【日没の種まく人】フィンセント・ファン・ゴッホ
おおう、何やら本当に書くことがなくなってしまいました
なので、今回もまた何やらどうでもいいことについて(^^;)
これは、太陽と月~のほうで翼が言ってたことなんですけど、実際に一度ICUのほうに物凄い巨漢の男性患者さんが入ってきたことがあって
いえ、縦幅的には本当にベッドにギチギチ☆でしたし、横幅も結構ある方だったので……たぶんあれで身長がもう三センチばかりも高かったら、どうやってベッドに寝せていたのだろう、という感じですらありました。
確か脳梗塞か何かで意識不明の、六十代くらいの方だったかなって記憶してるんですけど、透析をすることになり、お医者さんが「なんとか体重測って」とか言い出して。。。
当然看護師さんは「ええ~っ!?」みたいにめっちゃ嫌な顔してましたけど、まあこれも仕事ということで(^^;)
そこのICUは二部屋あって、ひとつの部屋にベッドがふたつ並んでいるような形だったんですけど、そのふたつのベッドの間にもうひとつ一般病棟のほうから持ってきたベッドを入れました。
んで、数人がかりでこのおじさんとおじいさんの間くらいの方を「よっこらしょお!!」と持ち上げ、そちらのベッドへ移動させることに……いえ、どうやって体重測るかっていうと、そういう「ベッドごと重さを測れる体重計」みたいのがあるんですよね。
つまり、それを据え付けたベッドの重さを先に記録しておき、次にこの患者さんを乗せた時の体重から先の分を引く=患者さんの体重、みたいな感じというか。
まあ、もしどこかに入れられそうだったら、翼と藤森看護師のこんな会話を入れようかな~なんて思わなくもなかったんですけど(笑)
翼:「こいつ、透析しなきゃなんないからさ、どうにか体重測ってくれ」
藤森:「ええ~っ!?結城先生、それ本気で言ってます?」
翼:「まあ、そう言わずに、デブ同士でちょっと頑張ってみてくれや」
藤森:「そんなこと言うんだったら先生、絶対一緒に手伝ってくださいよっ!!」
みたいな??
でも実際はわたし、透析が必要になるとなんで体重測らなきゃいけないのかとか、よくわかってません
しかもその前までわたし、透析のことを投石と思ってたくらいですからねえ(爆☆)
というのも、昔勤めてた会社に昼間は病院で透析を受けて、夕方から出勤してくるっていう方がいたんですけど、「△△くん、透析受けてくると顔色が全然違うわよね。病院行って出勤してきた日と、行ってない日とじゃ顔色が全然違うもの」みたいに、同僚の人が言ってたことがあって。
「透析を受けながら普通に働く」っていうのがどのくらい大変かっていうのを知ったのは、その時だったかもしれません。昼間は病院に行って夕方から仕事をはじめ、フルタイムで八時間以上働くって、実際相当キツイと思うんですよね
その方も、もし何かの拍子に今の仕事を首になったら、他の仕事だと同じペースで働けるかどうか……みたいな感じだったと思うし、夕方くらいからはじめられる仕事っていうのは色々あるにしても、自分の体の調子に合う仕事を見つけるっていうのはとても大変なことだと思うので(^^;)
↑の話に戻るとすると、この患者さんは確か、元気になって退院したんじゃなかったかな~と思います。いえ、体型的にインパクトのある患者さんだったので、覚えていて良さそうなもんなんですけど、実は結構記憶が曖昧だったり(苦笑)
というのも、この患者さんの脇で透析の機械が動いていたような記憶はぼんやりあるものの……そこからまた別の患者さんのイメージが思い浮かんじゃうからなんですよね
ん~と、わたしの中には「透析までした甲斐あって、元気になって良かった!!」っていう記憶の横に、なんかもうひとり別の患者さんの姿があって、その人とどっちのことだったのかが、もうよく思い出せないという(^^;)
ただ、イメージとして、お医者さんが「透析するから」って言った時に、看護師さんがものすごおおく迷惑そうな顔をしたのをなんとなく覚えてます。というのも、たったの4床とはいえ、その四つのベッドをひとりの看護師さんが見てるため、ただでさえ大変な仕事に余計なものをちょっと足されるだけでも、看護師さんにとっては迷惑極まりないことだからなんですよね
わたしも最初、ICUの仕事が看護師さんにとってどのくらい大変かって、全然わかっていませんでした(助手は一般病棟でもICUでも体位交換とか、やることにあまり変化ないので)。でもある時、割と若い看護師さんが次にICUの仕事を覚えるっていう時に「よくこんなことやってるよ」って溜息を着きながら言ってたことがあって。
それと、交通事故で「もうこの人は助からない」、「亡くなるのは時間の問題」っていう患者さんがいた時、あるベテランの看護師さんがお医者さんに文句言ってたこともありました。「どっちみち亡くなるんなら、看護師の仕事を減らすためにもICUから一般病棟に出して、安らかに息を引き取ってもらうべきだ」……言葉は違うんですけど、要約すると大体そんなような意見だったんですよね。
もちろん、↑の言葉だけだと、「え?医療者としてそれってどうなの??」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。でもこのあたりって、本当になんともいえないというか、結果から見たとすれば、確かに看護師さんのほうの意見が正しかったのかなって思うんですよね
というのも、このベテラン看護師さんの意見が通ってその患者さんはICUから一般病棟の個室に移ったんですけど、そちらに移った大体八時間後くらいにお亡くなりになったと思います。つまり、家族の方などに囲まれて、最後のお別れをする時間もあって良かったのかな、というか……。
なんにしてもわたし、ICU看護についてなんて、実際よくわかってないのですが(殴)、その病院にいた時になんとなく見聞きしたことが小説の元イメージになってる感じだと思います(^^;)
それではまた~!!
