SHAンパンでもいかが?

「最終楽章 気分はAdagio」
77歳の一人暮らし。

狐につままれて

2024-06-15 09:23:00 | 日記

昨日の午後
ニュースを観たあと
美容室へ
久しぶりに
さっぱりして帰宅


夜、TVをつけると
地デジは全く映らない
BSは大丈夫なのに…
色々試しましたが
全く反応なし

諦めて明日は
修理を頼もうと
思っていましたら
突然映りました。
狐につままれた
気分です❓

そこで今日は
「利口な女狐の物語」




チェコは
西部のボヘミア地方と
東部のモラヴィア地方に
分けられます

ボヘミア地方は
スメタナや
ドヴォルザークが
生まれましたが
森に囲まれた
民謡の宝庫である
モラヴィア地方を
代表する音楽家は
レオシュ・ヤナーチェク
です

ヤナーチェクは
9つのオペラを
書きましたが
いずれも
最晩年の
10年間に書かれ
完成度の高い
名作揃いです。

7番目に書かれたオペラ
「利口な女狐の物語」は
森に棲む
沢山の動物達が
人間と同等の存在として
描かれています

ぬいぐるみを着た
歌手たちが
登場するので
子供たちが喜ぶ作品で
チェコ語で歌われます

  ✨✨✨✨✨

一昨日
中学生のお嬢さんが
「オペラって
どうしてこんなに
難しいの?…」と
尋ねますので
「自分の国の
言葉だから
隅から隅までわかるし
オーケストラ伴奏に
合唱やバレエまでついて
ゴージャスだから
昔の人たちにとっては
最大のお楽しみ
だったのよ…」と
お話しました (*^_^*)



   ✨✨✨✨✨


このオペラの
作曲期間
ヤナーチェクは
毎朝、公演に出かけて
風の音や鳥のさえずりに
耳を傾けていたようです







朝廷❓

2024-06-14 09:58:00 | 日記

昨日は中学生の
お嬢さんと
音楽の試験のお話

先ずは
滝廉太郎の「花」を
歌詞の意味を
考えながら
ピアノを弾くこと




① 「にしきおりなす」を
Fにするのはなぜ?

② 「おぼろ月」が
pなのは?

③ 「なにに」が
Fでフェルマータの意味は?

④ 「たとうべき」が
rit.なのはなぜ?

それぞれの問題に
感想を書くのですが
ひらがなでは
意味がわからないので
漢字に書き変えた歌詞を
見てもらいました

「錦織り成す長堤」は
「朝廷」と勘違い

「暮るれば昇る朧月」は
「来るれば」と思って
いたようです (^o^)

「げに一刻も千金の
眺めて何にたとうべき」は
ちんぷんかんぷん?
でした

  ✨✨✨✨✨

来週は
ヴェルディのオペラ
「アイーダ」について

そのあとは
「歌舞伎の「勧進帳」で
歌舞伎の音楽や
長唄の勉強です💦

2週間あるので
何とか間に合いそう!

瀧廉太郎「花」の3番の
イメージの写真は
こんな感じでしょうか


















サマー・タイム

2024-06-13 09:33:00 | 日記

遅ればせながら
私の生活も
ようやく
サマータイムに
切りかえました

朝早く起きて
一仕事済ませます
それにしても
昨夜は暑い夜でした


   

   ✨✨✨✨✨



ガーシュイン作曲

オペラ「ポギーとベス」

貧しい黒人街を舞台に
当時の黒人の
ありのままの生活を
ジャズの要素を
盛りこんで描きました。
繊細で美しいメロディで
ガーシュインの
魅力が詰まっています

このオペラのアリア
「サマー・タイム」は
大ヒットしました。

レオンタイン・プライスの
ソプラノでどうぞ




フィンランド

2024-06-12 09:00:00 | 日記
(フィンランド国花)

昨日の午後は
「かもめ食堂」の
映画を観ました。





フィンランドの
ヘルシンキに
日本食の食堂を
オープンさせた
日本人女性
通ってくれるお客さんは
日本のアニメファンの
青年だけでした
それでもめげずに
淡々と営業を続ける
彼女のところに
訳ありな2人の
日本女性が
やってきます。

ほっこりして
心温まる映画でした


  ✨✨✨✨✨


フィンランドは
東山魁夷画伯による
著者「風景との対話」に
美しく表現されています。

フィンランドを
旅していた画伯は
タムペレから
ヘーメンリンナに向かう
船内で聴いた
テノール歌手の歌が
忘れられず
楽器やレコードを
売る店に入り
お店の主人に
尋ねます。


