SHAンパンでもいかが?

「最終楽章 気分はAdagio」
77歳の一人暮らし。

ローン・レンジャー

2024-02-29 11:27:35 | 日記

今日で2月も終わり。
早かったですね。

そして2月29日は
ロッシーニの
誕生日です。

イタリアの
オペラ作曲家で
軽妙洒脱で
喜劇性の高い作品
(オペラ・ブッファ)を
次々と発表しましたが
40作目のオペラ
「ウィリアム・テル」を
発表後、引退しました。

絶頂期真っ只中でしたが
引退の理由は
美食と料理で
大好きなトリュフを探す
豚を飼育するためでした。
(゚∀゚)

彼はすでに築いた
巨万の富でパリに
サロンを開きましたが
彼の名の付いた
数々のレシピが
残っています。

トゥルヌド ロッシーニ



ロッシーニ カクテル



彼の最後の作品である
「ウィリアム・テル」序曲
日本では
運動会の定番曲として
親しまれてきましたが
1958年から
TVで放映されていた
「ローン・レンジャー」の
テーマ音楽でしたので
とても懐かしいです。





お菓子の家

2024-02-28 08:54:00 | 日記




ヨーロッパでは
クリスマスの時期に
「ヘンゼルとグレーテル」の
オペラが上演されます


作曲はフンパーディンクで
ライン川の支流
ジークブルクに生まれ
ケルン音楽院で
学んだのち
イタリアに留学しました。

イタリアでは
ワーグナーに出会い
バイロイトで
「パルジファル」の
上演の助手をつとめて
ワーグナーの仕事から
多くのものを学びます。

「ヘンゼルとグレーテル」
作曲のきっかけは
妹から夫の誕生日に
子供達が演じるための
音楽を依頼されたからです。


グリム童話の
残酷な部分をのぞいて
明るい台本を書いたのは
依頼した妹でした。

森の朝を思わせる
ホルンの音色で始まる序曲
子供から大人まで
ハッピーになれる
オペラです。

初演は
リヒャルト・シュトラウスの
指揮で行われました。
唯一のメルヘン・オペラで
ドイツ圏では
現在でも上演回数上位の
人気作品です。


「ヘンゼルとグレーテル」
少しだけ…





エリザベートと美しく青きドナウ

2024-02-27 09:29:00 | 日記


革命後の不安定な
オ―ストリア帝国の
皇帝に18歳で即位した
フランツ・ヨ―ゼフ。
一目惚れを実らせて
妃に迎えたのが
16歳の美貌の皇妃
エリザベートでした。
身長は172cm、
ウエスト51cm
体重  45kgの
体型を保つために
激しいトレーニングと
ダイエットに
のめり込みますが
お菓子も大好きでした。


エリザベートは
ハプスブルク家の家風や
厳格な宮廷が肌に合わず
さまざまな口実を
見つけては
ウィーンを離れて
旅を続けていました。
彼女はハンガリ―で
人気があり
彼女自身も
ハンガリ―贔屓でした。

エリザベートが愛した
ハンガリ―の陶器ヘレンド




1867年
オーストリアが
プロイセンとの戦争に負けて
落ち込んでいる国民を
励ますために
シュトラウス2世が
「美しく青きドナウ」を
作曲しました。
同年の4月―10月にかけて
開かれた
第2回パリ万国博覧会で
シュトラウス2世が指揮
更にロンドンで演奏されて
世界中から楽譜の注文が
殺到します。
ウィーンでも
爆発的な人気を呼び
この頃からすでに
「第2の国歌」と呼ばれる
国民的音楽になります。

