【サロメ】フランツ・フォン・シュトゥック
前回は旧約聖書の預言者、エリヤのお話をしたので、今回はバスタ☆内でいってるエリヤはたぶん、新約聖書の洗礼者ヨハネのことなんじゃないかな~っていうことに軽く触れたいと思います。
というのも、こみくす24巻を読むと、ドワーフのびよーん(笑)が、「証人(あかしびと)」、「洗礼者」、「道をならす者」っていう意味でエリヤのことを語ってるからなんですよね。
ちょっと話飛びますが、旧約聖書は創世記にはじまって、全部で39の巻があります。
そして旧約聖書は、マラキという預言者が書き記したと言われる「マラキ書」で終わっているのですが、このマラキ書の終わりはこういう言葉で締め括られています。
>>見よ、わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。
彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。
それは、わたしが来て、呪いでこの地を打ち滅ぼさないためだ。
(旧約聖書マラキ書、第4章5~6節)
そして実際に神の<時>が来て、新約聖書の時代となり、このマラキ書の言葉どおり、救世主(メシア)であるイエス・キリストの道ぞなえをする者として、洗礼者ヨハネが現れるわけです。
>>神の子イエス・キリストの福音のはじめ。
預言者イザヤの書にこう書いてある。
「見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。
荒野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ』」
そのとおりに、バプテスマのヨハネが荒野に現われて、罪が許されるための悔い改めのバプテスマを説いた。
(新約聖書マルコの福音書、第1章1~4節)
この>>預言者イザヤの書にこう書いてあるっていうのは、正確には『荒野で叫ぶ者の声がする。主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ』っていうのがイザヤ書からの引用で、「見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう」っていうのが、マラキ書からの引用となります。
そしてこの>>荒野で叫ぶ者の声がするっていう「声」というのが、洗礼者ヨハネのことだったり。
イザヤ書を記したと言われる預言者イザヤが活動していたのは、前八世紀頃といいますから、イエス・キリストが実際に生まれる約八百年も昔に、すでにメシアの誕生と、その道ぞなえをする者としての預言者(エリヤ=ヨハネ)の存在が言い当てられていたということになります。
なんというかようするに、バスタの世界観と照らし合わせるとすると、救世主(メシア)というのは、イエス・キリストに近い存在であり、カルは彼の道ぞなえをする者――預言者エリヤ(洗礼者ヨハネ)として選ばれたっていうことなのかな~と思ったり。
エリヤとヨハネって全然別の人なのに、何故同一人物であるかのように語られているかというと、エリヤが旧約聖書中でも特別な位置づけにある、旧約時代を代表する偉大な預言者だからなんだと思います(つまり、ヨハネはその偉大な預言者の再来であると考えられていた。また、イエス・キリスト御自身も、洗礼者ヨハネこそ「(旧約の預言にある)きたるべきエリヤなのです」と言って、証ししています)。
他にも特に有名な預言者としては、イザヤやエレミヤ、エゼキエルの名前などがあがるかもしれません。
ただ、エリヤが「死を味わわずに天へのぼった」のに比べて、洗礼者ヨハネ含め、他の<預言者>と呼ばれる方々というのは、大抵ろくな死に方をしていません
イザヤは伝承によると、首をノコギリに引かれて殉教したということですし、洗礼者ヨハネは、多くの方がその経緯を知るとおり、首を刎ねられて亡くなりました(サロメがヨハネの首を国主ヘロデに求めた結果、彼が死んだというのは有名な話)。
エレミヤやエゼキエルの人生というのも、彼ら自身の名を冠する「エレミヤ書」や「エゼキエル書」に書かれているとおり、実に悲惨なものでした。
彼らは神の正しい真実な言葉を王や民衆たちに告げた結果として、迫害を受けたり投獄されたりするという、大変な人生を送って亡くなったというか。
まあ、それが本当に「神の真実な言葉」であったのなら、それに聞き従えばいいんじゃないの??っていう話なんですけど、イスラエルの王様や権力を持った人たちというのは、「自分に都合のいい言葉しか聞きたがらなかった」っていうことなんですよね(^^;)
