一カトリック信者(ジュゼッペ)の日々想い

聖ヨゼフを愛する一カトリック信者の日々を綴ったブログです。

煉獄の霊魂のために

2016-10-18 07:33:47 | カトリック
魂が体を離れていくとき、それは死です。死は誰にでも平等に訪れます。しかし同じ期間をこの世で過ごすかというとそれは違います。死は突然訪れることもあります。これについては誰しもがご存知です。
しかし死のことを考えても死んだ後のことを考える人は少ないものです。
死後のことを考える。これは意外と盲点です。死後人間の行く場所は3つあります。まず聖性の状態を保ち罪の汚れがまったく無い霊魂は死んだ後天国へ行きます。そして大罪は無いが小罪があるままか、小罪は許されたけどまだ償うべき事柄がある人が死ぬとき煉獄へ行きます。大罪がある人は地獄です。
罪とはどんなものがあるかはここでは論じませんが、自分ではそれが小罪だと思ってても神様の目から見たらそれは大罪であることはよくあるそうです。そうならないためにも理性の光を強めて下さるように祈りが必要になります。
さて煉獄へ行く霊魂は、煉獄という場所で償いをはたさなければ天国へは行けません。人の罪の度合いによって期間がもうけられています。煉獄の苦しみは地獄の苦しみに匹敵すると言われますが、地獄は永遠に入る場所と比べて煉獄は期限付きとなっています。色々な文献を読むと4歳の子供が煉獄にいる事例もあるそうですが、分別と理性が備わってると意識を持って罪を犯すことが出来るようです。
さて煉獄の霊魂は確かに苦しみを受けて現在罪を償っています。この償いが終われば聖人となり必ず天国へ行けるのです。その意味では幸せなのです。私は自分の救霊や死を黙想するとき、煉獄さえ入れるのかいつも考えています。
しかし期限が決まれば、最長でもこの世の終わりまでという、いつになるか分からない期間の霊魂もいるそうです。一度天国へ入れば償いは必要無く、至福直下の幸せが永遠に続きます。そのため天国の霊魂は煉獄の霊魂のために償いを代わりにすることは出来ません。そこで私達の出番です。私達は自分の罪の償いと同時に代わって煉獄の霊魂のために償うことが出来ます。
例えば食後の祈りのあとに唱える「願わくは死せる信者の霊魂、 天主の御憐れみに依りて安らかに憩わん事を」はその一例です。
もしですよ!煉獄の霊魂があなたの祈りと犠牲によって天国に入ったならばその霊魂は絶対に絶対に恩を忘れることは無いでしょう。すると天国から必ず執り成しをしてくれると思います。
今月はロザリオの月、ご意向の中に煉獄の霊魂がはやく天国に行けるように、を付け加えてみてください。
よろしくお願いします。

