伊右衛門が黄金十枚で馬を買ったという噂は、長浜城下だけではなく、安土城下にもひろまった。
「ほほう、山内伊右衛門とはそれほどの男なのか」
伊右衛門を知る者も知らぬ者も眼をみはった。元々平凡な男、という印象しか、家中の者はもっていない。この噂で、人々の心の中にある伊右衛門像がいっぺんに修正されてしまった。
人が、他人を見ている眼は、鋭い一面もあるが、他愛もない噂などで映像を作ってしまうようである。千代は、そう云う事を見抜いていたようである。
人々は、奥州産の駿馬を手に入れた、ことに驚いたのではない。
「黄金十枚」に、衝撃を受けたのである。
この時代の人は、黄金という希少な金属に対して夢のようなあこがれを抱いていた。
黄金十枚、という噂を聞いただけで、織田家の家中の者は伊右衛門が英雄に見えたのであろう。
「伊右衛門は、二千石の身上で三千石の身代相応の兵を養い、尚かつそれ程の財貨を持っていたのか」
非凡、と云う印象を人々にあたえた。
それがやがて、内儀が持っていたらしい。と言い伝わったとき、噂はいっそう感動的なものになった。
「伊右衛門殿は、良い妻女を持たれている」
そう云う噂ほど、山内家の奥行きの深さを印象させるものはない。
娯楽の少ない頃だから、他人の噂が、劇、小説などの役目を果たしている。
この、山内一豊夫妻の話しは、当時はおろか、今日まで人に知られ、戦前は小学校の国定教科書にまで載った。
千代は、馬などよりも、その「噂」を黄金十枚で買ったと言っていい。馬は死ぬが、噂は死なないのである。
伊右衛門を、一躍天下の名士とさせた信長の馬揃え(観兵式)が京で行われたのは、天正九年二月二十八日であった。
信長はまだ天下の中原を押さえたのみであるにせよ、官位は鎌倉幕府創設者右大将源頼朝を超える大臣までに登っている。
もはや、天下は織田家のものぞ。
と云う被征服大名への示威と、天下最大の軍容を誇示するには、天皇臨御の馬揃えほど効果のあるものはなかった。
馬揃えの用意をせよ。
と全軍に布告されたのは、その一月余り前の正月二十三日である。
「千代、あの馬を買って良かった。馬揃えがあるぞ」
と、伊右衛門は、躍り上がるように千代に言った。
「まあ、なんと果報な」
「いやまったく、我ら夫婦は果報者じゃ。これまで乗っていたあの古傘のようにあばらの浮き出た痩せ馬でわしが参加するとすれば、天下の物笑いになったところだ」
「こういう回り合わせになるのも、あなた様が御運の強いお生まれだからでございます」
千代が、結婚以来ずっと伊右衛門に植え付けている信仰である。千代の考えるところ、どうせ人生は禍福入り交じって縄のごとくなわれたものだ。自分は不運だとも思えるし、運が強いとも思える。いっそどちらも正しくどちらも誤りとすれば、運がつよい。と思い込む方が、明るくこの世が渡れるのではないか。明るい人間に不運は訪れ難いものだと千代は思っている。
偶然そのころ、安土の城中で信長が、御伽衆の夕庵法印老人とこの話をしていた。
「黄金十枚でもとめたと?」
信長は驚いた。
「いやいやそういうことよりも、その
山内伊右衛門とやら、ようやった。もし伊右衛門が買わなければ、その奥州のばくろうは、諸国へ行って織田家の侍の不甲斐なさを吹聴しまわったことであろう。功は、戦場の槍先だけのものではない」
「それ程の男か」
とも言い、
「その馬が見られるとは、馬揃えの日が楽しみなことよ」
とも言った。
馬揃えの当日が来た。
いやもう、京は割れるような騒ぎで、近国から見物に来る者だけで十万の数をかぞえたとか。
観兵式場は、内裏の東に作られ、観覧桟敷は、仮御殿が造営された。
仮とはいえ、屋根は檜、欄干には金銀をちりばめ、決して粗末な建物ではない。
馬揃えの行列の、諸大名の中、羽柴秀吉が過ぎて行った十騎あとに、ゆらりと山鳥芦毛の例の逸物に乗って山内伊右衛門が出て来た。
その馬の見事さに、公卿桟敷からさえ感嘆の声がどよめいた。
「おお、あれか、馬で知れるわ」
信長はひざをたたいた。
「伊右衛門の山鳥芦毛の前には、諸大名どもの馬さえずんと見劣りしてみえる」
伊右衛門の乗りざまもいつもと違って見事なものだ。馬がよいと、つい乗る姿勢さえしゃんとしてくるらしい。
「いや、今日はよき侍をみつけた。あの馬代に二百石を加増してやれ」
信長は、上機嫌だった。
つづく
千代の人生哲学である「どうせ人生は禍福入り交じって縄のごとくなわれたものだ。自分は不運だとも思えるし、運が強いとも思える。いっそどちらも正しくどちらも誤りとすれば、運がつよい。と思い込む方が、明るくこの世が渡れるのではないか。明るい人間に不運は訪れ難いものだ」と云うことを、伊右衛門にも、信じ込ませることで、前向きな生き方をコーチングしています。