例として特にわかりやすいのは、列王記第Ⅰ、第22章だと思います。
ここで預言者ミカヤは、戦いに出かけたい王に対し、「戦いへ行けば負ける」と神の言葉を預言するのですが、王の取り巻きである<偽預言者>たちは、「戦いに行けば勝てる」と預言するんですね。
そして、この時のイスラエルの王は<偽預言者>たちの声に聞き従った結果として――戦地で死ぬことになるのでした。
まあ、そうした形で何度神が自分の言葉を授けた預言者を遣わしても、その声に聞き従わなかった結果として、イスラエルという国は滅び、民たちは捕囚の憂き目にあうことになるというか……このあたりでカル=エリヤっていうことに話を戻すと、「BASTARD!!」っていうのは、漫画という創作作品なので、そんなに実際の聖書と引き比べて、あそこがどーだの、ここがどーだの☆言う必要はないとは思うんですよね(^^;)
ただ、文脈的に、聖書と照らし合わせるとしたら、救世主であるイエス・キリストが実際に人々を救う活動を起こす前に――旧約聖書で預言されている救世主(メシア)が現れるから、彼がやって来たら信じなさいと言って、その前に罪を悔い改めるよう悔い改めのバプテスマを説いたのが洗礼者ヨハネであるというか。
ようするに、バスタの世界観に合わせるとしたら、こみくす24巻あたりでカルが汎人類連合を作ってるっていうのが、聖書でいうそうした行為に当たるっていうことなんじゃないでしょーか。。。
もちろん別にカルって、罪の悔い改めを人々に迫ったっていうわけじゃないけど(笑)、「あの方こそが来たるべきメシアである」と言って証ししているっていう点では、聖書で言っている洗礼者ヨハネと同じ役割を負っていることになるのかな~なんて。
ちなみに洗礼者ヨハネっていうのは、イエス・キリストが現れたのちに投獄され、ヘロデの妻が娘サロメに「洗礼者ヨハネの首」を求めさせたことから、首を刎ねられ殉教しています。
まあ、普通に考えると、「神さまの言葉に聞き従ったのになんで??」っていう話なんですけど、聖書に出てくる<預言者>と呼ばれる人たちっていうのは、大抵そんなような亡くなり方をしているというか(^^;)
というのも、神の言葉のために殉教したり、激しい迫害を受けながらも神の言葉に最後まで忠実だった人というのは、天国でもっとも高い地位を与えられると言われているので……キリスト教による死生観によれば、この世で束の間苦しんだとしても、天国では永遠に高い地位にいられる、ということなんだと思います。
あと、誤解があるといけないのでさらに付け加えておくと、預言者と呼ばれる人たちというのは、一見殉教とか投獄とか、不幸な人生を送って死んだようにも見えるんですけど、「神から直接言葉をいただける」、「神と特別な交わりを持つ恵みにあずかった」という意味では、とても幸福な人たちでもあったんだと思うんですよね。
預言者エレミヤはこう言っています。
>>私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。
あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。
万軍の神、主よ。
私にはあなたの名がつけられているからです。
(旧約聖書エレミヤ書、第15章16節)
また、エゼキエルは、自身の名を冠するエゼキエル書の中で、こう告白しています。
>>その方は私に仰せられた。
「人の子よ。あなたの前にあるものを食べよ。この巻き物を食べ、行って、イスラエルの家に告げよ。
そこで、私が口をあけると、その方は私にその巻き物を食べさせ、そして仰せられた。
「人の子よ。わたしがあなたに与えるこの巻き物で腹ごしらえをし、あなたの腹を満たせ」
そこで、私はそれを食べた。
すると、それは私の口の中で蜜のように甘かった。
(エゼキエル書、第3章1~3節)
なんていうか、神から直接言葉をいただく=神の霊に触れる、ということの内には、言葉で言い表せないくらいの恍惚感があるので、多くの人々から迫害されようとも、最後まで真実の神のみに聞き従うことのできた彼らの生涯というのは、決して不幸なばかりではなかったように思います。
う゛~ん何かこう、結局カル=エリヤっていうことについて、あまりうまく説明できなかった気がするんですけど(汗)、これからまた「BASTARD!!」っていう漫画と実際の聖書が語っていることの相違点について、何か書くことがあるかもしれないので……とりあえず少しはこうしたことに触れておけて、良かったかなとも思います(^^;)
それではまた~!!