こんな時代に
美貌と夫からの
惜しみない愛情に
めぐまれながらも
満たされない心を抱いた
エリザベートは
悲劇の人生を歩んで
いきます。

ウィーン・フィル
「美しく青きドナウ」









莫大な財産を後ろ楯に。

2024-02-26 09:49:00 | 日記


ヨ―ロッパの
ルネサンス時代に
ドイツで
大きな出来事がふたつ
起こりました。

ひとつはグ―テンベルクの
活版印刷、
もうひとつはルターに
よる宗教改革でした。

この頃に活躍した
作曲家が
ジョバンニ・ダ・
パレストリーナでした。

サン・ピエトロの
聖歌隊の楽長として
11人の教皇に仕えます。

最初の妻が世を去り
宮廷出入りの
裕福な毛皮商の未亡人と
再婚し莫大な財産と
土地と家を手に入れます。

100以上のミサ曲と
250曲を超える
モテットを書いて
「教会音楽の父」と呼ばれ
カトリック教会では
グレゴリオ聖歌に次いで
重要視されています。




ルターによる宗教改革で
カトリック教会に対する
批判の動きは
ヨ―ロッパ各地にひろがり
カトリック教会の
普遍的な権威は
ゆらぎますが
カトリックも
これを機に
教義の明確化と
内部改革をおこないます。

パレストリーナの
≪教皇マルチェルス
のミサ≫

ミサ曲の見直しが
行われたなかで
新しい教会音楽の
あり方をしめすものとして
作られました。

このミサ曲は伝統的に
教皇の戴冠のミサで
歌われます。



1978年
型破りで革新的といわれた
ヨハネ・パウロ1世
廃止するまで
ずっと歌い継がれた
大変に美しいミサ曲です。

≪教皇マルチェルスの
ミサ曲≫よりキリエ
(4‘38‘‘)






紳士の国の紳士

2024-02-25 09:07:00 | 日記

近代イギリスの
音楽の父
サ―・エドワ―ド・エルガ―
ほぼ独学で作曲を
学びました。

大作曲家にはワイルドで
奔放な人生を生きた人が
多い中、エルガ―は
愛妻家で紳士でした。

1899年
「エニグマ変奏曲」
の初演の大成功で
世界的に有名になります。



当時の国王
エドワ―ド7世は
母ヴィクトリア女王が
長寿であったため
58歳まで皇太子でした。



彼はヨ―ロッパ中で
浮き名を流し
放蕩息子で
過ごしたことで
有名でした。


ヴィクトリア女王の
崩御に伴い
王位に就くことになった
エドワ―ド7世の戴冠式の
ガラ・コンサ―トへの
楽曲の依頼を受けた
エルガ―は
「威風堂々」第1番を
作曲します。

初演を聴いた
エドワ―ド7世は
たいそう気に入り
「中間部分のメロディーに
合唱を入れては?」と
提案しました。
翌年の国王の戴冠式。
「戴冠式頌歌」の終曲の
「希望と栄光の国」に
威風堂々の
メロディーを用い
更に大成功を収めました。



エルガ―は1904年
47歳の時に
エドワ―ド7世から
ナイトに叙されます。

ロイヤル・オペラ・ハウスで
行われたエルガ―の演奏会に
エドワ―ド7世は
2夜連続で臨席して
います。

エドワ―ド7世の在位は
わずか10年足らずでしたが
その短いエドワ―ド朝で
エルガ―は
英国の音楽ここにありと
ヨ―ロッパ中に
名前を知らしめました。

晩年には
バロネット(准男爵)に
叙されています。










シャム猫達

2024-02-24 09:52:00 | 日記

中学生のお嬢さんが
ラヴェルの
「水の戯れ」の練習を
しています。
「無理しないで。」
と言っていますが
少しずつ譜読みするのが
楽しいようです。


  ✨✨✨✨✨

ドビュッシーとラヴェルは
近代フランス音楽の
代表的作曲家です。

1901年に完成した
ラヴェルの「水の戯れ」は
音楽史上初の印象主義の
手法による作品でした。

ラヴェルより13歳年上の
ドビュッシーが
完全な
印象主義の手法による
初の作品「版画」を
書いたのは
その2年後でした。

ドビュッシーは
幼い頃から感受性が強く
異常なほど神経質でした。
上等な版画や書物に
囲まれていなければ
我慢できず
プライバシーを頑なに守り
知らない人と同席すると
落ち着かなくなりました。
人間よりも猫が好きで
シャム猫を
飼っていました。