一枚のEP盤を取り出し
かけてくれた店の主人
画伯は「これです…」と
声をはずませ
買い求められました。

「カンガサーラの夏の日」




そしてすぐ近くにある
木造の小さな
「シベリウスの生家」を
訪ねられました。

シベリウス作曲
「Andante Festivo」




街角ピアノ

2024-06-11 09:37:00 | 日記

今朝の街角ピアノは
ニューヨークから
ワールド
トレードセンター駅の
ピアノでした。







ジャズあり
「虹の彼方に」あり
それぞれに好きなものを
弾いています。

ロシアと 
ウクライナ出身の男女は
平和への願いを込めて
自作の歌を
歌われました



小さなお嬢さんの
リクエストは
「アメージング・グレース」
でしたね。

   
「Amazing Grace」

特にアメリカ合衆国で
歌われている曲の一つで
「第2の国歌」とも
言われています

作詞者は
ジョン・ニュートン

母親は幼いニュートンに
聖書を読み聞かせて
いました。

成長したニュートンは
商船の指揮官であった
父にならい
船乗りになりますが
黒人奴隷を輸送する
「奴隷貿易」に携わり
富を得るようになります。

1748年
彼が22才の時に
転機が訪れます。
イングランドへ
蜜蝋を輸送中に嵐に遭遇
船が浸水し
転覆の危機に陥りますが
彼は必死で神に祈りました
彼が心から祈ったのは
この時が初めてでした。
すると
流出していた貨物が
船倉の穴をふさぎ
船は転覆を免れます

これを機に彼は
生き方を改め
牧師になりました

黒人奴隷貿易に
関わった悔恨と
それにも関わらず
赦しを与えた
神の愛への感謝が
歌われています。









老後のお楽しみ❗

2024-06-10 09:47:00 | 日記

土曜日の夜は
夜半過ぎても
なかなか
寝付けなかったのですが
6時起きで
ミサのオルガンでした

帰宅して午後は
爆睡です(笑)


   ✨✨✨✨✨


クラシック音楽館は
ブルックナー

世の中には
ブルックナーに
「衝撃」を受けて
大ファンになる者と
「一生涯無縁」の方が
いるのは事実です

彼の交響曲は
とてつもなく長く
60分・80分は当たり前
ブラームスなどには
「大蛇の交響曲」と
バカにされました

   ✨✨✨✨✨

「交響曲第7番」
指揮 エッシェンバッハ

冒頭から素晴らしい音に
弾き込まれました
美しい❗

アントン・ブルックナー
(1824−1896)

幼い頃から
宗教音楽に親しんだ
彼の繊細で
熱情あふれる作品は
宗教的な色合いで
壮大で気品に
満ちていますが
長いっ!(笑)

そんなに長くて
退屈しないのかと
思われるかも
しれませんが
決して退屈しません
それどころか
この美しい音が
いつまでも
終わらないで欲しい…と
願ってしまうのです

ブルックナーの音楽は
オルガン的であると
いわれますが
彼が敬虔な
カトリック教徒であり
オルガン奏者で
あったために
交響曲の手法にも
それが反映されています

彼が生涯信じた
2つのもの
「音楽と宗教」を
見事に証した
作品の数々を
老後の楽しみに
取っていますが
老後っていつ?(笑)








(聖フローリアン大修道院の
オルガンの下に
ブルックナーは
眠っています)

    ✨✨✨


後半は
①モーツァルト
「2台のピアノのための
ソナタ」

②ブラームス
「ハンガリー舞曲第6番」

エッシェンバッハ&フランツ





解説付きで
とても面白く
楽しみましたが
アンサンブルの
見事なこと
一糸乱れず
抜群の演奏でした❗


最後に連弾で
シューベルト
「軍隊行進曲」




愛の讃歌

2024-06-09 08:15:00 | 日記

昨夜から雨に
なりました。
梅雨入りは
まだですが
湿度が高いですね。

   ✨✨✨✨✨

エディト・ピアフ
(1915−1963)

第2次世界大戦後の
最大のシャンソン歌手
147cmで40キロの
小柄な体でしたが
魂を揺さぶるような
圧倒的な歌唱力で
聴衆の心を捕らえました

1949年、10月28日
ニューヨークに向けて
パリを飛び立った飛行機は
大西洋上ポルトガル領
アゾレス諸島の上空で
濃霧にまかれ
方向を失った機体は
山腹に激突しました。