動物たちの王国【第一部】-22-
「あの、羽生先輩っ。ちょっといいですか?」
101号室から105号室までの担当になった新島弥生が、106号室から110号室まで担当の唯にそう声をかけてきた。正直なところをいって唯も重症患者ばかりが相手で忙しいのだが、新島弥生のどこか切羽詰った顔を見て、「どうしたの?」と溜息を押し殺す。
「とにかく、ちょっと一緒に来てくださいっ!!」
手を引かれ、101号室へ向かうと、不動明王の刺青を背中に入れた男が、パンツ一丁でベッドの上にあぐらをかいている。
「どうかなさったんですか、黒田さん」
唯にしては珍しく、口調も態度もどこかぞんざいにそう告げた。
「おう。そこのお嬢ちゃんによぉ、背中揉んでくれって言ったら、それは看護師の仕事じゃないなんて抜かしやがるから、それじゃオメェの上司を呼んでこいって言ってやったのよ」
「わたしは上の人間ではありませんが、そういうマッサージは確かに看護師の仕事ではありません。ですから……」
「そう堅いこと言いなさんなって。なんだったら姉ちゃんが相手でもいいんだぜ。ほら、ちょっと揉んでくれりゃあこっちは、あとは黙って大人しくしてんだからよ」
黒田真一、五十六歳とベッドの上方に記載のある男は、唯の手を引いて自分の肌に触れさせようとした。だが唯はカッとするあまり、思いきり黒田の手を振り払っていた。
「黒田さん、お酒くさいですよ。またこっそりビールか何か飲んだでしょう?」
「そうカリカリすんなって。そんなに怒ってばかりじゃせっかくのべっぴんが台無しだぜ?あーあ、まったく興醒めだ。やれやれ、煙草でも一本吸ってくっか」
黒田が病衣を着て部屋から出ていくと、隣でカーテンを閉め切っている相部屋の若い男がおそるおそるといった体で顔を出す。
「あの、僕、他の部屋に移してもらえませんか?夜中はいびきをガーガーかいてうるさいし、昼間は何やら怪しげな人たちがお見舞いに来るし……そのうち気に入らないことがあったら、僕の骨折した足に何かするんじゃないかって心配で。あの人時々、僕の吊るされてる足を見て言うんですよ。『さーて、どうしようかな、お兄ちゃん』なんて、ギプスで固定されてる足のまわりをシュッシュッてこう、ボクシングする振りをしたり……」
「ごめんなさい、榊さん。でもあの人、明日には退院する予定だから、もう少し我慢してくださいね。今は他に空いてるベッドがどこにもないものだから」
オートバイでガードレールにぶつかる事故を起こした青年は、溜息を着くとただ黙ってクリーム色のカーテンを閉めた。どうせ最初から言っても無駄なのはわかってたんだ、というように。
「新島さん、病院には色んな人が入院してくるし、中には黒田さんみたいなヤクザ屋さんもいるわ。でも怯まないで対処しなくちゃ駄目なの。変な言い方だけど、なめられないようにすることが肝心っていうか……」
「は、はい。どうもお時間を取らせてすみませんでしたっ!!」
そう素直に頭を下げられてしまうと、唯としてももう何も言えなかった。どうしてなのだろう、黒田の言い種ではないが、自分は今日少しカリカリしていると唯は思った。そしていつも通り物言わぬ患者の相手をしながら――それが何故だったのかに思い当たる。
『なあ、俺たちもうつきあいはじめて一年にもなるんだから、そろそろいいだろ?』
そうしたおかしな気配を、湊慎之介から感じはじめて、一体どのくらいになるだろうと唯は思う。最初のうちはどうにか誤魔化し、「そういうことは結婚してからじゃないと……」と唯は言いさえした。すると、「じゃあ結婚しよう。なるべく早く」と彼は言った。けれど唯は仕事が充実していて楽しいし、結婚など二三年か五六年先の話であるようにしか考えられなかった。
この間の休日も、そんなくだらない話で険悪な雰囲気になり――唯は最近、彼と別れることを考えている自分に気づいていた。
(むしろ、マッサージくらいで済む話だったら良かったのに)
そう思い、担当が同じ病室になった三枝美穂子の前で溜息を着いてしまう。
「どうしたの、唯ちゃん。なんだか今日は朝から疲れてるみたい」
「ううん、なんだか美穂ちゃんが羨ましいなと思って。わたし、べつに彼氏なんていなくていいから、美穂ちゃんみたいに看護師として自立した生活がしたいだけなのに」
「あら、彼氏と何かあったの?」
こんなふうに、意識不明の患者の体を清拭したりオムツ交換したりする間――声かけ以外で看護師同士がプライヴェートな話をするのはよくあることだった。
「何かっていうか……ようするに倦怠期?わたし、どうしてこの人とつきあってるんだっけっていうか、何かそんな感じ」
そこまで自分で言ってみて、唯は不意に思いだす。湊慎之介が救急部でつらかった時、えんえんと辛抱強く自分の話を聞いてくれたということを。だがそんな時期はとっくに過ぎてしまい、唯はもう彼の力を必要としておらず、むしろ最近では相手の欠点のほうが目立つようになっていた。
「そうねえ。でもまあ、唯ちゃんの場合今の彼氏さんと別れたなんてみんなにわかったら、なんだか大変そうね」
「どうして?」
この日は病衣とシーツ交換の曜日に当たっていたので、ふたりは患者の体に負担をかけぬよう、口は動かしながらも手早く作業していった。患者の体を右側にしている間、美穂子が反対側のシーツなどを整え、今度は患者に左向きになってもらい、唯が手前側にシーツや病衣を引っ張りだす。
「堺先生もそうだけど、研修医の先生とか、唯ちゃんのこと「ちょっといいな」って思ってるんじゃない?だから恋人と別れたなんてわかったら、ちょっとした喧嘩になっちゃうかもね」
「美穂ちゃん、絶対面白がってない?他のみんなもだけど……」
三枝美穂子はスラッとした長身の美人だった。仕事もテキパキ出来、性格も温厚で患者に親切だった。唯としては彼女のような人こそがモテて当たり前との思いが前からあるので、医師の中のひとりかふたりが何故無意味に時々まわりをうろつくのか、よくわからずにいたほどだった。
「ようするに、わたしが相手なら大して恥をかかないで済むってことよね。美穂ちゃんみたいな美人は高嶺の花だけど、わたし程度ならまあいいか、みたいな……」
「あら、理由なんか別にどうだっていいじゃない。まあわたしも、堺先生あたりは優柔不断のマザコンでちょっとどうかなって思うけど、お医者さんと結婚って素敵よ。それに先生たちの多くが真面目で仕事が忙しいから、浮気する可能性が低そうなところもポイントかもね」
「そうかしら。結城先生はその部類に入らない気がするけど」
ベッドの端にシーツを押し入れながら、唯は結城医師のことを思った。途端、彼がやがて救急部を去っていくということを思いだし、暗澹たる気持ちになる。
「まあ、結城先生は特別中の特別よね。それにわたしが今と同じような話をしたら、笑われちゃったわ。『三枝、おまえはなんにもわかってないな。男っていうのは浮気するとなったら、どんなに時間がなくても、あるいはどんな手段を使ってでも相手の女のところへ行くもんだ』ですって」
「結城先生らしい」
ふたりはくすくす笑いあい、次の患者の体位交換及びシーツ交換などに取り掛かる。寝たきりの患者や、自分の意志で動けぬ患者の世話は大変だが、気の合う同僚とペアが組めた日には、仕事を十分楽しみながら終えることが出来る。
唯はこの日、研修医の綾瀬を含めた三名の医師が欠勤したことで――翼が兵士宿舎でずっと待機していると知り、昼休みにそちらへ顔をだすことにした。結城医師が救急部を去ることについては、鈴村はその理由を聞いて知っているらしいのだが、彼女はフィリップモリスが云々といった話をみなにするわけにもいかず、そのことについては曖昧に黙秘していた。だが唯としてはこの時、研修医たちが今日のようにボイコットすることが、翼の心労をさらに深めているのではないかと思われ、やはり一度きちんと話がしたいと思ったのである。
唯が小さくノックして兵士宿舎の片方を訪ねると、そこにいた四人の医師たちは一様に驚いた顔をしていた。
「あの、結城先生いますか?」
藤井が何度か咳き込んでから、少し裏返った声で言う。
「結城先生なら、外に煙草を吸いにいったよ」
「そうですか。ありがとうございます」
唯は礼儀正しくお辞儀してドアを閉めると、靴を履きかえ、金属製の重い扉のロックを解除し、裏口から外へ出た。
するとそこから建物の角を曲がったところに、結城医師がどこかぼんやりした顔をして煙草を吸う姿が見える。
「あの、先生……」
翼は唯の姿に気づくと、軽くこちらに目線をくれたが、また不機嫌そうな顔をして大学の旧校舎あたりに視線を戻している。
(無理ないわよね)と、唯は思った。(わたしだって、夜勤が明けたあとにこのまま日勤やってくれって言われたら……眉間に皺を寄せる程度じゃ済まないもの)
「前にも聞いたんですけど、どうして病院、辞めちゃうんですか?」
「おまえには関係ねえこったろうと言いたいところだがな、それを知ったところで唯、おまえは一体どうする?」
「どうって……その、なんていうかそのことではみんな不思議がってて。鈴村主任は先生から理由を聞かれたらしいんですけど、「個人的なことだから、わたしもなんて言ったらいいかわからない」って。でも、先生が退職される理由は、わたしたち看護師全員が「結城先生やめないで!!」って涙ながらに頼んでも、やっぱり無理なこと……なん、ですよね……」