日本カトリック教会のミサ

2016-10-17 07:27:42 | カトリック
日本のミサでは事実上跪きによる礼拝は禁止されたのでしょうか。
本当はこのような内容のことはブログで書くことをすごく躊躇しております。昨今モラハラ事件が世間を賑わしており、日本のカトリック教会もそのようなことをしているということをある意味暴露することになるからです。
ローマ(バチカン)の公文書は、一度もミサ中における跪き、跪いての口で受ける伝統的な聖体拝領の形を禁止してはいません。昔はどこの教会でも同じ姿勢同じ態度だったので、敢えてそのような文書はわざわざ出なかったのですが、改革の精神によって様々な教えや考え方が出てきたので、ローマはそのたびに曖昧な態度ではありますが、基本的なことは崩していません。まずローマは聖体拝領に関しては跪いて口で受けるのが、優位だと教えています。どうして跪きが重要なのかはここでは割愛します。
一昨年の日本における典礼の改定では、立って聖体拝領をするというのが基本だということを打ち出しました。しかし保険の約款みたいに、端書きに跪きで受けたい人を阻害してはいけない旨が付け加えられていたので、昨年はそれでも伝統的な受け方の人は変わらずにいました。私の所属教会はベールの着用率も非常に高く、ミサの間の聖変化や聖体拝領で跪き台が無いにも関わらず跪く人は割合とおられました。
しかし昨年の待降節から日本における典礼の改定では、読み手にあたかも跪きが禁止されたかのように読める内容として、保守的なカトリック信者に衝撃を与えているようです。
私の教会では、待降節の前から典礼委員の人がしつこくしつこく跪きは禁止ですという事をお知らせで繰り返しました。
それからというものの、聖変化の時と聖体拝領の時は、私の家族以外は誰も跪くのを止めてしまいました。そればかりか私達しかいないにも関わらず、アナウンスマイクで「御聖体は立って受けて下さい」と周知しているのです。もうこれも慣れてくると、いつものが始まった、という感じです(笑)
ある時はアナウンスで「これはローマ教皇庁の通達です!」とあたかも私達が日本カトリック教会ばかりかローマに不従順であるかのようです。「ローマの通達」というアナウンスはさすがに椅子から転げ落ちそうな程びっくりしましたが、そんなことはありません。その人の無知だと思います。
さて、この事を私の霊的息子に相談したところ、直接カトリック中央協議会にどういうことなのか、電話することになりました。今年の5月頃です。
まず典礼のことなので協議会の典礼の委員長に今回の跪き禁止についてと、各教会の典礼委員が無理にでも跪きを禁止させるようなことをしているということについて問い合わせてみました。
すると、名前と詳しいやりとりは伏せますが協議会の典礼委員長は、禁止してはいないことを認めました。さらにそれを各教会の典礼委員にその事を伝えてくれということに関しては、自分の権限ではないし、それは事務局長に言ってくれと電話番号を教えて下さいました。そして事務局長に電話が繋がりました。最初跪きの禁止に関しては非常に曖昧な態度でした。個人の自由だとかなんとか。私達が聞きたいのは、「禁止なのかどうか」ということでしたので、食い下がりました。すると結局は禁止では無いという事を認めました。しかし、全国の教会にそれを通達してくれということは認めず、とりあえず文書にしてくれということでした。文書にしても通達するという保証が得られなかったので私達は、日本にあるバチカン領事館に電話しました。しかし悲しい事に、日本の教会のことに関してはここに電話してくるな、ということでした。そこで最終的に大司教に直訴をしようとしましたが、電話は繋がらずです。ブラックリストに載ってしまったでしょうか。
今回私達は非常につまずきを覚えました。御聖体という私達の信仰の中心が、(やりとりは伏せますが)、私達の悲痛な訴えが、たらい回したらい回しで誠意の無い態度でしかも信仰というより事務的な態度ばかりか時折威圧的な態度で扱われたことに対してです。そこには御聖体の信心はなく、宗教団体ではなくただの企業団体を相手にしているようでした。
ですから私はいつも御聖体に対する忘恩を償いたいと思っています。

罪と改心

2016-10-15 11:26:17 | カトリック
本来ならば11月の死者の月に黙想することですが、今月はロザリオの月、ファティマのマリア様のことも思いを馳せています。教会は常に改心と祈りを呼びかけてきました。
以下のファティマの言葉に多くを語る必要は無いでしょう。よく黙想したいと思います。そして恩寵を請い願いたいと思います。

『他のどの罪よりも多くの魂を地獄に落としてしまうのは、肉欲の罪です。』
『私達の主がお喜びにならないファッションが流行するでしょう。』
『神に仕える人達は、流行を追ってはなりません。教会と流行は無関係です。私達の主はいつでも変わらず同じです。』 
『もし、人々が永遠を理解できたら、彼らは、自分たちの生き方を変えるためになんでもするでしょう』 
『人々は、主の死について考えもしないし、償いもしないので、滅びてしまいます』 
『たくさんの結婚が良い結婚ではないので、神様に祝福されていません』