  ✨✨✨✨✨

そしてラヴェルは
もっとも凝り性で
洗練された作曲家でした。
ダンディで一分の隙もない
身なりで人前にでる
パリジャンでした。

作曲に関しては
じっくりと慎重に創作を
進めていくタイプで
作品の数はそう多くは
ありません。
彼自身が語った言葉が
ありました。

『私は大作曲家ではない。
(略)時間をかけて
一刷毛ずつ絵の具を
キャンバスに
塗っていくような調子で
作曲してきた。
私の作品は
どれも自分自身を
削り取って作って
きたのだが、、、(略)』

「亡き王女のパヴァーヌ」や
「水の戯れ」が
いかに入念に
組み立てられいるかを
改めて知りました。


そんなラヴェルも
シャム猫の
「ムニとミヌ」を
可愛がっていました。







レモン アイスクリーム

2024-02-23 09:19:00 | 日記

4月並みのあたたかさと
思ったら一転して
冬の寒さに逆戻り。
着るものに迷いますね。

昨日は厚めのジャケットに
ロング・ブ―ツで
出かけました。
手袋を片方落としたので
買いに出かけましたが
靴売り場にも寄り道です。




   ✨✨✨✨✨
  

ウィーン郊外リヒテンタールに生まれたシュ―べルト。
子供の頃から
抜群の才能を発揮して
8歳で難関の
国立神学校コンヴィクトの
試験を受けます。
この学校は
アントニオ・サリエリの
指導下にあり
ウィーン楽友協会音楽院の
前身校でした。

試験官の一人である
サリエリはシュ―べルトに
一番をつけています。

サリエリは
異例の要請を行い
寮の外出禁止の規則を
特例で免除して
週に2度
サリエリの自宅で
レッスンを
受けられるように
はからいます。





15歳のシュ―べルトは
サリエリの
熱心なレッスンを
受けたあと
甘いものの好きな
サリエリと共に
グラ―ベン通りの
レモネードや
アイスクリーム
を販売する店に
立ち寄りました。
サリエリは
レモン・アイスクリームを
シュ―べルトに渡しますが
その頃のアイスクリームの
値段は2000円以上
だったようです。

シュ―べルトは
≪サリエリ氏の50年祝賀に
よせて≫D407を
書いています。




ピ―チ・メルバ

2024-02-22 09:33:00 | 日記


ワ―グナ―のオペラ
「ロ―エングリン」

結婚式でお馴染みの
「結婚行進曲」が
演奏されるオペラです。



初演はリストが指揮
しましたが
パトロンである
ル―ドヴィヒ2世の
お気に入りの作品でした。

  ✨✨✨✨✨

アントワ―プを治めていた
ブラバンド公の
息子ゴットフリートは
魔法使いに
白鳥の姿に
変えられてしまいますが
ゴットフリートを
殺害したと
妹のエルザがぬれぎぬを
着せられます。
エルザが自分のために
戦ってくれる勇者を
探していたところ
謎の騎士(ロ―エングリン)が現れ
エルザとの結婚と
自分の素性を
聞かないことを条件に
助けてもらいます。

約束通り二人は結婚
することになりますが
結婚式を終えたエルザは
謎の騎士に素性を
聞いてしまうのです。

謎の騎士は
「ロ―エングリン」と
名前を明かしますが
約束を破られたため
エルザの元を去ります。
去り際、
ロ―エングリンは
白鳥にされていた
兄のゴットフリートを
元の姿に戻します。
驚きと悲しみでエルザは
息絶えてしまいました。

   ✨✨✨✨✨

「ロ―エングリン」が
ロンドンの
コベントガ―デンの
オペラハウスで
上演されましたが、
エルザ役は人気の
メリ―・メルバでした。
ロンドンの
サヴォイ・ホテルの料理人が
メルバに捧げたデザ―トが
「ピ―チ・メルバ」です。