この飛行機に
ピアフの恋人で
ボクシング、ミドル級の
元チャンピオン、
マルセル・セルダンが
乗っていました。


多忙な2人は
なかなか会う事が出来ず
ニューヨーク公演に
来ていたピアフは
あとから船で来ることに
なっていたセルダンに
1秒でも早く会いたいと
電話で懇願し、
セルダンは
出発間際に
船から飛行機に
変えたのです。


このひとことが
セルダンの命を
奪う事になり
ピアフを
悲しみのどん底に
突き落とします。
悲しみは癒えず
薬の副作用と
麻薬の常用で
体はボロボロに
なっていきます

セルダンを悼んで
「愛の讃歌」が
生まれましたが
世界各国でピアフの
代表的な名歌と
なっていきます

日本では
岩谷時子訳詩で
越路吹雪が
唄ったものが
有名になりました。










巨匠の誕生

2024-06-07 08:52:00 | 日記

今朝も
6月とは思えない
良いお天気に
恵まれました。




   ✨✨✨✨✨

昨夜の
クラシックTVは
「べートーヴェン
はじまりの物語」





べートーヴェンの
子供時代から
交響曲第1番を
作曲するまでの解説を
楽しく聴かせて
頂きました。


    ✨✨✨


1792年
ハイドンに
師事するために
ウィーンに
向かいますが
コブレンツに
辿り着いたところで
戦火に巻き込まれ
予定は大幅に遅れますが
なんとか
無事にウィーンに
到着しました。

1ヶ月を過ぎて
生活が落ちつき始めた頃に
父が脳卒中で死去の
電報が届きますが
ボンには
戻りませんでした。


ピアニストとして
ウィーンで
演奏会デビューを果たし
名声が高まります。

忙しいハイドンの
レッスンは
たまにしか
受けられませんが
かえって
独自のスタイルと
オリジナリティで
それまでの西洋音楽の
在り方すらも
変えていくことに
なるのです。





20代前半の
べートーヴェンは
「ピアノ協奏曲第1番」
完成させ
自らのピアノ演奏で
初演します。

1800年、29歳で
最初の交響曲第1番を
完成させ
ハイドン、モーツァルトに
続く交響曲作曲家としての
スタートを切りました。

交響曲第1番
第3楽章の
「メヌエット」は
すでに「スケルツォ」の
性格を帯びています。

明るい作品で
まるで
人生の春を謳歌して
いるようですが
すでに
耳の不調や頭痛が
始まっていました。

ヘルリン・フィル
パーヴォ・ヤルヴィ

(2‘48‘‘)









落第生からメダリストへ。

2024-06-06 10:34:00 | 日記
ラフマニノフが愛した
リラの花

    ✨✨✨

ラフマニノフは
1873年に
ロシア・セミョーノヴォ
生まれました。
一家は地主階級でしたが
父親の浪費がたたって
財産は底をつきます。

借金のために
最後の領地も追い出され
サンクトペテルブルクに
移りました。

少年ラフマニノフは
この街の音楽院に
奨学金付きで
入学します。

両親が離婚して
家庭環境が変わり
不安定な生活が
学校の成績にも
あらわれました。
スケートに
うつつをぬかし
全教科落第の
憂き目をみます。

そんな彼を救ったのは
従兄のジロティでした。
ジロティは
リストに学んだ
有名なピアニストで
彼をモスクワ音楽院に
転校させました。

12歳で
モスクワ音楽院教授
ズヴェーレフの
内弟子になり
徹底的にピアノを
叩き込まれました。
ズヴェーレフ邸には
著名な音楽家が
出入りしていましたが
少年ラフマニノフは
特にチャイコフスキーから
目をかけられました。


1891年の春
ラフマニノフは
ピアノ科を主席で卒業
「ピアノ協奏曲第1番」を
ジロティに献呈します。
翌年には
作曲科の卒業試験に通り
開校以来3人目の
大金メダルを得ました。

卒業試験に書いた
オペラ「アレコ」は
教授陣から絶賛され
翌年
チャイコフスキーの
推薦により
ボリショイ劇場で
初演されました。


ジロティに献呈された
ピアノ協奏曲第1番

ピアノ ユジャ・ワン




協奏曲第2番が
あまりにも有名で
聴く機会の少ない
協奏曲です。





アン・ブーリン

2024-06-05 10:56:00 | 日記
映画「ブーリン家の姉妹」の
ナタリー・ポートマン
   
    ✨✨✨

「ガエターノ・ドニゼッティ」
(1797−1848)