小斎日

2016-10-14 14:46:18 | グルメ
私は営業の仕事をしているのでお昼は外食にならざるを得ないのですが、特に今日は金曜日なので、伝統に従って小斎(鳥獣の肉を断食すること)を守っています。
金曜日は主がこの世のために亡くなられ、贖罪に対する日を忘れないためにも何かしらの犠牲を捧げることを教会は求めています。
金曜日の小斎は教会の6つの掟でしたが、現代の教会ではこの掟は無くなったようです。しかし金曜日の小斎が変わっても、今までのように小斎を守るのもよし、その他何かしらの犠牲を求めています。
しかし、伝統教会が長い間定めてきた小斎がどれほどの犠牲に値するのかは私にはわかりません。小斎をしないカトリック信者は毎金曜日に(小斎の代わりとして)何を犠牲に捧げているのか私は興味があります。
今の時代小斎も場合によってはかなりの大きな犠牲になっています。しかし主のためそれに私は満足です。

悪魔的な方向感覚喪失

2016-10-14 07:44:58 | カトリック
伝統的なカトリックの精神はある時を境に変わりました。私の親戚一同が年に一回程集まるとき宗教の話になると必ず異口同音に口にするのが、「教会は変わったよな」です。
私の親族は皆カトリック信者なので、信仰のある人とそうでない人の格差が激しいのですが、信仰面で尊敬する叔父さんから聞いたことは、「教会(の考え)は常に変わっている。昔はみんな同じ事しか話さなかったが、今はみんなが違うことを言っている。私はついていけない。最終的に司祭の結婚まで認めるようになったら私は生きていけないだろう」的なことを言われたことがあります。
私も時々色々なカトリック信者のブログを見て回る時がありますが、勉強になるものあります反面、中には世間(カトリック信者では無い人)の人とまったく変わらないびっくりするような内容のものもあります。
ブログはあくまでも字だけの物なのでその人の本意までは分からないので、決めつけることは避けたいのですが、反カトリック的で神様を悲しませる内容もあるのです。カトリックを改革しようとか、この教義はおかしいとか、色々あります。
教会の信者さんと話すときも色々あります。
私がその時思うことは、もちろん私も含めて感じることは、なんという生ぬるい信仰生活をおくっているのだろうか、ということです。本当に自分は神様中心の生活を心がけているのだろうか。
ファティマの幻視者の1人であるシスター・ルチアは私達に警告をなさいました。それは
「悪魔的な方向感覚喪失」という言葉です。この発した言葉の前後を見てみますと、それには以前までのカトリック教会と現代のカトリック教会の対比が込められています。間違い無く私達に向けられた言葉です。そしてこれは、前述の私の親戚の言葉と同じなのです。以前のカトリック信者であれば必ず守ったこと、言わなかったこと、しなかったこと、これらが破られていることです。そして多くの人が教会の伝統破壊に意識的にも無意識的にも参加させられています。
ファティマの出現でもっとも恐ろしいビジョンは地獄のビジョンでした。3人の子供たちは傍らにマリア様がおられなかったら瞬時に死んでいただろう恐ろしい光景を味わったのです。この地獄は必ず存在していて、そこにはたくさんのカトリック信者が堕ちているというのです。しかもそれは雪のようにです!
今から99年前の比較的今よりも信仰にあふれた時代でさえそうであるのに、なぜ現代では地獄に堕ちる人は少ないだろう!むしろいないかもしれない!と言えるのでしょうか。
油断してはいけません。私達の救霊は常に危うい状態に置かれています。とくに私達の周りを見渡すとうじゃうじゃと罪に導くものがあふれています。外を少し歩いただけで罪を犯しそうさえになります。それほどに危険な世界です。甘い言葉や生ぬるい言葉は私達は大好きです。楽です。誰でも天国には入れるならば私達は祈る必要も、道徳も倫理も守る必要はありません。真の宗教を信じる必要もありません。
もう一度「悪魔的な方向感覚喪失」という言葉を黙想したいと思います。