前回は旧約聖書の預言者、エリヤのお話をしたので、今回はバスタ☆内でいってるエリヤはたぶん、新約聖書の洗礼者ヨハネのことなんじゃないかな~っていうことに軽く触れたいと思います。
というのも、こみくす24巻を読むと、ドワーフのびよーん(笑)が、「証人(あかしびと)」、「洗礼者」、「道をならす者」っていう意味でエリヤのことを語ってるからなんですよね。
ちょっと話飛びますが、旧約聖書は創世記にはじまって、全部で39の巻があります。
そして旧約聖書は、マラキという預言者が書き記したと言われる「マラキ書」で終わっているのですが、このマラキ書の終わりはこういう言葉で締め括られています。
>>見よ、わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。
彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。
それは、わたしが来て、呪いでこの地を打ち滅ぼさないためだ。
(旧約聖書マラキ書、第4章5~6節)
そして実際に神の<時>が来て、新約聖書の時代となり、このマラキ書の言葉どおり、救世主(メシア)であるイエス・キリストの道ぞなえをする者として、洗礼者ヨハネが現れるわけです。
>>神の子イエス・キリストの福音のはじめ。
預言者イザヤの書にこう書いてある。
「見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。
荒野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ』」
そのとおりに、バプテスマのヨハネが荒野に現われて、罪が許されるための悔い改めのバプテスマを説いた。
(新約聖書マルコの福音書、第1章1~4節)
この>>預言者イザヤの書にこう書いてあるっていうのは、正確には『荒野で叫ぶ者の声がする。主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ』っていうのがイザヤ書からの引用で、「見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう」っていうのが、マラキ書からの引用となります。
そしてこの>>荒野で叫ぶ者の声がするっていう「声」というのが、洗礼者ヨハネのことだったり。
イザヤ書を記したと言われる預言者イザヤが活動していたのは、前八世紀頃といいますから、イエス・キリストが実際に生まれる約八百年も昔に、すでにメシアの誕生と、その道ぞなえをする者としての預言者(エリヤ=ヨハネ)の存在が言い当てられていたということになります。
なんというかようするに、バスタの世界観と照らし合わせるとすると、救世主(メシア)というのは、イエス・キリストに近い存在であり、カルは彼の道ぞなえをする者――預言者エリヤ(洗礼者ヨハネ)として選ばれたっていうことなのかな~と思ったり。
エリヤとヨハネって全然別の人なのに、何故同一人物であるかのように語られているかというと、エリヤが旧約聖書中でも特別な位置づけにある、旧約時代を代表する偉大な預言者だからなんだと思います(つまり、ヨハネはその偉大な預言者の再来であると考えられていた。また、イエス・キリスト御自身も、洗礼者ヨハネこそ「(旧約の預言にある)きたるべきエリヤなのです」と言って、証ししています)。
他にも特に有名な預言者としては、イザヤやエレミヤ、エゼキエルの名前などがあがるかもしれません。
ただ、エリヤが「死を味わわずに天へのぼった」のに比べて、洗礼者ヨハネ含め、他の<預言者>と呼ばれる方々というのは、大抵ろくな死に方をしていません
イザヤは伝承によると、首をノコギリに引かれて殉教したということですし、洗礼者ヨハネは、多くの方がその経緯を知るとおり、首を刎ねられて亡くなりました(サロメがヨハネの首を国主ヘロデに求めた結果、彼が死んだというのは有名な話)。
エレミヤやエゼキエルの人生というのも、彼ら自身の名を冠する「エレミヤ書」や「エゼキエル書」に書かれているとおり、実に悲惨なものでした。
彼らは神の正しい真実な言葉を王や民衆たちに告げた結果として、迫害を受けたり投獄されたりするという、大変な人生を送って亡くなったというか。
まあ、それが本当に「神の真実な言葉」であったのなら、それに聞き従えばいいんじゃないの??っていう話なんですけど、イスラエルの王様や権力を持った人たちというのは、「自分に都合のいい言葉しか聞きたがらなかった」っていうことなんですよね(^^;)
例として特にわかりやすいのは、列王記第Ⅰ、第22章だと思います。