久しぶりにギロリと翼から容赦なく睨まれて、唯は思わず彼の隣で小さくなった。もちろん唯にはわからなかっただろう、翼は睡眠不足になるとそのストレスから女性と寝たくなるなどということは。
「唯、そこに一本の栗の樹が立ってるだろ?」
「ああ、はい……」
栗の樹、などと言われても、秋になって栗の実が落ちてきた頃にはそうと気づくが、今時期は緑の葉を茂らせる他の多くの樹木と、唯はあまり見分けがつかない気がした。
「で、秋になるとコイツが実をみのらせて地面にそれを落っことす……あるものは人に踏みつけられ、あるものは清掃員のおばちゃんたちに枯葉とないまぜにされて捨てられる。で、結局そこからまたもう一本のクリの大木が育つっていうのは、なかなか難しいことなわけだ。つまり、俺がやってるのはそういうことだなって思ったわけ。唯一、大木になりそうなのは栢山くらいのもんかな。それでも、そういうものをひとつでも見届けられたっていうことが、俺の退職の理由」
「…………………」
翼はこの話をあくまで<羽生唯向け>の話として、彼女が納得するよう適当にでっち上げただけである。そうでもしないと、また何度でも「どうして」という眼差しでこちらを見上げてくるだろうからだ。
「じゃあ先生は、次から次へと栗の樹が育っていったら、辞めるつもりはなかったっていうことですか?」
「さあな。これだけ次から次へと巨木が育ってきたから、俺の役目はもうしまいだって思ったかもしれないし、なんにしても俺の中ではそういう形で区切りがついたわけ。唯、おまえのこともな」
ここで自分の名前が出て、唯自身もドキッとする。
「ここにおまえが来た時、『まあ、こいつは絶対続かねえだろう』と俺は思った。俺はこの種の人間的勘を外したってことがあんまりねえから、リンリンさんや峰岸さんがなんでおまえを可愛がるのかがよくわかんなかった。研修医どもについてもな、『こいつは少ししこめば使いもんになりそうだ』とか『いい医者になりそうだ』って奴のことは大抵すぐわかる。けど、唯一おまえだけだな。自分の勘がここまで外れたっていうのは」
「あの、わたし、本当にそのことについてはなんて言ったらいいか……」
唯は翼の言葉の中にではなく、彼の眼差しや態度の中に「これまでよく頑張ってきたな」という温かい感情と優しさを認め、胸が熱くなった。そして言うとしたらもう今しかないと思い、途切れ途切れに言葉を継いだ。
「わたしは結城先生みたいに頭の回転があまり速くないから……自分の思ってることをうまくまとめて口にするまでに、少し時間がかかるんです。でも、結城先生には本当にすごく感謝してます。 それはきっと一緒に救急部に配属になった蜷川さんもそうで……前に、外科病棟から手術室まで患者さんを搬送してる彼女と会ったんですけど、彼女まるで別人みたいに笑ってました。そしてその時にはっきりわかったんです。わたしが少しずつだけど、看護師として成長したみたいに、蜷川さんも同じく<何か>を掴んだんだなっていうことが……あの、わたしや蜷川さんだけじゃなく、他の看護師もみんなそうだと思います。なんていうか、結城先生が蒔いた種は、きちんと人の心に届いて根を張って、芽を出しているんじゃないかなって……もしかしたら先生は、今もそうですけど、『俺がこんなしゃかりきになって頑張ることに、何か意味なんかあるのか』って虚しくなったりするのかもしれないけど、でも……」
「馬鹿。こんなくだらないことでいちいち泣くな」
ハンカチなどという気の利いたものを持っていない翼は、白衣の袖で唯の瞳の端を拭った。
「すみません。でも、お願いですから最後まで言わせてください。こんな恥かしいこと……こんな時でもなかったら、もう二度と言えないと思いますから」
唯はそう言って手のひらで涙を拭った。そんな彼女の顔の表情を見ていると、翼としても切ない想いがこみあげる。つい先日も、鈴村にこう言われたばかりだった。『あんたが救急部にいてくれることで、わたしや他の看護師がどれだけ救われたか、心強かったか、助かったか、あんたが思ってる以上にそうなのよ』と……。
「わたし、去年の今時期は今以上に弱虫で泣き虫でした。結城先生さえいなかったら、他の先生とはそれなりにまあまあの関係だし、先輩の看護師たちも仕事に関しては聞けばものを教えてくれるっていう感じなのに……結城先生さえいなかったらってずっとそう思ってました。でもわたし、本当に……結城先生に厳しくしてもらえて良かったです。そのせいでもっと頑張ろう、看護師として成長して見返してやろうとも思えたし、考えてみたらわたし、そんなふうに人と正面からぶつかったっていう経験が、これまで一度もなくて。だから本当に結城先生はわたしにとってすべてが初めての人でした」
(初めてっておまえな)と、いつもの翼ならばとっくに茶化しているところである。だが今ではよくわかっていた。彼女が一途で真面目で、天然ボケの利いた性格であるということは。
「それで、まだ先生がとても厳しかった頃のことなんですけど……厳しいって言っても、わたしが仕事出来ないのがいけないんですけど、とにかくそういう時に、ふと気づいたことがあるんです。日勤の夕暮れ時に病室の窓から夕焼けが綺麗に見えたりして、その輝きが、本当にとても身に染み入るように綺麗で……それと、夜勤明けにアパートまで帰る道すがら、道端に花が咲いてたり、プラタナスの樹が風にさやさや揺れてるのを見るだけでも、すごく心が癒されるんです。あ、わたし今生きてるっていう感じで……朝、水たまりに白い雲や青い空が映ってるのを見るだけでも、今日も一日がんばろうって思ったり。あの、先生はこいつ一体何言ってるんだ、要点を早く言えって思うかもしれませんけど……」
「いや、おまえの言いたいことはなんとなくわかる」
翼は短くなった煙草を地面に捨てると、それを靴の裏で揉み消し――黙って唯の話を真面目に聞くことにした。
「その、なんていうか……わたしが先生に一番感謝してるのはそのことなんです。もちろん、仕事のことでは数え切れないくらい一杯お世話になって、色々なことを教えてもらいました。でもそれ以上に、先生が救急部にいてわたしに厳しくしてくださることで、ある時から世界は本当はこんなに綺麗で美しいっていうことに気づいたんです。わたしが初めて、結城先生に叱られるでもなく、みんなの中にうまく混ざって仕事が出来た時……体は疲れていても、心の中は晴れがましい気持ちで一杯でした。そしてその夜勤明けの日、帰り道では虹が出ていました。だからわたし、これからもきっと、空に虹が出ていたら、結城先生のことを思い出すと思います。こんなことは全部、わたしひとりの勝手な思いで、先生にとってはどうでもいいことかもしれなくても……」
唯がくしゃくしゃの顔をして、大粒の涙をこぼしはじめるのを見て、翼も胸が痛くなった。果たしてこの娘は、自分が愛の告白をしているにも等しいことに、気づいているのだろうかとさえ思う。
「唯、ほら、こっち向け」
そう言って翼は泣きじゃくる唯のことを振り向かせると、白衣の胸の中に彼女のことを抱いた。すると驚いたことには唯のほうでも、しっかりと翼の背中を震える手で抱き返してきたのである。
「おまえ、今からそんなことでどうする?俺は辞めるなんて言ってもな、最低でもあと二三か月は救急部にいることになるだろうし……そういうことは俺が辞めるギリギリくらいまで取っておけ。それに、俺にとってもおまえは全然どうでもいいような存在じゃない。実際、おまえは俺に睨まれながらもよく頑張ったよ。普通の人間ならとっくに辞めてるって時にも踏ん張ったし、俺が理不尽なくらいおまえにつらく当たったってことも事実だ。でも今――「辞める前に一言いっておきますけど、先生はあの時間違ってましたよね。あやまってください」っていうんじゃなく、おまえにそんなふうに言ってもらえて、俺は素直に嬉しいと思う。俺はこういうことを他の人間にはあまり言わないがな、おまえの場合は二年目にして、すでに看護師になって三年か四年ってくらいの力量が身についてるよ。だからこれからも頑張れ。おまえは他の人間よりも不器用で、これからも損をするだろうけど、それもまたリンリンさんや俺みたいに、わかる奴にはわかってて、大切にしてもらえる重要な資質だと思うんだぞ。わかったな?」
「はい……!!」
唯は翼の白衣の胸の中で体を震わせると、そのまま暫くの間泣きじゃくっていた。もちろん、翼としてもこういうのは嬉しい反面とても困るのだ。今言ったばかりのように、自分はあと二三か月は救急部にいることになるだろうし、その三か月ほどの期間の間に、何が起こるかなどわからないのだから……。
「大丈夫か、唯。おまえ、そろそろ昼休み終わりだろ?化粧直ししてる時間はもうないぞ」
翼は最後に腕時計を見て、そんなふうに茶化して言った。もちろん彼にはよくわかっている。唯はもともと化粧が薄いほうなので、化粧を直しても直さなくても、大して変わりがないだろうということは。
「どうでもいいんです、そんなこと」
唯はそう言って、翼の体からそっと離れた。そして何故あんなにも藤森奈々枝が「結城先生は顔よりも上腕二等筋!!」と言うのかがわかった気がして――体が火照るのと同時に少しおかしくなった。
「どうした、何がおかしい?」