祈りの人

2016-10-13 07:31:54 | カトリック
ロザリオの月も半分を経過しようとしています。ロザリオで思い出すことが私にはあります。
学生時代私は新しくなった調布のサレジオ会を訪れたことがありました。
その時一人の老司祭が歩いていました。彼の出で立ちは、まさに真の司祭でした。私はすぐに釘付けになりました。話しかけることさえ憚りました。
私の小学の低学年からの夢は神父になることでした。母がいつも私を司祭になるようにすすめていたこともあったのでしょう。小学校の文集では、毎年必ず将来の夢については「司祭になりたい」事を書いていました。実際は私には召命はありませんでしたが、その時まさにそのような司祭になりたい人物が私の前を歩いていたのです。
私は神父様の後をついていって観察をしました。彼の手には古い木のロザリオを持っておられます。祈られていたのです。その人はまさに祈りの人でした。神父様は部屋に戻られました。
そしてサレジオ会の志願生の一人と司祭館に入りその司祭のもとに案内してくれました。志願生が言うには、神父様はいつも祈っているので誰も話しかけないし、部屋に行くことが出来ないと言いました。それでも私は会いたくなりました。
そして部屋をノックすると、少し間を置いて「どうぞ」と聞こえました。中に入ると案の定ロザリオの途中でした。私は何を話していいか分からず、年を聞きました。耳の聞こえが悪いと言うことで少し大きな声で会話をしました。私が「神父様はとても長生きですね!」というと神父様は片手でロザリオを見せて「もっともっと長生きしたいです!そうすれば神様のことたくさんたくさん考えられるし祈りもたくさんたくさんできるからです!」となまった日本語で返されました。彼の名前はダルクマン神父です。当時彼はサレジオ会員の告解師で私はここにいれば毎日告解が出来るのかとそれはそれは素晴らしく羨ましく思いました。
そして列福されたばかりのピオ神父の御絵を祝別して頂いて名残惜しく部屋を出ました。
 祈りは、カトリック信者の中心です。祈らない人は高慢な人だとある神父様が仰っていました。なぜならば自分の弱さ、非力さを知ってるからこそ祈れるからです。自分で解決できると思う間は祈りすら忘れてしまいます。祈る必要を感じないこともあるのでしょう。お願いだけが祈りではありません。色々な形があります。自分のために、誰かのために、感謝の祈り。このように祈りが生活の一部となれば祈らないことは無いのでしょう。祈りは特別なことではないからです。ダルクマン神父様のように、祈りはご飯を食べたり寝たりと同じように本当に生活の一部でなければいけないと思いました。それももっとも大切な生活の一部です。
ですから聖パウロの言葉のように『常に感謝して、常に祈りなさい』を実行しなければいけません。
私達の体は祈りのためにあると言っても過言ではありません。
しかし直接私達の祈りは創造主に届くのでしょうか。おそらくそれは難しいので、聖母を通して祈るようにしましょう。

祈ってください

2016-10-12 08:06:00 | カトリック
いつもは通勤の時間を使ってブログを書いておりましたが、今日は電車内でロザリオを唱えておりました。
従って書けることに限度がございます。
このブログをご覧のカトリック信者の皆様、私の家庭のために、めでたし(アヴェ・マリア)の祈りを一回でいいので、唱えてくださるようよろしくお願いします。
目に見えない兄弟姉妹の皆様の祈りは私が死ぬとき一人一人のお顔を私は知ることになるでしょう!
ありがとうございます!