マーマレード

2024-02-21 10:53:00 | 日記

夏ミカン3個で
マーマレードを
作りました。







今朝はトーストと
マーマレードの朝食です。


朝食といえば
懐かしい山の上ホテルが
閉館です。
カザルスホールや
文京シビックホールの時に
宿泊しました。

夕食はカウンターの天麩羅がとても楽しみでしたが
若かったのですね。(笑)


   ✨✨✨✨✨


ゲオルグ・フリードリヒ・
ヘンデル


↑ 
(薔薇 ヘンデル)

25歳の時に
ハノーファーで
宮廷楽長として
仕えていましたが
その職を捨てて
イギリスに渡ります。
2週間で書き上げた
オペラ「リナルド」が
大成功をおさめ、
アン王女から厚遇を受けて
ロンドンに居着いたのです。

アン王女が急逝し、
ハノーファー選帝侯
ゲオルグが
ジョージ1世として
即位します。
ヘンデルは船上で
「水上の音楽」を
演奏しましたが
巧みな演出で
王に気に入られ
宮廷付きの
音楽家となり
オペラの
プロデュース業でも
名声を得ました。


この頃、王侯貴族など
上流階級では
紅茶を飲む習慣が
定着していました。

1662年にポルトガルから
嫁いだキャサリン妃が
紅茶を飲む習慣を
イギリス宮廷にもたらし
その後メアリ2世に、
さらに妹のアン王女に
受け継がれました。
この習慣は
市民層にも広がり
ロンドンの
朝食のスタイルが
確立されます。
忙しいヘンデルの
ストレス解消は
マーマレードだった
ようです。




















パリのサロン

2024-02-20 09:24:00 | 日記
バロン・ド・ロスチャイルド



ドイツのフランクフルトに
生まれたユダヤ人
マイヤー・アムシェル・
ロスチャイルドが
開いた銀行は
ヨーロッパの主要都市に
拠点を構えて
19世紀には
世界最大規模となり
桁外れの巨大財閥に
成長します。
ビジネスで得た
莫大な資産で
芸術を庇護し
サロン文化の中心的な
存在となりました。

サロンでは女主人が
取り仕切る場合が多く
食事や飲み物が出され
音楽演奏、
政治や芸術談議
などが行われましたが
ロスチャイルド家のサロンは
当時パリに多数存在した
サロンの中でも
最上級でした。

屋敷を改装して
40人編成のオーケストラが
演奏できる舞台を持ち
3000人収容可能な
舞踏会場を作ります。
当時、人気絶頂だった
リストの演奏会を開き
料理やお菓子で
もてなしました。

リストが
ニコロ・パガニーニの
演奏を聴いて
自らも超絶技巧を
目指しますが
その演奏を聴いた会場が
ロスチャイルド家の
サロンでした。

サロンには政治家や
王族も出入りし
ハイネ、バルザック、
コロー、ドラクロワ、
マネ、ルソー、
マイアベーア、ロッシーニ、
ベルリオーズ、リスト、
ショパン、サン・サーンス、
ビゼーなどが
集まりました。

