一カトリック信者(ジュゼッペ)の日々想い

聖ヨゼフを愛する一カトリック信者の日々を綴ったブログです。

改革の精神に満足はありません

2017-03-28 07:35:41 | カトリック
ある司教様(『どこか遠いところでつくられた信仰様式からの脱皮』を目指す司教)がカトリック教会には「民主主義が無い」「秘跡に頼り、権威主義に頼ってきた教会を内側から変えなければならない」と仰っています。
これは暗に教会に対する批判です。私たちが洗礼を受けたときに、教会に何を求めるのかという問いに対してなんと私たち(代父母)は答えたでしょうか。声高らかに「信仰」と答えたはずです。実際のところ信じるとは、疑問を持つことではありません。あたかも目の前に存在することのように信じるのが、私たちの信仰です。
そして教会に所属する私たちの殆どは罪人です。罪を重ねる私たちは、神の恩寵に寄りすがらなければますます罪に傾き、最終的に死にます。例え生きているように見えても、実際は死んでいます。今これを書いているのは、電車の中ですが、見渡すと沢山の人がいます。皆さん疲れた顔をしていますが、彼らは洗礼を受けていません。洗礼を受けなければ死んだ状態です。洗礼を受けて神様の子になりますが、彼らはまだ神様の子になっていません。従って神を知らないけれども真理を追い求めて正しく生きようと思わなければ、死んでいます。実際のところそのような火の洗礼を受けた人は少ないのです。ですから聖霊降臨で誕生したカトリック教会の力が必要です。キリストの花嫁である聖なるカトリック教会は、母親が母乳で子供を生かすように、その教会の子らに信仰を与えます。それでも私たちは、キリストの残した秘跡が無ければ救霊を得ることが出来ません。洗礼後、成聖の状態を得るために秘跡があるのです。しかし神様より世俗を愛する私たちは、歴史でも証明するように神様から離れて、悪い考えや異端的な考えを持ちます。さらには神様に対して自分の都合よく解釈します。地獄がイヤだからといって、みんなで無かった物として決めることは出来ません。なぜなら真理は民主主義で決めることは絶対に出来ないのです。教会の権威が私たちの指針です。個人個人が権威から離れて自己解釈をしてきたからこそ、聖母が「妥協した者たち」と批判されているのです。教会の権威によらなければ、私たちは「悪魔的方向感覚の喪失」に繋がっているのです。
このように真理に基づいたはずの伝統の破壊や伝統的な信仰の「刷新」の行き先は魂の死です。私たちの教会と信仰は昔も今も神様第一主義です。人間中心主義ではありません。どうやっても私たちは神様になることも、神様よりも上になることはあり得ません。神様は私たちの崇拝対象なのです。
ヨハネ・パウロ二世がかつて当時の状況を「静かなる背教」と指摘しましたが、現状はその頃よりもはるかに悪化しています。私たちの人生は常に魂の戦いの中にいます。これを霊戦といいますが、カトリック教会がますます戦いの中にいる今、私たちは流れ弾に当たらないようにしなくてはなりません。日本のカトリック教会から、伝統様式が破壊され取り上げられている中、同じく私たちも妥協していけば必ず、静かな背教に加勢することになります。
私たちに出きることは何なのでしょうか。まず神様を全身全霊で愛することです。罪を忌み嫌い、無原罪の聖母マリア様に私たちをお捧げすることです。異端撲滅のために、そしてロザリオで霊戦を勝ち抜きましょう。ロザリオは最強の武器です。イエズス様とマリア様に対する侮辱の償いのためにロザリオをお捧げしましょう。

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