古いミサ

2016-10-11 07:28:50 | カトリック
今から20年程前の時、母から古いミサの話を聞いたことがありました。
私の父が高校時代、母が中学生になる前にミサが変わったという。古いミサと現代の新しいミサという概念は私も小さい頃聞いた覚えはありましたが、特段関心も無かったのか母から昔の話を聞くまではそんなには意識をしていませんでした。
信仰の話や超自然の話は母がよく言い聞かせてくれていたので、ミサのその話は私に強くインパクトを与えました。
内容といえば、昔はラテン語で司祭が唱えていたということ、司祭が祭壇(御聖櫃)に向かってミサを捧げていたのでまるで、司祭が天使のよう(翼が背中からでてくるよう見えたという例えかもしれません)に見えたことなどを話してくれました。
丁度その頃読んでいたある文献の中で、聖ピオ神父様も認めるイタリアのエクソシストであるカンディド神父が、晩年(1990年代)山の上の修道院で昔ながらの東を向いたラテン語のミサを一人で捧げていたのを見た人がいた、という箇所を見て、現代でもその古いミサが行われているということが分かったのです。
母にもう少しその事を聞くと、新しいミサは古いミサとは全然違う。古いミサは信者を高見まで登らされるというのです。そして最後になぜ廃止されたのかは、自分には分からないしある日突然変わった。そして周りの大多数の人は残念がってたの覚えている。昔は良かったなぁ、と言いました。
続く

信仰

2016-10-10 07:54:05 | カトリック
聖ピオ10世教皇様の公教要理の初めに

『あなたはカトリック信者ですか。

そうです。私は天主の恩寵によりカトリック信者です。

なぜ「天主の恩寵により」と言いますか。

カトリック信者であることは、神が全く無償で与えてくださった賜物のおかげですから、「天主の恩寵により」と言います。』

とあります。昔の信者さんはこのレベルの高い問答式の公教要理を暗記するまで読んだといいます。私の知っている現在90歳を超える老司祭も木の上で何度も何度も読んだものだ、と仰ったのを思い出します。
さて、宗教の基本中の基本である、この信仰はカトリック教会では、神様の恩寵であると教えているわけですが、すなわち信仰者は自分の力ではなく神に選ばれたということになります。
イエズス様は聖書の中で、信仰者の中にも、信仰の篤い者と薄い者が存在することを明言され、信仰は人によって違うということが分かります。違うといっても同じ者を同じように信ずるという前提での、上と下、強と弱ということです。
この信仰の度合いも、まさに神様の恩寵であると実感することがあります。口でいくら信仰者を語ったとしてもその行いで明らかになるものです。口で上司を敬っています!と言ってもふんぞり返って受け答えをしたり、上司が立ってるのに部下が座って話したり、敬語を使わなかったり、皮肉や悪い冗談を言うのを、端から見てこの人の言うとおり上司を本当に尊敬して敬ってるのだなぁ、と関心するでしょうか。むしろその逆では無いでしょうか。
御聖体が主イエズスだと口で言っても、教会内に入るとき御聖体に目を向けて、跪いたり、もしくは最敬礼をしないのはなぜでしょうか?例えば祭壇の前に天皇陛下や国王またはどこかの大統領が居たのならば、むしろその方が最敬礼かなにかしらのモーションをするのでは無いでしょうか。主の前ではその人たちさえ被造物さえあるのにです。
さて話は戻しますが、私にとってこの信仰は幼子のように単純なのが理想です。お母さんが子供に教えられるときの子供の信じて委ねるあの素直さです。
この信仰も全て恩寵によりです。
カトリック信者として選ばれた私達は、自分の力では無く主に請い願うことは、信仰をますます強くしていただく事です。
主の「あなたの信仰があなたを救った」という程の信仰を頂く恵みをますます願いたいと思います。
洗礼式で志願者または代父母が(代わりに)、「あなたは教会に何を求めますか」という問いに、「信仰です!」という(言った)ことを忘れてはいけません。

