天使の図書館ブログ

 オリジナル小説サイト「天使の図書館」の付属ブログです。

神を信じる、ということ。

2011-08-01 | キリスト教
 随分前のことになりますが、とある精神科医の先生が「最近の20~40代の女性の悩みには、「いい人になりすぎる」っていうのがあるんだよね☆」と話されていたことがあります。

 つまり、状況はそれぞれ違うと思うんですけど、「職場でいい人間になろうとする」、「良妻賢母であろうとするあまり、疲労困憊する」、「完璧な子育てを志向して神経質になる」……簡単に言ったとすればたぶん、実際の自分と理想の自分のギャップを埋められないっていうことなのかもしれません。

 たぶん誰でも、こうしたことには心当たりがあると思うんですけど、「いい人になる☆」ってそれこそイイコトなので、自分でやめようとしてもそう出来ないっていうところが、この問題の難しいところというか

 まあ、ようするに目標設定がワンランク上のところにあって、常にそこを目指してるっていう精神状態が続くと、人間誰しも疲れてストレスが溜まってくるし、それがひどくなると自分でも気づかない内に病気になっているという。。。

 これって、結構引きこもりの方にも当てはまるとわたしは思うんですよね(^^;)

 つまり、理想の自分と実際の自分のギャップを埋められない、あるいは埋めようと粉骨砕身、完璧を目指して努力するあまり疲れきり、「部屋の外」に出るとその努力が自動的にはじまるだろう自分を知っている……だから、外には出ていきたくないっていう引きこもりの方って、いらっしゃるだろうと思います。

 もちろん、引きこもりの場合って色々なケースがあるので、すべての方がそうだということではなく――ただ、真面目に悩んでる方の中にはこうした<完璧さ>を求めるあまり、人間関係で疲れきるっていう人は実際多いだろうと思っていて。

「そんなに完璧なものなんかこの世界にはないよ」とか、「もうちょっと肩の力を抜いて生きればいいんだよ」とか、一応言葉としてはわかるんですけど、先に書いたとおり、この病気の重いところは「自分ではそれをやめられない☆」ということです(^^;)

 そして、ここから神というか――わたしは一応クリスチャンなので、わたしが神という時にはそれはキリスト教の神、イエス・キリストということなんですけど、そうした特定の宗教にアレルギーのある方は、ここから先の文章を読むか読まないかは自己判断ということでよろしくお願いしますm(_ _)m

 わたしが自分で書くとおりのことを実践できているかどうかは別として(苦笑)、わたしが救われた先の教会ではとにかく、「100%神にゆだねよ」と言われているんですよね。

 極端なことを言ってしまえば、自分の力によっては「とにかく何もしない」ということ。

 もちろん、もしわたしたちが本当に何もしなかったら、家賃はどうする、食費はどうする、ローンはどうするとか、色々な不安が心に押し寄せてくるだろうと思います。

 そこで、神さまに祈って「どうしたらいいですか」と聞くんですね。

 そして神さまに祈って、神さまから言われたことだけを実行に移していくわけです。

 もちろん、これはそう簡単なことではなく、「実行」に移すというのは本当にとても難しいです

 大体、祈っても「確信」が得られるところまで行くだけでも大変ですから……これは信仰の上級者(?)と呼ばれる方でも、同じことを言われると思います(笑)

 それに、毎日の生活で忙しいのに、どうやって祈る時間を捻出するかといったことも難しい問題であり――でもこのこともまた「祈れないので、祈れるようにしてください」とか「どう祈ればいいですか」とか「祈り方を教えてください」と神さまに聞いていくっていうことなんですよね。

 またさらに、間違いなく祈って「神さまがこう言われた」というよりは、確信が持てずに「おそらくはそうであろう」という感じで進むことも(わたしの場合は)とても多いです(^^;)

 でもローマ人の手紙第8章に「神はすべてのことを益とされる」とあるので、仮に自分が間違っていても「神さまが責任とってくださるからいいや☆」と思って、失敗してもそのことすら神さまは益としてくださるだろう……と信じて、ある道を選んでいくんですよね。

 こういう時に自分が努力すること、努力できる力っていうのはまあ、わたしの場合0.1%にも満たない感じだと思います。

 祈ってその0.1%、おそらくは正しいと思われる自分の判断を信じて、残りの99.9%は神さまにやってもらうという精神状態です(^^;)

 もし人間としてわたしに力があるなら、わざわざ神さまに祈ったり頼ったりしなくても、「自分一人で考え、判断し、計画を完遂しようとする」という習慣からは絶対抜けだせないだろうというか。

 わたしも、日本のいわゆるガンバリズム☆というか、あれに長くやられて自分をすっかりダメにしたっていうタイプの人間なので、同じように「善良な心で努力する」タイプの人に出会うと、時々胸が苦しくなることがあります。

 むしろ、神さまにやってもらうといいんだよ……と思うのですが、「変な宗教に引きずりこもうとしている☆」とか変な誤解を与えてもいけないし、なかなか「イエスさまがあなたを助けてくださる」といった福音を語れずに終わってしまうというか(^^;)

 それと、以上のようなことは論理として一応わかってはいても、本当に言うは易し、行うは難しだと思います

 わたしも、祈って出た結果が自分の従いたくない道であることが多いので(苦笑)、本当にそれを「実行」に移す時にはとにかくひたすらその現場へ行くまで祈っているとか、賛美歌を頭の中で歌いつつ、いやいやながら従っていることもすごく多いんですよね。

 でも、聖書にあるとおり、「弱さ」に働く神の力というのが間違いなくあって、「こんなに弱い、どうしようもないわたしを助けてください」と祈る時に、神に裏切られたという経験だけは、とりあえずわたしには一度もなかったり(^^;)

 人間は習慣の生き物なので、どうしても「ああしなければいけない」とか「こうしなければいけない」っていう呪縛から逃れられないものなんですけど、それでも折にかなった助けを神さまから受けていくなら、「自分の頭で計画した人生」ではなく「神さまにある感謝と祝福の人生」にシフトしていけるのだと思います。

 もちろん、自分に力がある時に「自分の頭で計画したことを実行に移して何が悪い☆」ということも出来るとは思うんですけど――神さまはたぶん、そこから零れ落ちた人は自分の元へ来なさいとおっしゃっておられるのだろうな~と思うんですよね。

 そうした一種のセーフティネットの役割をキリスト教というものは長い歴史の中でずっと果たしてきたし、これからもそうだろう、というか(もちろん、この意見に反対の方は、その弊害についてのみ強調して語るのですけど^^;)

 まあ、自分の力で何か大きなことを成し遂げるというのも人生の醍醐味で、素晴らしいことかもしれません。

 でも、自分なりに最大限努力したのに失敗してばかり、こんなに努力しているのにどうしてなんだろう……という方は、自分のそうした弱さを神さまに告白し、あとのことはすべて神さまに委ねるという選択をする、という道もあるということをどうか覚えていてください。

 特定の宗教に勧誘するための記事ではありませんので、何かの案内といったものはないんですけど、最後にわたしの好きなゴスペル曲を一曲貼って、この記事の終わりにしたいと思いますm(_ _)m

 それではまた~!!



 Gifts /『輝く光の中を』





最新の画像もっと見る

コメントを投稿