SHAンパンでもいかが?

「最終楽章 気分はAdagio」
77歳の一人暮らし。

落第生からメダリストへ。

2024-06-06 10:34:00 | 日記
ラフマニノフが愛した
リラの花

    ✨✨✨

ラフマニノフは
1873年に
ロシア・セミョーノヴォ
生まれました。
一家は地主階級でしたが
父親の浪費がたたって
財産は底をつきます。

借金のために
最後の領地も追い出され
サンクトペテルブルクに
移りました。

少年ラフマニノフは
この街の音楽院に
奨学金付きで
入学します。

両親が離婚して
家庭環境が変わり
不安定な生活が
学校の成績にも
あらわれました。
スケートに
うつつをぬかし
全教科落第の
憂き目をみます。

そんな彼を救ったのは
従兄のジロティでした。
ジロティは
リストに学んだ
有名なピアニストで
彼をモスクワ音楽院に
転校させました。

12歳で
モスクワ音楽院教授
ズヴェーレフの
内弟子になり
徹底的にピアノを
叩き込まれました。
ズヴェーレフ邸には
著名な音楽家が
出入りしていましたが
少年ラフマニノフは
特にチャイコフスキーから
目をかけられました。


1891年の春
ラフマニノフは
ピアノ科を主席で卒業
「ピアノ協奏曲第1番」を
ジロティに献呈します。
翌年には
作曲科の卒業試験に通り
開校以来3人目の
大金メダルを得ました。

卒業試験に書いた
オペラ「アレコ」は
教授陣から絶賛され
翌年
チャイコフスキーの
推薦により
ボリショイ劇場で
初演されました。


ジロティに献呈された
ピアノ協奏曲第1番

ピアノ ユジャ・ワン




協奏曲第2番が
あまりにも有名で
聴く機会の少ない
協奏曲です。