ここで預言者ミカヤは、戦いに出かけたい王に対し、「戦いへ行けば負ける」と神の言葉を預言するのですが、王の取り巻きである<偽預言者>たちは、「戦いに行けば勝てる」と預言するんですね。
そして、この時のイスラエルの王は<偽預言者>たちの声に聞き従った結果として――戦地で死ぬことになるのでした。
まあ、そうした形で何度神が自分の言葉を授けた預言者を遣わしても、その声に聞き従わなかった結果として、イスラエルという国は滅び、民たちは捕囚の憂き目にあうことになるというか……このあたりでカル=エリヤっていうことに話を戻すと、「BASTARD!!」っていうのは、漫画という創作作品なので、そんなに実際の聖書と引き比べて、あそこがどーだの、ここがどーだの☆言う必要はないとは思うんですよね(^^;)
ただ、文脈的に、聖書と照らし合わせるとしたら、救世主であるイエス・キリストが実際に人々を救う活動を起こす前に――旧約聖書で預言されている救世主(メシア)が現れるから、彼がやって来たら信じなさいと言って、その前に罪を悔い改めるよう悔い改めのバプテスマを説いたのが洗礼者ヨハネであるというか。
ようするに、バスタの世界観に合わせるとしたら、こみくす24巻あたりでカルが汎人類連合を作ってるっていうのが、聖書でいうそうした行為に当たるっていうことなんじゃないでしょーか。。。
もちろん別にカルって、罪の悔い改めを人々に迫ったっていうわけじゃないけど(笑)、「あの方こそが来たるべきメシアである」と言って証ししているっていう点では、聖書で言っている洗礼者ヨハネと同じ役割を負っていることになるのかな~なんて。
ちなみに洗礼者ヨハネっていうのは、イエス・キリストが現れたのちに投獄され、ヘロデの妻が娘サロメに「洗礼者ヨハネの首」を求めさせたことから、首を刎ねられ殉教しています。
まあ、普通に考えると、「神さまの言葉に聞き従ったのになんで??」っていう話なんですけど、聖書に出てくる<預言者>と呼ばれる人たちっていうのは、大抵そんなような亡くなり方をしているというか(^^;)
というのも、神の言葉のために殉教したり、激しい迫害を受けながらも神の言葉に最後まで忠実だった人というのは、天国でもっとも高い地位を与えられると言われているので……キリスト教による死生観によれば、この世で束の間苦しんだとしても、天国では永遠に高い地位にいられる、ということなんだと思います。
あと、誤解があるといけないのでさらに付け加えておくと、預言者と呼ばれる人たちというのは、一見殉教とか投獄とか、不幸な人生を送って死んだようにも見えるんですけど、「神から直接言葉をいただける」、「神と特別な交わりを持つ恵みにあずかった」という意味では、とても幸福な人たちでもあったんだと思うんですよね。
預言者エレミヤはこう言っています。
>>私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。
あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。
万軍の神、主よ。
私にはあなたの名がつけられているからです。
(旧約聖書エレミヤ書、第15章16節)
また、エゼキエルは、自身の名を冠するエゼキエル書の中で、こう告白しています。
>>その方は私に仰せられた。
「人の子よ。あなたの前にあるものを食べよ。この巻き物を食べ、行って、イスラエルの家に告げよ。
そこで、私が口をあけると、その方は私にその巻き物を食べさせ、そして仰せられた。
「人の子よ。わたしがあなたに与えるこの巻き物で腹ごしらえをし、あなたの腹を満たせ」
そこで、私はそれを食べた。
すると、それは私の口の中で蜜のように甘かった。
(エゼキエル書、第3章1~3節)
なんていうか、神から直接言葉をいただく=神の霊に触れる、ということの内には、言葉で言い表せないくらいの恍惚感があるので、多くの人々から迫害されようとも、最後まで真実の神のみに聞き従うことのできた彼らの生涯というのは、決して不幸なばかりではなかったように思います。
う゛~ん何かこう、結局カル=エリヤっていうことについて、あまりうまく説明できなかった気がするんですけど(汗)、これからまた「BASTARD!!」っていう漫画と実際の聖書が語っていることの相違点について、何か書くことがあるかもしれないので……とりあえず少しはこうしたことに触れておけて、良かったかなとも思います(^^;)
それではまた~!!
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