「あの、奈々ちゃんがいつも、結城先生は顔よりも上腕二等筋がいいって言ってた意味が、なんとなくわかった気がして……わたし、今度彼女にそう言われたら、結城先生の上腕二等筋に一票入れておくことにしようと思います」
「ああ。ブルワーカーで毎日こっそり鍛えてるからな」
翼と唯は最後にそう笑いあって、一緒に院内へ戻っていった。夜勤のあとそのまま兵士宿舎で待機し、何かあった時にはすぐ出ていくことになっているが、そんな拘束時間の長さのことも、翼にはもうどうでもいいことだった。
羽生唯が持つこうした一種の清々しさや優しさ、純真な人間性……そうしたものが透けて見えるからこそ、彼女は男たちの間で名前が上がるのだろうと、翼は初めてわかった気がした。
兵士宿舎へ戻ると、他の医師や研修医たちが患者のことであれやこれや翼に報告し、また質問された治療上の疑問点についてアドバイスすると、翼はもう一度、兵士宿舎でごろりと横になる。何分夜には救急外来が忙しくなるとわかっているので、寝られる時にある程度寝溜めしておきたかったのである。
(そうか。実はあいつは典型的なダメんずって奴なんだな)
先ほど羽生唯との間で起きたことが、もし病院の敷地内でのことでなかったら、自分は彼女のことを決して離さなかったろうと翼は思った。いや、仮に病院内で起きたことであったとしてもいい。それが誰に見られる心配のない、プライヴェートな空間でさえあってくれれば……。
だがそれと同時に翼は、これで良かったのだというふうに思いもした。あんなに綺麗で美しいものを、自分の手で汚したりするようなことにならなくて良かったと。
(けどなあ、そうなると……あいつのことを狙ってるのは藤井と吉田、それに本郷あたりだったか?綾瀬の奴に関していえば、自分と同じ研修医どもの目が唯に向かってるのを見て、鳶に油揚げよろしく横からかっさらいたくなったってとこか。あの脳タリンのバカのことは放っておくにしても、唯のことを「いいな」と思う連中には、ある一定の特徴があるんだよな。堺と三井、それに岡田もそうだったが、優柔不断で草食系な奴らばっかだ。藤井は軽く肉食系なんだが、人間としてまだ未熟だし、吉田と本郷は生まれた時から上質な草しか食ったことないっていうような、山羊か羊のお坊ちゃんだものな。ようするに、羽生さんなら患者にいつもそうしてるみたいに、自分たちの駄目なところを包みこみ、優しく癒してくれるだろう……あいつらはそんな寝ぼけたことを考えてるんだろうか?)
当然のことながら、唯には一応恋人がいるために、翼は自分の気持ちを抑えねばならないと心得ている。あれほど純真な眼差しで見上げられ、「男としてではなく、人間として医師として」100%尊敬しています――といった告白を受けたあと、それをすっかり勘違いしたといったような行動は取れない。
だがやはり翼としては、羽生唯があの糖尿持ちとしか思えない体型の男と休日ごとに手を握ったりキスをしたり、またそれ以上の関係に及んでいるなどとは、あまり想像したくないことだった。
(あんな男より、俺のほうがよほど……)と、そう思う反面、「あんな男」でも愛せる羽生唯に対し、ある意味尊敬の念を持ちもするのだった。
「やれやれ。こんなことばっかり考えてたら、眠れやしねえ」
翼がそう思い、先ほどあった羽生唯との<清らかな抱擁>の記憶を頭から振り落とそうとしていると――兵士宿舎の木目が浮かんだドアを誰かが乱暴に開く。
「結城先生!ミイラ男が目を覚ましましたよ!!」
藤井聖也が大声で叫ぶのを聞いた翼は、すぐにICU病棟のほうへ駆けつけた。ミイラ男というのは先日あったヤクザ者同士の喧嘩で、意識不明になった男のほうにつけられた仇名である。
というのもこの男、名前など、身分のわかるものを何ひとつ携帯しておらず、警察のほうで身元を調査してもらっている最中だったからだ。そして、片目以外の顔の大部分が包帯かガーゼで覆われ、ミイラのようだったことから――葛城医師が「ミイラ男」と名づけたのだった(翼の聞いたところによると、正確には「ドラクエⅢのピラミッドで、僕はミイラ男に囲まれて死んだことがあるんだよね。こいつもそのうち、まわりこまなきゃいいけど」とのことであった)。
果たして、ミイラ男にはまだまわりこめるほどの力は戻ってきていなかったが、彼が治療の甲斐あって、意識を取り戻したのは喜ばしいことであるように、この時医師や看護師の誰もが思っていた。ところがこのミイラ男、その後病状が落ち着いて体力も順調に回復していったものの――抜管後に話を聞いてみると、「記憶がない」ということがわかったのであった。
「あれはまあ、確かに演技ではないな」
翼は一応、(そうかもしれない)という可能性だけは常に念頭において名なしのミイラと対話していたのだったが、精神科ERの保科部長が診断したとおり、間違いなく全生活史健忘症のようであった。
男は自分の名前すら思いだせず、当然喧嘩した夜のこともその相手のことも記憶になかった。また実に気弱な様子でしくしくと泣き、夜になると「これから俺はどうしたらいいんでしょう、看護師さん」などと、不安ばかり口にするのだった。
以来、黒田のようなヤクザ者と同格のチンピラミイラという彼の身分は変わり、看護師などは特に彼に対して同情的ですらあった。ところがこの、のちに原田喜久雄という名であることがわかる三十七歳の男は、一度記憶を取り戻すなり、黒田真一が可愛く思えるほどの厄介な患者に豹変することになる。
――事の経緯はこうであった。
頭の包帯も外れ、顔の傷もどうにか治癒しつつあった原田は、歯の治療のために医大内にある歯科へ向かい、まずは歯の型を取ってもらうことになっていた。そして再び救急部の101号室へ戻ろうとした時のことである。
黒田は救急部へ搬送された時に受けた血液検査で、数値の異常がいくつか見つかっていた。特に肝臓に異常があるのではないかと見受けられ、その後医大内の内科でさらに詳しい検査を受けることになっていたのである。
内科で肝硬変であると言われた時、黒田はショックを受けた。というのも、医師の説明によればこの肝硬変がいずれ肝臓ガンへ進行していく可能性が高いと言われたからである。そして寿命を出来るだけ伸ばしたいのであれば、今日から即刻飲酒は禁止と宣告されていた。
だが、それにも関わらずこのまま酒を飲み続けた場合どうなるか……その死へと至る道を説明され、黒田が呆然としたままでいた時、二階からエスカレーターで降りてくるこの男のことを、原田は何気なく見かけたのであった。
途端、原田の頭の中でばらばらになっていた記憶のピースが瞬時に繋がったらしく――次の瞬間に原田は「待て、この野郎!!」と、精算所へ向かう黒田のことを追いかけていた。
黒田はまず背骨に蹴りを食らい、その拍子に床へ倒れて前歯を折った。それからこれでもかというくらい、頭部にダメージを加えられ、血まみれの顔で気を失った。
まわりで目撃していた者は誰も、すっかりわけがわからなかったという。
医大の薄いグリーンの病衣を着た体の細い男が、体格のいい中年男を罵倒しながら殴る蹴るの暴行を行う姿を呆然と見つめ――病院の職員が数人がかりで止めに入った時、黒田はすでに虫の息であったという。
そして救急部に再び黒田が搬送されてくると、藤井などは意識不明状態の彼を見て、冷静にこう言ってのけたものである。
「こんな奴、助けて一体なんになります、結城先生?」
>>続く。
おおう、何やら本当に書くことがなくなってしまいました
なので、今回もまた何やらどうでもいいことについて(^^;)
これは、太陽と月~のほうで翼が言ってたことなんですけど、実際に一度ICUのほうに物凄い巨漢の男性患者さんが入ってきたことがあって
いえ、縦幅的には本当にベッドにギチギチ☆でしたし、横幅も結構ある方だったので……たぶんあれで身長がもう三センチばかりも高かったら、どうやってベッドに寝せていたのだろう、という感じですらありました。
確か脳梗塞か何かで意識不明の、六十代くらいの方だったかなって記憶してるんですけど、透析をすることになり、お医者さんが「なんとか体重測って」とか言い出して。。。
当然看護師さんは「ええ~っ!?」みたいにめっちゃ嫌な顔してましたけど、まあこれも仕事ということで(^^;)
そこのICUは二部屋あって、ひとつの部屋にベッドがふたつ並んでいるような形だったんですけど、そのふたつのベッドの間にもうひとつ一般病棟のほうから持ってきたベッドを入れました。
んで、数人がかりでこのおじさんとおじいさんの間くらいの方を「よっこらしょお!!」と持ち上げ、そちらのベッドへ移動させることに……いえ、どうやって体重測るかっていうと、そういう「ベッドごと重さを測れる体重計」みたいのがあるんですよね。
つまり、それを据え付けたベッドの重さを先に記録しておき、次にこの患者さんを乗せた時の体重から先の分を引く=患者さんの体重、みたいな感じというか。
まあ、もしどこかに入れられそうだったら、翼と藤森看護師のこんな会話を入れようかな~なんて思わなくもなかったんですけど(笑)
翼:「こいつ、透析しなきゃなんないからさ、どうにか体重測ってくれ」
藤森:「ええ~っ!?結城先生、それ本気で言ってます?」
翼:「まあ、そう言わずに、デブ同士でちょっと頑張ってみてくれや」
藤森:「そんなこと言うんだったら先生、絶対一緒に手伝ってくださいよっ!!」
みたいな??