イタリアの
オペラ作曲家で
喜劇も悲劇も
書くことができる
天才でした。

≪マリア・ストゥワルダ
(メアリ・スチュアート)≫
≪アンナ・ボレーナ
(アン・ブーリン)≫
≪ロベルト・デブリュー
(エセックス伯爵)≫は
チューダー朝と
その女性たちを
主役とした
「Three Queens」
歴史物の3部作を
書きました。

   ✨✨✨


ミラノの北東に位置する
北イタリアの町ベルガモ。
サンタ・マリア ・
マッジョーレ教会の
楽長となった
バイエルン出身の
作曲家マイルは
ベルガモ音楽院を
設立しましたが
少年ドニゼッティは
ここに入学して
マイルに学び
さらに
ロッシーニの師として
名高いボローニャの
マッテーイ神父の
教えを受けました。

マッテーイ神父のもとで
最初のオペラ
≪イル・ピグマリオーネ≫を
完成させ
続く6年間に21作もの
オペラを書きました。

生活のめどがついた
31歳の時に
親友の弁護士
アントニオ・
ヴァッセッリの
ヴィルジニアを
妻に迎えますが
19歳の花嫁は
絶世の美女。
仕事と家庭を
手にして
ナポリに新居を
構えました。

2年後、彼の名が
全ヨーロッパに
轟きます。

16世紀イギリスの
ヘンリー8世の
侍女から妃となり
エリザベス1世の母
となりますが
その貞節が疑われ
無惨に処刑された
アン・ブーリンを
描いたオペラ
「アンナ・ボレーナ」が
空前のヒットを
収めました。

    ✨✨✨

メトロポリタン・オペラ
「アンナ・ボレーナ」

(2‘07‘‘)




その後
「愛の妙薬
「ルチア」など
大ヒット作を
飛ばしますが
そのお話はいずれ又。





海軍士官

2024-06-04 08:43:00 | 日記

今日もお天気。
梅雨入りは
来週でしょうか。
今年は遅いようですね。

   ✨✨✨✨✨


ロシア五人組

1850年代から70年代の
ロシアにおいて活躍した
国民楽派。
バラキレフを指導者として
キュイ、ムソルグスキー、
ボロディン、
リムスキーコルサコフが
集まり
ロシア民衆の生活や民話、
叙事詩に着想を得た
曲作りを実践しました。

    ✨✨✨

リムスキー・コルサコフは
ペテルブルクの貴族の家に
生まれ、
海軍兵学校に入学。
在学中にバラキレフから
作曲を学びますが
家族の説得で
海軍士官の道を選びました。

1862年より3年にわたり
世界一周の遠洋航海に
出かけて
異国の風物や自然、
とりわけ海での暮らしに
感銘をうけて
のちの作曲の着想の
源泉になったと
いわれています。

海軍に籍をおきながら
ペテルブルク音楽院の
作曲家教授に就任。
グラズノフや
ラフマニノフなどの
優秀な人材を
育てました。


「スペイン奇想曲」

航海で訪れた
スペインの音楽に
心惹かれて作曲した作品。
もともとは
ヴァイオリンの曲として
書かれましたが
1887年に
オーケストラの作品として
仕上げました。

全5楽章ですが
全楽章を続けて演奏する
指示があります。
主題のメロディーは
すべてスペイン民謡を
使用しています。

スペイン奇想曲
ベルリン・フィル
指揮 ズービン・メータ





便利グッズ

2024-06-03 09:14:00 | 日記


昨夜の
クラシック音楽館は
マレク・ヤノフスキ指揮の
ブラームス交響曲第1番を
少し聴かせて
頂きました。

溌剌としたテンポで
とても面白く
明確な演奏です。

ヤノフスキ氏は
拍手を受けても
ニコリとも
されないのです。
とても礼儀正しく
お辞儀を
されるのですが…




しかし
ゆったりした楽章で
奏者と目があった時に
口もとが少し緩むのが
なんともチャーミング
でした。

4楽章では
ホルンが心にしみ
厚い音の重なりと迫力の
ドイツ音楽を
楽しみました。


  ✨✨✨✨✨


朝起きて
香り高い
一杯のお紅茶を頂くのが
とても楽しみです。


紅茶の缶を
開けるのに
便利なキッチン鋏を
頂きました。



真ん中の部分では
瓶の蓋も開けることが
できるので
助かります。






   ✨✨✨✨✨


もう一つの
便利グッズは
電動ノコギリ。

組み立ては
断崖君が
あっと言う間に
やってくれました。



「木も切る?」と
言ってくれましたが
それは丁重に
お断りしました。


破局の原因

2024-06-02 11:35:00 | 日記

(ヴァンドーム広場の
ショパンの最後の家)