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「ほほう、山内伊右衛門とはそれほどの男なのか」
伊右衛門を知る者も知らぬ者も眼をみはった。元々平凡な男、という印象しか、家中の者はもっていない。この噂で、人々の心の中にある伊右衛門像がいっぺんに修正されてしまった。
人が、他人を見ている眼は、鋭い一面もあるが、他愛もない噂などで映像を作ってしまうようである。千代は、そう云う事を見抜いていたようである。
人々は、奥州産の駿馬を手に入れた、ことに驚いたのではない。
「黄金十枚」に、衝撃を受けたのである。
この時代の人は、黄金という希少な金属に対して夢のようなあこがれを抱いていた。
黄金十枚、という噂を聞いただけで、織田家の家中の者は伊右衛門が英雄に見えたのであろう。
「伊右衛門は、二千石の身上で三千石の身代相応の兵を養い、尚かつそれ程の財貨を持っていたのか」
非凡、と云う印象を人々にあたえた。
それがやがて、内儀が持っていたらしい。と言い伝わったとき、噂はいっそう感動的なものになった。
「伊右衛門殿は、良い妻女を持たれている」
そう云う噂ほど、山内家の奥行きの深さを印象させるものはない。
娯楽の少ない頃だから、他人の噂が、劇、小説などの役目を果たしている。
この、山内一豊夫妻の話しは、当時はおろか、今日まで人に知られ、戦前は小学校の国定教科書にまで載った。
千代は、馬などよりも、その「噂」を黄金十枚で買ったと言っていい。馬は死ぬが、噂は死なないのである。
伊右衛門を、一躍天下の名士とさせた信長の馬揃え(観兵式)が京で行われたのは、天正九年二月二十八日であった。
信長はまだ天下の中原を押さえたのみであるにせよ、官位は鎌倉幕府創設者右大将源頼朝を超える大臣までに登っている。
もはや、天下は織田家のものぞ。
と云う被征服大名への示威と、天下最大の軍容を誇示するには、天皇臨御の馬揃えほど効果のあるものはなかった。
馬揃えの用意をせよ。
と全軍に布告されたのは、その一月余り前の正月二十三日である。
「千代、あの馬を買って良かった。馬揃えがあるぞ」
と、伊右衛門は、躍り上がるように千代に言った。
「まあ、なんと果報な」
「いやまったく、我ら夫婦は果報者じゃ。これまで乗っていたあの古傘のようにあばらの浮き出た痩せ馬でわしが参加するとすれば、天下の物笑いになったところだ」
「こういう回り合わせになるのも、あなた様が御運の強いお生まれだからでございます」
千代が、結婚以来ずっと伊右衛門に植え付けている信仰である。千代の考えるところ、どうせ人生は禍福入り交じって縄のごとくなわれたものだ。自分は不運だとも思えるし、運が強いとも思える。いっそどちらも正しくどちらも誤りとすれば、運がつよい。と思い込む方が、明るくこの世が渡れるのではないか。明るい人間に不運は訪れ難いものだと千代は思っている。
偶然そのころ、安土の城中で信長が、御伽衆の夕庵法印老人とこの話をしていた。
「黄金十枚でもとめたと?」
信長は驚いた。
「いやいやそういうことよりも、その
山内伊右衛門とやら、ようやった。もし伊右衛門が買わなければ、その奥州のばくろうは、諸国へ行って織田家の侍の不甲斐なさを吹聴しまわったことであろう。功は、戦場の槍先だけのものではない」
「それ程の男か」
とも言い、
「その馬が見られるとは、馬揃えの日が楽しみなことよ」
とも言った。
馬揃えの当日が来た。
いやもう、京は割れるような騒ぎで、近国から見物に来る者だけで十万の数をかぞえたとか。
観兵式場は、内裏の東に作られ、観覧桟敷は、仮御殿が造営された。
仮とはいえ、屋根は檜、欄干には金銀をちりばめ、決して粗末な建物ではない。
馬揃えの行列の、諸大名の中、羽柴秀吉が過ぎて行った十騎あとに、ゆらりと山鳥芦毛の例の逸物に乗って山内伊右衛門が出て来た。
その馬の見事さに、公卿桟敷からさえ感嘆の声がどよめいた。
「おお、あれか、馬で知れるわ」
信長はひざをたたいた。
「伊右衛門の山鳥芦毛の前には、諸大名どもの馬さえずんと見劣りしてみえる」
伊右衛門の乗りざまもいつもと違って見事なものだ。馬がよいと、つい乗る姿勢さえしゃんとしてくるらしい。
「いや、今日はよき侍をみつけた。あの馬代に二百石を加増してやれ」
信長は、上機嫌だった。
つづく
千代の人生哲学である「どうせ人生は禍福入り交じって縄のごとくなわれたものだ。自分は不運だとも思えるし、運が強いとも思える。いっそどちらも正しくどちらも誤りとすれば、運がつよい。と思い込む方が、明るくこの世が渡れるのではないか。明るい人間に不運は訪れ難いものだ」と云うことを、伊右衛門にも、信じ込ませることで、前向きな生き方をコーチングしています。
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