でも実際はわたし、透析が必要になるとなんで体重測らなきゃいけないのかとか、よくわかってません
しかもその前までわたし、透析のことを投石と思ってたくらいですからねえ(爆☆)
というのも、昔勤めてた会社に昼間は病院で透析を受けて、夕方から出勤してくるっていう方がいたんですけど、「△△くん、透析受けてくると顔色が全然違うわよね。病院行って出勤してきた日と、行ってない日とじゃ顔色が全然違うもの」みたいに、同僚の人が言ってたことがあって。
「透析を受けながら普通に働く」っていうのがどのくらい大変かっていうのを知ったのは、その時だったかもしれません。昼間は病院に行って夕方から仕事をはじめ、フルタイムで八時間以上働くって、実際相当キツイと思うんですよね
その方も、もし何かの拍子に今の仕事を首になったら、他の仕事だと同じペースで働けるかどうか……みたいな感じだったと思うし、夕方くらいからはじめられる仕事っていうのは色々あるにしても、自分の体の調子に合う仕事を見つけるっていうのはとても大変なことだと思うので(^^;)
↑の話に戻るとすると、この患者さんは確か、元気になって退院したんじゃなかったかな~と思います。いえ、体型的にインパクトのある患者さんだったので、覚えていて良さそうなもんなんですけど、実は結構記憶が曖昧だったり(苦笑)
というのも、この患者さんの脇で透析の機械が動いていたような記憶はぼんやりあるものの……そこからまた別の患者さんのイメージが思い浮かんじゃうからなんですよね
ん~と、わたしの中には「透析までした甲斐あって、元気になって良かった!!」っていう記憶の横に、なんかもうひとり別の患者さんの姿があって、その人とどっちのことだったのかが、もうよく思い出せないという(^^;)
ただ、イメージとして、お医者さんが「透析するから」って言った時に、看護師さんがものすごおおく迷惑そうな顔をしたのをなんとなく覚えてます。というのも、たったの4床とはいえ、その四つのベッドをひとりの看護師さんが見てるため、ただでさえ大変な仕事に余計なものをちょっと足されるだけでも、看護師さんにとっては迷惑極まりないことだからなんですよね
わたしも最初、ICUの仕事が看護師さんにとってどのくらい大変かって、全然わかっていませんでした(助手は一般病棟でもICUでも体位交換とか、やることにあまり変化ないので)。でもある時、割と若い看護師さんが次にICUの仕事を覚えるっていう時に「よくこんなことやってるよ」って溜息を着きながら言ってたことがあって。
それと、交通事故で「もうこの人は助からない」、「亡くなるのは時間の問題」っていう患者さんがいた時、あるベテランの看護師さんがお医者さんに文句言ってたこともありました。「どっちみち亡くなるんなら、看護師の仕事を減らすためにもICUから一般病棟に出して、安らかに息を引き取ってもらうべきだ」……言葉は違うんですけど、要約すると大体そんなような意見だったんですよね。
もちろん、↑の言葉だけだと、「え?医療者としてそれってどうなの??」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。でもこのあたりって、本当になんともいえないというか、結果から見たとすれば、確かに看護師さんのほうの意見が正しかったのかなって思うんですよね
というのも、このベテラン看護師さんの意見が通ってその患者さんはICUから一般病棟の個室に移ったんですけど、そちらに移った大体八時間後くらいにお亡くなりになったと思います。つまり、家族の方などに囲まれて、最後のお別れをする時間もあって良かったのかな、というか……。
なんにしてもわたし、ICU看護についてなんて、実際よくわかってないのですが(殴)、その病院にいた時になんとなく見聞きしたことが小説の元イメージになってる感じだと思います(^^;)
それではまた~!!