このサロンで出された
お菓子の一つ
シャルロット。
ビスキュイに
クリー厶を詰めています。











ウィーン楽友協会ホール

2024-02-19 10:50:00 | 日記

ドイツのお土産に
頂いたシュトレン。
一口サイズで
柔らかくて
とても美味しいです。

3月末までの日持ちと
いうことは
イースターまでを
意識してなのかしら…






  ✨✨✨✨✨✨

クラシック音楽館は
追悼 マエストロ小澤征爾

2002年
ニューイヤーコンサートの
ダイジェスト版です。

指揮棒を持たないで
指を自由自在に操り
目からも顔からも
ビー厶が出ている❗

全曲、頭に入れていて
譜面台には曲順を書いた
小さなメモが
置いてあるだけ。

ウィーン・フィル相手に
「ウィーンかたぎ」も
小澤ワールド全開。
凄い❗

中央の座席に
美樹夫人、征良さん、征悦氏
楽しそうな様子が
何度も映し出されました。

   ✨✨✨✨✨




この楽友協会の大ホールは
27年前から毎年
多くの合唱団と共に
弾かせて頂いた
懐かしいホールです。

客席は
こんなに満席ではなく
お花はありませんが
名演奏が染み込んでいる
ホールの響きに
感動していました。

オルガンのパイプは
正面に並んでいますが
演奏台は
舞台の下手にあります。
ピアノは
べーゼンドルファの
フルコンサート。

演奏後に頂く花束は
小沢氏と同じ形。
日本まで持って帰ることは
できないので
ホテルにプレゼント。




   ✨✨✨✨✨


後半は
ウィーンフィル来日公演。
小澤氏は病後のために
椅子に腰かけての
指揮です。


モーツァルト作曲
「フィガロの結婚」序曲
指揮 ズービン・メータ

シューべルト作曲
「未完成」
指揮 小澤征爾


武満徹作曲
「ノスタルジア」
アンネ・ゾフィー・厶ター

体調がお悪いのに
途中で立ち上がるほどの
熱演でした。





初恋の味

2024-02-18 09:50:00 | 日記

ルードヴィヒ・ヴァン・
べートーヴェン


1770年
ドイツ西部の町、
ボンで生まれました。
父ヨハンは
宮廷歌手として
働いていましたか
お酒が好きで
毎日浴びるほど
飲んでいました。

母のマリア・マグダレーナは
料理上手で
しっかりものでしたが
肺病で世を去ります。
その時に
往診に来てくれた
医学生ヴェーゲラー。
ルードヴィヒより
5歳年上でしたが
生涯切り離せない
友情で結ばれます。


母の死後は
ヴェーゲラーから
ブロイニング家の
子供達にピアノを
教えてほしいと頼まれ
多くの時間を
ブロイニング家で
過ごしました。
当主は若くして
未亡人となった
ヘレーネで
ルードヴィヒを
我が子のように扱い
遊びに連れていったり
礼儀作法、ドイツ文学、
ラテン語の初歩も
教えました。
哲学書や文学書が揃う
ブロイニング家で
ルードヴィヒは
ゲーテやシラーの詩に
出会います。

ブロイニング家は
彼にとって
「第2の家庭」となり
長女エレオノーレと
三男のロレンツに
ピアノを教えます。
レッスン後には
食卓に
美味しい食事が並び
レッスンはより楽しい
ものとなります。

そして食後の
異国情緒たっぷりの飲み物
コーヒーの香りは
べートーヴェンの興味を
多いにそそりました。

又、ルードヴィヒは
飲んだくれの父がいる
自宅に嫌気がさすと
歩いて5分ほどの
「ツア・ブローメン」
という酒場に行き
学生時代の女友達と
ダンスを踊っていました。
当時のルードヴィヒは
お金がなかったので
じゃがいものタルト
カルトッフェルクーヘンを
食べていたようです。




  ✨✨✨✨✨✨


ルードヴィッヒが
好きなものの一つに
コーヒーがあります。

ウィーンの自宅で
好みのコーヒー豆を
焙煎して毎日何杯も
飲んでいましたが
コーヒーの香りは
若い頃ボンでの
ブロイニング家での
ピアノのレッスンで
初恋の女性
エレオノーレとの
初恋の香りでした。


エレオノーレに
ピアノソナタを
贈っています。

「ピアノソナタ ハ長調」
1楽章



エレオノーレは
医学生ヴェーゲルと
結婚しましたが
夫妻との友情は
生涯続きました。





愛犬家

2024-02-17 15:56:57 | 日記

リヒャルト・ワーグナー

利己的で尊大
しかし革新的で
魅力的な
天才作曲家です。
彼は詩、音楽、絵など
あらゆる芸術の一体化を
目指しました。

しかし初めは
苦難の連続で
借金まみれの
ワーグナーは
妻ミンナを連れて
逃亡を企て
一旗揚げようと
花の都パリへ
行くことを決めます。

しかし60kg近い
巨大な愛犬のせいで
馬車に乗ることが
できないのです。
それでも犬を
絶対に手放そうとせずに
ロンドンまで船に乗り
そこから又、船で
パリに向かうことに
しました。