ロザリオを愛する

2016-10-08 11:54:55 | カトリック
昨日10月7日は既報通りロザリオの日でした。
ロザリオはよく聖母マリア様から与えられた祈りと言われていますが、これもたは主が望まれている祈りであることを忘れてはいけません。
なぜなら、主のご意向は聖母に直接反映され、聖母を通して私達に救いが訪れるからです。主が私達のために天から直接おいでになって福音を伝えることは容易いなことです。それなのにあえてマリア様を選んで、肉を得てお生まれになったことを深く深く吟味すれば、主は聖母を通して全人類の救いをご計画されていたことを強く感じることが出来るはずです。
さて、ロザリオは喜び、苦しみ、栄えを黙想します。月曜日と木曜日が喜びの玄義、火曜日と金曜日が苦しみの玄義、水曜日と土曜日、日曜日は基本栄の玄義を黙想します。しかし、待降節の間の土曜日の場合は喜びの玄義、四旬節の間の土曜日は苦しみの玄義を唱えましょう。
今月はロザリオの月なので、特にロザリオの黙想の後は「聖ヨゼフの連祷」を唱えることが推奨されています。
ちなみに司教に祝別されたロザリオで黙想すると全免償が与えられるとか。

「聖ヨゼフの連祷」

主あわれみ給え。▲主あわれみ給え。

主あわれみ給え。

キリスト我らの祈りを聴き給え。▲キリスト我らの祈りを聴き容れ給え。

天主なる御父▲我らをあわれみ給え。

天主にして世のあがない主なる御子▲我らをあわれみ給え。

天主なる聖霊▲我らをあわれみ給え。

唯一の天主なる聖三位▲我らをあわれみ給え。

聖マリア▲我らのために祈り給え。

聖ヨゼフ▲我らのために祈り給え。

ダヴィドの誉れ高き末▲我らのために祈り給え。

太祖の光明▲我らのために祈り給え。

天主の聖母の浄配▲我らのために祈り給え。

童貞マリアのみさお正しき守護者▲我らのために祈り給え。

天主の御子の教育者▲我らのために祈り給え。

キリストの注意深き保護者▲我らのために祈り給え。

聖家族の長(おさ)▲我らのために祈り給え。

いと正義なるヨゼフ▲我らのために祈り給え。

いと貞潔なるヨゼフ▲我らのために祈り給え。

いと賢明なるヨゼフ▲我らのために祈り給え。

いと勇気あるヨゼフ▲我らのために祈り給え。

いと従順なるヨゼフ▲我らのために祈り給え。

いと信実なるヨゼフ▲我らのために祈り給え。

忍耐のかがみ▲我らのために祈り給え。

清貧の愛好者▲我らのために祈り給え。

職人の模範▲我らのために祈り給え。

家庭生活の誉(ほまれ)▲我らのために祈り給え。

童貞の守護者▲我らのために祈り給え。

家庭の柱石(ちゅうせき)▲我らのために祈り給え。

不幸なる者のなぐさめ▲我らのために祈り給え。

病める者の希望▲我らのために祈り給え。

死に臨(のぞ)める者の擁護者▲我らのために祈り給え。

悪魔の恐れ▲我らのために祈り給え。

聖なる公教会の保護者▲我らのために祈り給え。

世の罪を除き給う天主の子羊▲主我らを赦し給え。

世の罪を除き給う天主の子羊▲主我らの祈りを聴き容れ給え。

世の罪を除き給う天主の子羊▲主我らをあわれみ給え。

天主かれを立てておのが一家の長(ちょう)と定め、▲そのすべての持ち物をつかさどらしめ給えり。

祈願

絶妙なる御摂理により聖ヨゼフを至聖なる御母の浄配として選び給いたる天主、こいねがわくは地上においてかれを保護者と尊敬し奉る我らをして、かれを天上における代祷者として頂くにふさわしき者たらしめ給え。とこしえにいきかつしろしめしたもう主に願い奉る。 
アーメン