動物たちの王国【第一部】-22-
「あの、羽生先輩っ。ちょっといいですか?」
101号室から105号室までの担当になった新島弥生が、106号室から110号室まで担当の唯にそう声をかけてきた。正直なところをいって唯も重症患者ばかりが相手で忙しいのだが、新島弥生のどこか切羽詰った顔を見て、「どうしたの?」と溜息を押し殺す。
「とにかく、ちょっと一緒に来てくださいっ!!」
手を引かれ、101号室へ向かうと、不動明王の刺青を背中に入れた男が、パンツ一丁でベッドの上にあぐらをかいている。
「どうかなさったんですか、黒田さん」
唯にしては珍しく、口調も態度もどこかぞんざいにそう告げた。
「おう。そこのお嬢ちゃんによぉ、背中揉んでくれって言ったら、それは看護師の仕事じゃないなんて抜かしやがるから、それじゃオメェの上司を呼んでこいって言ってやったのよ」
「わたしは上の人間ではありませんが、そういうマッサージは確かに看護師の仕事ではありません。ですから……」
「そう堅いこと言いなさんなって。なんだったら姉ちゃんが相手でもいいんだぜ。ほら、ちょっと揉んでくれりゃあこっちは、あとは黙って大人しくしてんだからよ」
黒田真一、五十六歳とベッドの上方に記載のある男は、唯の手を引いて自分の肌に触れさせようとした。だが唯はカッとするあまり、思いきり黒田の手を振り払っていた。
「黒田さん、お酒くさいですよ。またこっそりビールか何か飲んだでしょう?」
「そうカリカリすんなって。そんなに怒ってばかりじゃせっかくのべっぴんが台無しだぜ?あーあ、まったく興醒めだ。やれやれ、煙草でも一本吸ってくっか」
黒田が病衣を着て部屋から出ていくと、隣でカーテンを閉め切っている相部屋の若い男がおそるおそるといった体で顔を出す。
「あの、僕、他の部屋に移してもらえませんか?夜中はいびきをガーガーかいてうるさいし、昼間は何やら怪しげな人たちがお見舞いに来るし……そのうち気に入らないことがあったら、僕の骨折した足に何かするんじゃないかって心配で。あの人時々、僕の吊るされてる足を見て言うんですよ。『さーて、どうしようかな、お兄ちゃん』なんて、ギプスで固定されてる足のまわりをシュッシュッてこう、ボクシングする振りをしたり……」
「ごめんなさい、榊さん。でもあの人、明日には退院する予定だから、もう少し我慢してくださいね。今は他に空いてるベッドがどこにもないものだから」
オートバイでガードレールにぶつかる事故を起こした青年は、溜息を着くとただ黙ってクリーム色のカーテンを閉めた。どうせ最初から言っても無駄なのはわかってたんだ、というように。
「新島さん、病院には色んな人が入院してくるし、中には黒田さんみたいなヤクザ屋さんもいるわ。でも怯まないで対処しなくちゃ駄目なの。変な言い方だけど、なめられないようにすることが肝心っていうか……」
「は、はい。どうもお時間を取らせてすみませんでしたっ!!」
そう素直に頭を下げられてしまうと、唯としてももう何も言えなかった。どうしてなのだろう、黒田の言い種ではないが、自分は今日少しカリカリしていると唯は思った。そしていつも通り物言わぬ患者の相手をしながら――それが何故だったのかに思い当たる。
『なあ、俺たちもうつきあいはじめて一年にもなるんだから、そろそろいいだろ?』
そうしたおかしな気配を、湊慎之介から感じはじめて、一体どのくらいになるだろうと唯は思う。最初のうちはどうにか誤魔化し、「そういうことは結婚してからじゃないと……」と唯は言いさえした。すると、「じゃあ結婚しよう。なるべく早く」と彼は言った。けれど唯は仕事が充実していて楽しいし、結婚など二三年か五六年先の話であるようにしか考えられなかった。
この間の休日も、そんなくだらない話で険悪な雰囲気になり――唯は最近、彼と別れることを考えている自分に気づいていた。
(むしろ、マッサージくらいで済む話だったら良かったのに)
そう思い、担当が同じ病室になった三枝美穂子の前で溜息を着いてしまう。
「どうしたの、唯ちゃん。なんだか今日は朝から疲れてるみたい」
「ううん、なんだか美穂ちゃんが羨ましいなと思って。わたし、べつに彼氏なんていなくていいから、美穂ちゃんみたいに看護師として自立した生活がしたいだけなのに」
「あら、彼氏と何かあったの?」
こんなふうに、意識不明の患者の体を清拭したりオムツ交換したりする間――声かけ以外で看護師同士がプライヴェートな話をするのはよくあることだった。
「何かっていうか……ようするに倦怠期?わたし、どうしてこの人とつきあってるんだっけっていうか、何かそんな感じ」
そこまで自分で言ってみて、唯は不意に思いだす。湊慎之介が救急部でつらかった時、えんえんと辛抱強く自分の話を聞いてくれたということを。だがそんな時期はとっくに過ぎてしまい、唯はもう彼の力を必要としておらず、むしろ最近では相手の欠点のほうが目立つようになっていた。
「そうねえ。でもまあ、唯ちゃんの場合今の彼氏さんと別れたなんてみんなにわかったら、なんだか大変そうね」
「どうして?」
この日は病衣とシーツ交換の曜日に当たっていたので、ふたりは患者の体に負担をかけぬよう、口は動かしながらも手早く作業していった。患者の体を右側にしている間、美穂子が反対側のシーツなどを整え、今度は患者に左向きになってもらい、唯が手前側にシーツや病衣を引っ張りだす。
「堺先生もそうだけど、研修医の先生とか、唯ちゃんのこと「ちょっといいな」って思ってるんじゃない?だから恋人と別れたなんてわかったら、ちょっとした喧嘩になっちゃうかもね」
「美穂ちゃん、絶対面白がってない?他のみんなもだけど……」
三枝美穂子はスラッとした長身の美人だった。仕事もテキパキ出来、性格も温厚で患者に親切だった。唯としては彼女のような人こそがモテて当たり前との思いが前からあるので、医師の中のひとりかふたりが何故無意味に時々まわりをうろつくのか、よくわからずにいたほどだった。
「ようするに、わたしが相手なら大して恥をかかないで済むってことよね。美穂ちゃんみたいな美人は高嶺の花だけど、わたし程度ならまあいいか、みたいな……」
「あら、理由なんか別にどうだっていいじゃない。まあわたしも、堺先生あたりは優柔不断のマザコンでちょっとどうかなって思うけど、お医者さんと結婚って素敵よ。それに先生たちの多くが真面目で仕事が忙しいから、浮気する可能性が低そうなところもポイントかもね」
「そうかしら。結城先生はその部類に入らない気がするけど」
ベッドの端にシーツを押し入れながら、唯は結城医師のことを思った。途端、彼がやがて救急部を去っていくということを思いだし、暗澹たる気持ちになる。
「まあ、結城先生は特別中の特別よね。それにわたしが今と同じような話をしたら、笑われちゃったわ。『三枝、おまえはなんにもわかってないな。男っていうのは浮気するとなったら、どんなに時間がなくても、あるいはどんな手段を使ってでも相手の女のところへ行くもんだ』ですって」
「結城先生らしい」
ふたりはくすくす笑いあい、次の患者の体位交換及びシーツ交換などに取り掛かる。寝たきりの患者や、自分の意志で動けぬ患者の世話は大変だが、気の合う同僚とペアが組めた日には、仕事を十分楽しみながら終えることが出来る。
唯はこの日、研修医の綾瀬を含めた三名の医師が欠勤したことで――翼が兵士宿舎でずっと待機していると知り、昼休みにそちらへ顔をだすことにした。結城医師が救急部を去ることについては、鈴村はその理由を聞いて知っているらしいのだが、彼女はフィリップモリスが云々といった話をみなにするわけにもいかず、そのことについては曖昧に黙秘していた。だが唯としてはこの時、研修医たちが今日のようにボイコットすることが、翼の心労をさらに深めているのではないかと思われ、やはり一度きちんと話がしたいと思ったのである。
唯が小さくノックして兵士宿舎の片方を訪ねると、そこにいた四人の医師たちは一様に驚いた顔をしていた。
「あの、結城先生いますか?」
藤井が何度か咳き込んでから、少し裏返った声で言う。
「結城先生なら、外に煙草を吸いにいったよ」
「そうですか。ありがとうございます」
唯は礼儀正しくお辞儀してドアを閉めると、靴を履きかえ、金属製の重い扉のロックを解除し、裏口から外へ出た。
するとそこから建物の角を曲がったところに、結城医師がどこかぼんやりした顔をして煙草を吸う姿が見える。
「あの、先生……」
翼は唯の姿に気づくと、軽くこちらに目線をくれたが、また不機嫌そうな顔をして大学の旧校舎あたりに視線を戻している。
(無理ないわよね)と、唯は思った。(わたしだって、夜勤が明けたあとにこのまま日勤やってくれって言われたら……眉間に皺を寄せる程度じゃ済まないもの)
