世界中に広めたジャズマンを紹介します。

Red Nichols.(レッド・ニコルズ).コルネット奏者.

1905年5月8日.ユタ州オグデンに生まれた。
スウィング・ジャズのコルネットの名手である。
本名は、「 Ernest Loring Nichols. 」
彼の愛称の”Red”は彼の髪の毛が赤毛だったことからつけられた。

幼児の頃から音楽教師であり、ダンス・バンドのリーダーであった父親から、あらゆる楽器を教わった。
なんと 4歳でビューグルを手にし、5歳の時にコルネットを習い、6歳になって公衆の面前で独奏した。
12歳になると家族で演じていた音楽劇に出演したり、父親のブラス・バンドでフィーチュアされるようになった。
1919年12月に、カルヴァー陸軍士官学校の特待生となり、コルネットやヴァイオリン、ピアノなどを学んだ。

1920年9月.故郷に戻った彼は、ピット・オーケストラに入団した。
ピット・オーケストラとは劇場専属のオーケストラル・ボックスで演奏する楽団である。

1922年に「レイ・スティルソン」のバンドに加入し活躍した。
その後、「シンコペーティング・ファイヴ」という 7人編成のコンボ・バンドに加わった。
その頃、彼はプライヴェート録音ではあるが、初めてのレコーディングを行った。

間もなく、皆から強い信頼を集めていた彼はバンド・リーダーに推され、
ここに「ロイヤル・パーム・オーケストラ」と名づけたバンドを率いる事となった。
1923年「アトランティック・シティ」で公演を初め、それから「レーク・ジェームス」「インディアナ」へと巡業を行った。

1959年に封切られた、ダニー・ケイ主演による、レッド・ニコルズの伝記映画「5つの銅貨」によって、
彼の名は世界中のジャズ・ファンに知られるようになった。

映画の中で下記3曲が同時に歌われています。
1. The Five Pennies.
2. Lullaby In Ragtime.
3. Good Night Sleep Tight.

また、彼は音楽的にしっかりした知識があり、しかも人間的にも優れた人物であったので、
多くのミュージシャンから尊敬され、有能なジャズメンは次々と彼の下に集まった。
1965年 6月28日.ネバダ州ラスベガスで亡くなった。



コルネット奏者:Ruby Braff.

2023年06月21日 18時37分16秒 | ジャズマン紹介

トラディショナルなジャズを 世界中に広めたジャズマンを紹介します。
Ruby Braff. (ルビー・ブラフ)コルネット奏者

演奏こちら⇒ Ruby Braff with Hanks Jones - But Not for Me
演奏こちら⇒ Ruby Braff Sextet - Embraceable You
演奏こちら⇒ Ruby Braff with Hanks Jones - Bidin' My Time

1927年3月16日、マサチューセッツ州ボストンに生まれた。
コルネットは独学でマスターしたと伝えられているが学理を、
トロンボーン奏者の「ワード・シロウェイ」に学んだ。

1949年12月、地元の「サヴォイ・カフェ」でレコードの初吹き込みがされた。
1953年、ニューヨークに出て「ベツレヘム」でレコードを発表した。
その後、数々のレコード会社と契約し、多数の録音を残した。

1955年、ダウン・ビート誌の「批評家投票」で新人部門の1位に選ばれた。
モダン・ジャズ全盛の時代に「ルイ・アームストロング」の発するスタイルに、
モダンなセンスを加味した異色の演奏者として多くの職者の注目のマトとなった。

1969年9月「ジョージ・ウェイン」バンドで来日し、レコーディングを残している。
1971年6月「トニー・ベネット」の伴奏者として、再来日した。
1973年、「ジョージ・バーンズ」とドラムレスのカルテットを組んで活躍した。

その後、若手ミュージシャンとも共演し「粋で・熱く・クール」な演奏の録音を残した。
20世紀が生んだ、素晴らしいコルネット奏者で、2003年2月に亡くなりました。




トランペット奏者:Red Allen

2023年06月17日 18時13分26秒 | ジャズマン紹介

トラディショナルなジャズを 世界中に広めたジャズマンを紹介します。

Red Allen. (レッド・アレン)トランペット奏者

1906年 1月 7日.ルイジアナ州に生まれた。
本名は、Henry James Allen(ヘンリー・ジェームス・アレン)
演奏中に顔が赤くなるので「レッド・アレン」と呼ばれるようになった。

デビューは、1924年「エキセルシャ・バンド」に参加、
その後、キング・オリヴァー、シドニー・ベシェ、ジミー・ヌーンなどのバンドに参加。
1929年、ニューヨークの「ルイ・ラッセル・バンド」に加わって名を上げた。

1933年、「フレッチャー・ヘンダーソン」、ついで「ルイ・アームストロング」のバンドで活躍。
1946年に自分のバンドを持って活躍した。
1967年 4月17日.に亡くなりました。


.