一カトリック信者(ジュゼッペ)の日々想い

聖ヨゼフを愛する一カトリック信者の日々を綴ったブログです。

姿勢

2017-03-23 07:48:29 | カトリック
私は営業の仕事をしております。そのため一般家庭のお客様の家を訪問させて頂いておりますが、時々年配のお客様から家を出る際に、商談が終わって帰るときに玄関先で正座をして深々と頭を下げて私を送り出す人がおられます。
比較的にこれは年配の高齢者の方が多いのですが、温泉宿でもこのようなことは多くみられます。
これはとても美しい姿です。思わず私も腰を低くして感謝の気持ちをあらわします。
さて、祈りは私たちのお願いの形の一つですが、祈るとき私たちはどのようにしたらよろしいのでしょうか。
心と体は一つに繋がっています。心があるからと寝っ転がって人にお願いする人はいません。尊敬してるけどふんぞり返って上司と話をする人もいません。
ではまさに目の前に主イエズスがおられたら私たちはどうなってしまうでしょうか?
御聖体はパン(ホスチア)の形をしていますが、100%のイエズス様がそこにおられます。聖堂に入るとき御聖櫃に向かって頭を下げたり何かしらの主イエズスに対しての敬意が行われないのを見ます。
むしろ週に一回会う知り合いの方に対しての方が恭しく挨拶をしていませんか?
四旬節です。もう一度私たちの主に対する態度を考え直す時期です。




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3 コメント

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見られていること… (抵抗キリシタン)
2017-03-23 18:43:27
最近のカトリック教会では、御聖櫃にましますイエズス様を大切にすることや祈ることについての姿勢よりも、信徒自身の心を重要視しているように思われます。ある種の傲慢だと感じています。
典型が聖変化の際の跪きではないでしょうか。聖変化の際に立っておられる方の多くはいわゆる「休め」の姿勢をなさっておられます。姿勢は心を表す鏡だと思います。
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Re:見られていること… (ジュゼッペ)
2017-03-24 07:40:38
仰る通りに神イエズスよりやはり人間なのです。カトリック教会はここ数十年の間、神への従順や愛よりも人間中心の改革をしてきました。人間中心にすると当然、恐ろしい悪魔や地獄などの事は公にすることが出来ません。神の教えの布教よりも、ただただ仲良くなることを選んでいきます。耳障りの良いことだけをする事が素晴らしいのです。神への従順を説くとレッテルを貼られます。そのような態度は次第に神が人間よりも下に置かれ、教会内の不遜に繋がっています。シスタールチアの言う「悪魔的方向感覚の喪失」です。一度方向感覚を失うと取り戻すのに大変な労力がかかります。祈りと天の力に頼らない限り難しくなっていきます。
私たちはカトリック教を名乗るのであれば、まず全身全霊で主を愛さなくてはなりません。
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Unknown (johntherenya)
2017-03-24 21:48:11
全く同感です。今の教会は神様が礼拝の対象なのに、従順の名のもとに司祭の言いなりにになっているところがあります。
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