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薔薇 レディ・ダイアナ
36歳の若さで
逝去された
ダイアナ妃の
事故後の言葉でした。
アントニン・ドヴォルザーク
1859年、オルガン学校を
卒業したト゚ヴォルザークは
小さなオーケストラの
ヴィオラ奏者として
音楽家生活のスタートを
切りました。
お給料は微々たるもので
ピアノ教師のアルバイトも
こなしますが
生徒であるヨゼファ・チェルマーコーヴァという
人気女優に熱烈な恋心を
抱くようになりました。
まもなくヨゼファは
コウニッツ伯爵に
嫁いでしまい
この恋はドヴォルザークの
一方的な片思いで
終わりました。
失恋の痛手を
振り切るように
夢中で作品を書き続け
1872年には空前の
大成功を収めました。
ドヴォルザークの
書いた歌曲に
「Lasst mich allein」
(私に構わないで)が
ありますが
若い頃に恋したヨゼファが
この歌曲が大好きでした。
ドヴォルザークは
ヨゼファの妹アンナと
結婚して
国際的な作曲家となった
ドヴォルザークは
52歳の時
ニューヨーク国民音楽院の
院長として
破格の高級で招かれます。
ニューヨークに
落ち着いたものの
ホームシックに
苦しみながらも
新天地で接した印象を
「交響曲第9番新世界より」弦楽四重奏曲
「アメリカ」と
いった作品に
みごとに反映させました。
滞在3年目に
「チェロ協奏曲 ロ短調」を
作曲している
彼のもとに
コウニッツ伯爵夫人
ヨゼファから
手紙が届きます。
「親愛なるアントニン、
たぶんもうお会い
できないでしょう。
今、私の人生に
残されたものは
あなたの音楽だけです。
あなたの歌曲
「私に構わないで」を
耳の奥に聴きながら
私は去っていくでしょう」
すぐにもボヘミアに
帰りたいと思いながら
彼は作曲中の
「チェロ協奏曲」の
第2楽章に
ヨゼファの愛した歌曲
「私に構わないで」の
旋律を取り入れました。
チェロ ロストロポーヴィチ