「前にも聞いたんですけど、どうして病院、辞めちゃうんですか?」
「おまえには関係ねえこったろうと言いたいところだがな、それを知ったところで唯、おまえは一体どうする?」
「どうって……その、なんていうかそのことではみんな不思議がってて。鈴村主任は先生から理由を聞かれたらしいんですけど、「個人的なことだから、わたしもなんて言ったらいいかわからない」って。でも、先生が退職される理由は、わたしたち看護師全員が「結城先生やめないで!!」って涙ながらに頼んでも、やっぱり無理なこと……なん、ですよね……」
久しぶりにギロリと翼から容赦なく睨まれて、唯は思わず彼の隣で小さくなった。もちろん唯にはわからなかっただろう、翼は睡眠不足になるとそのストレスから女性と寝たくなるなどということは。
「唯、そこに一本の栗の樹が立ってるだろ?」
「ああ、はい……」
栗の樹、などと言われても、秋になって栗の実が落ちてきた頃にはそうと気づくが、今時期は緑の葉を茂らせる他の多くの樹木と、唯はあまり見分けがつかない気がした。
「で、秋になるとコイツが実をみのらせて地面にそれを落っことす……あるものは人に踏みつけられ、あるものは清掃員のおばちゃんたちに枯葉とないまぜにされて捨てられる。で、結局そこからまたもう一本のクリの大木が育つっていうのは、なかなか難しいことなわけだ。つまり、俺がやってるのはそういうことだなって思ったわけ。唯一、大木になりそうなのは栢山くらいのもんかな。それでも、そういうものをひとつでも見届けられたっていうことが、俺の退職の理由」
「…………………」
翼はこの話をあくまで<羽生唯向け>の話として、彼女が納得するよう適当にでっち上げただけである。そうでもしないと、また何度でも「どうして」という眼差しでこちらを見上げてくるだろうからだ。
「じゃあ先生は、次から次へと栗の樹が育っていったら、辞めるつもりはなかったっていうことですか?」
「さあな。これだけ次から次へと巨木が育ってきたから、俺の役目はもうしまいだって思ったかもしれないし、なんにしても俺の中ではそういう形で区切りがついたわけ。唯、おまえのこともな」
ここで自分の名前が出て、唯自身もドキッとする。
「ここにおまえが来た時、『まあ、こいつは絶対続かねえだろう』と俺は思った。俺はこの種の人間的勘を外したってことがあんまりねえから、リンリンさんや峰岸さんがなんでおまえを可愛がるのかがよくわかんなかった。研修医どもについてもな、『こいつは少ししこめば使いもんになりそうだ』とか『いい医者になりそうだ』って奴のことは大抵すぐわかる。けど、唯一おまえだけだな。自分の勘がここまで外れたっていうのは」
「あの、わたし、本当にそのことについてはなんて言ったらいいか……」
唯は翼の言葉の中にではなく、彼の眼差しや態度の中に「これまでよく頑張ってきたな」という温かい感情と優しさを認め、胸が熱くなった。そして言うとしたらもう今しかないと思い、途切れ途切れに言葉を継いだ。
「わたしは結城先生みたいに頭の回転があまり速くないから……自分の思ってることをうまくまとめて口にするまでに、少し時間がかかるんです。でも、結城先生には本当にすごく感謝してます。 それはきっと一緒に救急部に配属になった蜷川さんもそうで……前に、外科病棟から手術室まで患者さんを搬送してる彼女と会ったんですけど、彼女まるで別人みたいに笑ってました。そしてその時にはっきりわかったんです。わたしが少しずつだけど、看護師として成長したみたいに、蜷川さんも同じく<何か>を掴んだんだなっていうことが……あの、わたしや蜷川さんだけじゃなく、他の看護師もみんなそうだと思います。なんていうか、結城先生が蒔いた種は、きちんと人の心に届いて根を張って、芽を出しているんじゃないかなって……もしかしたら先生は、今もそうですけど、『俺がこんなしゃかりきになって頑張ることに、何か意味なんかあるのか』って虚しくなったりするのかもしれないけど、でも……」
「馬鹿。こんなくだらないことでいちいち泣くな」
ハンカチなどという気の利いたものを持っていない翼は、白衣の袖で唯の瞳の端を拭った。
「すみません。でも、お願いですから最後まで言わせてください。こんな恥かしいこと……こんな時でもなかったら、もう二度と言えないと思いますから」
唯はそう言って手のひらで涙を拭った。そんな彼女の顔の表情を見ていると、翼としても切ない想いがこみあげる。つい先日も、鈴村にこう言われたばかりだった。『あんたが救急部にいてくれることで、わたしや他の看護師がどれだけ救われたか、心強かったか、助かったか、あんたが思ってる以上にそうなのよ』と……。
「わたし、去年の今時期は今以上に弱虫で泣き虫でした。結城先生さえいなかったら、他の先生とはそれなりにまあまあの関係だし、先輩の看護師たちも仕事に関しては聞けばものを教えてくれるっていう感じなのに……結城先生さえいなかったらってずっとそう思ってました。でもわたし、本当に……結城先生に厳しくしてもらえて良かったです。そのせいでもっと頑張ろう、看護師として成長して見返してやろうとも思えたし、考えてみたらわたし、そんなふうに人と正面からぶつかったっていう経験が、これまで一度もなくて。だから本当に結城先生はわたしにとってすべてが初めての人でした」
(初めてっておまえな)と、いつもの翼ならばとっくに茶化しているところである。だが今ではよくわかっていた。彼女が一途で真面目で、天然ボケの利いた性格であるということは。
「それで、まだ先生がとても厳しかった頃のことなんですけど……厳しいって言っても、わたしが仕事出来ないのがいけないんですけど、とにかくそういう時に、ふと気づいたことがあるんです。日勤の夕暮れ時に病室の窓から夕焼けが綺麗に見えたりして、その輝きが、本当にとても身に染み入るように綺麗で……それと、夜勤明けにアパートまで帰る道すがら、道端に花が咲いてたり、プラタナスの樹が風にさやさや揺れてるのを見るだけでも、すごく心が癒されるんです。あ、わたし今生きてるっていう感じで……朝、水たまりに白い雲や青い空が映ってるのを見るだけでも、今日も一日がんばろうって思ったり。あの、先生はこいつ一体何言ってるんだ、要点を早く言えって思うかもしれませんけど……」
「いや、おまえの言いたいことはなんとなくわかる」
翼は短くなった煙草を地面に捨てると、それを靴の裏で揉み消し――黙って唯の話を真面目に聞くことにした。
「その、なんていうか……わたしが先生に一番感謝してるのはそのことなんです。もちろん、仕事のことでは数え切れないくらい一杯お世話になって、色々なことを教えてもらいました。でもそれ以上に、先生が救急部にいてわたしに厳しくしてくださることで、ある時から世界は本当はこんなに綺麗で美しいっていうことに気づいたんです。わたしが初めて、結城先生に叱られるでもなく、みんなの中にうまく混ざって仕事が出来た時……体は疲れていても、心の中は晴れがましい気持ちで一杯でした。そしてその夜勤明けの日、帰り道では虹が出ていました。だからわたし、これからもきっと、空に虹が出ていたら、結城先生のことを思い出すと思います。こんなことは全部、わたしひとりの勝手な思いで、先生にとってはどうでもいいことかもしれなくても……」
唯がくしゃくしゃの顔をして、大粒の涙をこぼしはじめるのを見て、翼も胸が痛くなった。果たしてこの娘は、自分が愛の告白をしているにも等しいことに、気づいているのだろうかとさえ思う。
「唯、ほら、こっち向け」
そう言って翼は泣きじゃくる唯のことを振り向かせると、白衣の胸の中に彼女のことを抱いた。すると驚いたことには唯のほうでも、しっかりと翼の背中を震える手で抱き返してきたのである。
「おまえ、今からそんなことでどうする?俺は辞めるなんて言ってもな、最低でもあと二三か月は救急部にいることになるだろうし……そういうことは俺が辞めるギリギリくらいまで取っておけ。それに、俺にとってもおまえは全然どうでもいいような存在じゃない。実際、おまえは俺に睨まれながらもよく頑張ったよ。普通の人間ならとっくに辞めてるって時にも踏ん張ったし、俺が理不尽なくらいおまえにつらく当たったってことも事実だ。でも今――「辞める前に一言いっておきますけど、先生はあの時間違ってましたよね。あやまってください」っていうんじゃなく、おまえにそんなふうに言ってもらえて、俺は素直に嬉しいと思う。俺はこういうことを他の人間にはあまり言わないがな、おまえの場合は二年目にして、すでに看護師になって三年か四年ってくらいの力量が身についてるよ。だからこれからも頑張れ。おまえは他の人間よりも不器用で、これからも損をするだろうけど、それもまたリンリンさんや俺みたいに、わかる奴にはわかってて、大切にしてもらえる重要な資質だと思うんだぞ。わかったな?」