ようやく
乗り込んだ船が
大嵐に見舞われ
難破寸前になり
地獄のような船旅を
体験しますが
何とかパリに到着します。

この経験により
出世作になる
「さまよえるオランダ人」が
作られたのです。

≪さまよえるオランダ人≫
ベルリン・フィル
指揮 クラウディオ・アバド

(3‘08)


このように
亡命生活で
各地を移動するときも
コジマと再婚したときも
彼にはいつも
愛犬が同行していました。

バイロイトの
ワーグナーの墓の横には
小さな愛犬の墓まで
あります。






ミドルネームはヴォルフガング

2024-02-16 09:57:00 | 日記

昨夜のクラシックTVは
若い演奏家達。




ピアノに
ヴァイオリン
チェロの演奏でしたが
特に印象に残った曲は
コルンゴルトの
ヴァイオリン協奏曲の
第1楽章でした。





エーリッヒ・ヴォルフガング・コルンゴルト
 


20世紀の
モーツァルトと讃えられ
子供の頃から才能を
存分に発揮して
ウィーンの音楽界に
確固たる地位を築きます。

10歳で書いた
カンタータ≪金≫は
マーラーに絶賛され
R・シュトラウスは
14歳で書いた
管弦楽曲≪演劇序曲≫
と≪シンフォニエッタ≫を
手放しで褒めました。

18歳で書いた
オペラ≪ヴィオランタ≫
プッチーニを
感動させます。
23歳で作曲した
オペラ≪死の都≫は
ヨーロッパ中の話題になり
30歳で
ウィーン国立アカデミーの
作曲科教授に
就任しました。

そんな輝かしい人生に
影が射します。
ナチス・ドイツの
オーストリア併合に伴い
アメリカに亡命。
疎開先に選んだ
ハリウッドで
映画音楽の世界に
身を投じました。

戦後、新作を携えて
ウィーンに戻りますが
「映画に魂を売った
下等な作曲家」という
レッテルを貼られ
ウィーン楽壇から抹殺され
前半生とは打って変った
つらい後半生となります。

ハリウッドで生まれた
作品の数々は
映画音楽の
概念を変えて行きます。
今をときめく
ジョン・ウィリアムズまで
多大な影響を与えました。

2度目のアカデミー賞に
輝いた
「ロビンフッドの冒険」

















ボンボン・ワルツ

2024-02-15 10:06:00 | 日記

昨日は
バレンタイン・ディ。
可愛いチョコレート❣️を
頂きました。(*^^*)

   ✨✨✨✨✨


ヨハン シュトラウス2世
「ボンボン ワルツ」op.307




ウィーンの祝祭舞踏会で
パウリーネ・フォン・
メッテルニヒ侯爵夫人に
献呈されました。

彼女の夫はパリの
オーストリア大使であり
ヨハン・シュトラウスと
ヨーゼフ・シュトラウス
兄弟が
パリで開催される
万国博覧会に
出席することを
望んでいました。

そしてヨハンは
パリの
オーストリア大使館で
ガラ・コンサートを
指揮することに
なりましたが
その時の
オーケストラが
のちの
ベルリン・フィルハーモニー
管弦楽団が誕生する
きっかけとなるのです。


ウィーン・フィルハーモニー
管弦楽団が
1900年の
パリ万国博覧会に
参加するときには
パウリーネ・フォン・
メッテルニヒ夫人から
支援を受けて
初めての海外ツァーを
行いました。

世を去る少し前に
彼女は
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の
二人目の名誉会員に
なりました。


ヨハン・シュトラウス2世
≪ボンボン ワルツ≫

フランス風のおしゃれな
ワルツです。



ウィーンのスィーツ
満載でしたね。