ショパンと
6歳年上の
ジョルジュ・サンドの恋は
1838年から始まりました。

ショパン28歳
サンド34歳でしたが
9年後の1847年の夏に
急速に破局に向かいます。

サンドは
ノアンの館で
ショパンと
デュドヴァン男爵との
2人の子供
(長男モーリスと
長女ソランジュ)と
生活を共にしていました。

母サンドに
甘やかされて育った
長男モーリスは
成長するにしたがい
ショパンを疎んじ
始めました。

一方で母の愛を
兄に独占されたと感じる
長女ソランジュは
母に激しく反発し
ショパンに
まとわりついて
いました。

ショパンも美少女に
惹かれていたふしもあり
ソランジュの
結婚問題を発端に
崩壊に追い込まれて
いきます。

評判の芳しくない
彫刻家クレサンジュと
衝動的に結婚した
ソランジュ。

借金で首のまわらない
彫刻家のクレサンジュは
ある日、ソランジュと
ノアンの館を訪れ
屋敷を抵当に
入れることを要求し
暴れまわったのです。
金槌を振りあげて
モーリスに
打ち下ろそうと
しますが
モーリスは
ピストルを取出し
銃口を彫刻家に
向けました。

ショパンが
パリに滞在中の出来事で
サンドは事の次第を
ショパンに
書き送りますが
ショパンの返事は
クレサンジュを
非難するよりも
ソランジュに対して
もっと母親らしい愛情を
注いで欲しいと
サンドの愛の足りなさを
指摘してしまいました。

この手紙が
サンドを逆上させ
2人の仲は
再び元に戻ることは
なかったのです。

ショパンの
肖像画として
残されている
有名な
ドラクロアの作品は
サンドとショパンの
2人を描いたものでしたが
初めからショパンが
気に食わなかった
モーリスは
破局後、
2人の肖像画を
真っ二つに
切り裂いて
しまいました。



(切り分けられた名画)



サンドとの破局は
ショパンにとっては
衝撃でした。
2年後、39歳で
世を去りましたが
愛用していた手帳には
サンドの髪と
彼女からの手紙が
大切にしまわれて
いました。

ショパンの絶筆の
マズルカOp.68−4

ピアノ ミケランジェリ

















爽やかな6月

2024-06-01 08:31:00 | 日記

いよいよ6月ですね。
月日の経つのが
早いこと。

  ✨✨✨✨✨✨


チャイコフスキーの
「四季」より
6月は「舟唄」です。

ピアノ 
マルタ・アルゲリッチ





チャイコフスキーが
35歳の頃に作曲した
「四季」
この曲集は
ロシアの
1年の風物を
各月毎に
12のピアノ曲で
描写しました。

曲集の中で
特に有名な「舟歌」
日本の梅雨とは違い
6月は屋外で月を
眺めるのに
最適な季節のようです。

夏の夜の海辺
柔らかな波間に浮かぶ
少し気だるい
メロディーで
始まります。

   ✨✨✨✨✨


1868年、28歳の時
モスクワを訪れた
イタリアのオペラ歌手
デジレ・アルトーと
結婚を決意しながら
アルトーに
去られるという
失恋体験をします。

1877年に
モスクワ音楽院の
教え子で
熱烈なラブレターを
送ってきた
9歳年下の
アントニーナ・
ミリューコヴァと
結婚しますが
わずか数日で
妻を愛せない事がわかり
妻のもとから逃げ出し
自殺をはかるも
未遂に終わります。
弟に助けられて
国外脱出をはかり
ベルリン・ジュネーブを
経由して
スイスの
レマン湖のほとりの
クラランに落ち着いて
結婚の傷を癒しました。


1876年から
13年間にわたり
大富豪の未亡人
メック夫人から
年額6000ルーブルの
多額の援助を受け
作曲に専念。
「ヴァイオリン協奏曲」や
「交響曲第5番
「弦楽セレナード」
バレエ音楽
「眠りの森の美女」
などの作品が次々と
生まれていくのです。