「はい……!!」
唯は翼の白衣の胸の中で体を震わせると、そのまま暫くの間泣きじゃくっていた。もちろん、翼としてもこういうのは嬉しい反面とても困るのだ。今言ったばかりのように、自分はあと二三か月は救急部にいることになるだろうし、その三か月ほどの期間の間に、何が起こるかなどわからないのだから……。
「大丈夫か、唯。おまえ、そろそろ昼休み終わりだろ?化粧直ししてる時間はもうないぞ」
翼は最後に腕時計を見て、そんなふうに茶化して言った。もちろん彼にはよくわかっている。唯はもともと化粧が薄いほうなので、化粧を直しても直さなくても、大して変わりがないだろうということは。
「どうでもいいんです、そんなこと」
唯はそう言って、翼の体からそっと離れた。そして何故あんなにも藤森奈々枝が「結城先生は顔よりも上腕二等筋!!」と言うのかがわかった気がして――体が火照るのと同時に少しおかしくなった。
「どうした、何がおかしい?」
「あの、奈々ちゃんがいつも、結城先生は顔よりも上腕二等筋がいいって言ってた意味が、なんとなくわかった気がして……わたし、今度彼女にそう言われたら、結城先生の上腕二等筋に一票入れておくことにしようと思います」
「ああ。ブルワーカーで毎日こっそり鍛えてるからな」
翼と唯は最後にそう笑いあって、一緒に院内へ戻っていった。夜勤のあとそのまま兵士宿舎で待機し、何かあった時にはすぐ出ていくことになっているが、そんな拘束時間の長さのことも、翼にはもうどうでもいいことだった。
羽生唯が持つこうした一種の清々しさや優しさ、純真な人間性……そうしたものが透けて見えるからこそ、彼女は男たちの間で名前が上がるのだろうと、翼は初めてわかった気がした。
兵士宿舎へ戻ると、他の医師や研修医たちが患者のことであれやこれや翼に報告し、また質問された治療上の疑問点についてアドバイスすると、翼はもう一度、兵士宿舎でごろりと横になる。何分夜には救急外来が忙しくなるとわかっているので、寝られる時にある程度寝溜めしておきたかったのである。
(そうか。実はあいつは典型的なダメんずって奴なんだな)
先ほど羽生唯との間で起きたことが、もし病院の敷地内でのことでなかったら、自分は彼女のことを決して離さなかったろうと翼は思った。いや、仮に病院内で起きたことであったとしてもいい。それが誰に見られる心配のない、プライヴェートな空間でさえあってくれれば……。
だがそれと同時に翼は、これで良かったのだというふうに思いもした。あんなに綺麗で美しいものを、自分の手で汚したりするようなことにならなくて良かったと。
(けどなあ、そうなると……あいつのことを狙ってるのは藤井と吉田、それに本郷あたりだったか?綾瀬の奴に関していえば、自分と同じ研修医どもの目が唯に向かってるのを見て、鳶に油揚げよろしく横からかっさらいたくなったってとこか。あの脳タリンのバカのことは放っておくにしても、唯のことを「いいな」と思う連中には、ある一定の特徴があるんだよな。堺と三井、それに岡田もそうだったが、優柔不断で草食系な奴らばっかだ。藤井は軽く肉食系なんだが、人間としてまだ未熟だし、吉田と本郷は生まれた時から上質な草しか食ったことないっていうような、山羊か羊のお坊ちゃんだものな。ようするに、羽生さんなら患者にいつもそうしてるみたいに、自分たちの駄目なところを包みこみ、優しく癒してくれるだろう……あいつらはそんな寝ぼけたことを考えてるんだろうか?)
当然のことながら、唯には一応恋人がいるために、翼は自分の気持ちを抑えねばならないと心得ている。あれほど純真な眼差しで見上げられ、「男としてではなく、人間として医師として」100%尊敬しています――といった告白を受けたあと、それをすっかり勘違いしたといったような行動は取れない。
だがやはり翼としては、羽生唯があの糖尿持ちとしか思えない体型の男と休日ごとに手を握ったりキスをしたり、またそれ以上の関係に及んでいるなどとは、あまり想像したくないことだった。
(あんな男より、俺のほうがよほど……)と、そう思う反面、「あんな男」でも愛せる羽生唯に対し、ある意味尊敬の念を持ちもするのだった。
「やれやれ。こんなことばっかり考えてたら、眠れやしねえ」
翼がそう思い、先ほどあった羽生唯との<清らかな抱擁>の記憶を頭から振り落とそうとしていると――兵士宿舎の木目が浮かんだドアを誰かが乱暴に開く。
「結城先生!ミイラ男が目を覚ましましたよ!!」
藤井聖也が大声で叫ぶのを聞いた翼は、すぐにICU病棟のほうへ駆けつけた。ミイラ男というのは先日あったヤクザ者同士の喧嘩で、意識不明になった男のほうにつけられた仇名である。
というのもこの男、名前など、身分のわかるものを何ひとつ携帯しておらず、警察のほうで身元を調査してもらっている最中だったからだ。そして、片目以外の顔の大部分が包帯かガーゼで覆われ、ミイラのようだったことから――葛城医師が「ミイラ男」と名づけたのだった(翼の聞いたところによると、正確には「ドラクエⅢのピラミッドで、僕はミイラ男に囲まれて死んだことがあるんだよね。こいつもそのうち、まわりこまなきゃいいけど」とのことであった)。
果たして、ミイラ男にはまだまわりこめるほどの力は戻ってきていなかったが、彼が治療の甲斐あって、意識を取り戻したのは喜ばしいことであるように、この時医師や看護師の誰もが思っていた。ところがこのミイラ男、その後病状が落ち着いて体力も順調に回復していったものの――抜管後に話を聞いてみると、「記憶がない」ということがわかったのであった。
「あれはまあ、確かに演技ではないな」
翼は一応、(そうかもしれない)という可能性だけは常に念頭において名なしのミイラと対話していたのだったが、精神科ERの保科部長が診断したとおり、間違いなく全生活史健忘症のようであった。
男は自分の名前すら思いだせず、当然喧嘩した夜のこともその相手のことも記憶になかった。また実に気弱な様子でしくしくと泣き、夜になると「これから俺はどうしたらいいんでしょう、看護師さん」などと、不安ばかり口にするのだった。
以来、黒田のようなヤクザ者と同格のチンピラミイラという彼の身分は変わり、看護師などは特に彼に対して同情的ですらあった。ところがこの、のちに原田喜久雄という名であることがわかる三十七歳の男は、一度記憶を取り戻すなり、黒田真一が可愛く思えるほどの厄介な患者に豹変することになる。
――事の経緯はこうであった。
頭の包帯も外れ、顔の傷もどうにか治癒しつつあった原田は、歯の治療のために医大内にある歯科へ向かい、まずは歯の型を取ってもらうことになっていた。そして再び救急部の101号室へ戻ろうとした時のことである。
黒田は救急部へ搬送された時に受けた血液検査で、数値の異常がいくつか見つかっていた。特に肝臓に異常があるのではないかと見受けられ、その後医大内の内科でさらに詳しい検査を受けることになっていたのである。
内科で肝硬変であると言われた時、黒田はショックを受けた。というのも、医師の説明によればこの肝硬変がいずれ肝臓ガンへ進行していく可能性が高いと言われたからである。そして寿命を出来るだけ伸ばしたいのであれば、今日から即刻飲酒は禁止と宣告されていた。
だが、それにも関わらずこのまま酒を飲み続けた場合どうなるか……その死へと至る道を説明され、黒田が呆然としたままでいた時、二階からエスカレーターで降りてくるこの男のことを、原田は何気なく見かけたのであった。
途端、原田の頭の中でばらばらになっていた記憶のピースが瞬時に繋がったらしく――次の瞬間に原田は「待て、この野郎!!」と、精算所へ向かう黒田のことを追いかけていた。
黒田はまず背骨に蹴りを食らい、その拍子に床へ倒れて前歯を折った。それからこれでもかというくらい、頭部にダメージを加えられ、血まみれの顔で気を失った。
まわりで目撃していた者は誰も、すっかりわけがわからなかったという。
医大の薄いグリーンの病衣を着た体の細い男が、体格のいい中年男を罵倒しながら殴る蹴るの暴行を行う姿を呆然と見つめ――病院の職員が数人がかりで止めに入った時、黒田はすでに虫の息であったという。
そして救急部に再び黒田が搬送されてくると、藤井などは意識不明状態の彼を見て、冷静にこう言ってのけたものである。
「こんな奴、助けて一体なんになります、結城先生?」
>>続く。
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