一カトリック信者(ジュゼッペ)の日々想い

聖ヨゼフを愛する一カトリック信者の日々を綴ったブログです。

質問の答え

2016-10-22 10:56:46 | カトリック
トマス・フランシスコさま、このたびはコメント欄に私に対する非公開希望のメッセージを心から感謝致します。ありがとうございます。そしていくつかの興味深いご質問も併せて感謝致します。④つの質問全てに答えて行きたいと思いますが、「一カトリック信者」に過ぎない故私の答えは公式のものではなく、あくまでも私に対する質問だと思って答えますのでご了承下さい。そしてトマスフランシスコ様の御救霊並びにご改心も重ねてお祈り致します。

まず
①小罪と大罪の線引きが真面目に考えるほどわかりません。どう判断するのですか?

 まず私達のそれが罪の基準となるのは、《天主の十戒》です。これは全ての人間は守るべきものです。そしてさらにカトリック信者は教会の6つの掟を守らなければなりません。神様の掟を知りつつ自由意志をもって、思い、望み、言葉、行い、怠りによって犯す罪の中には、仰るとおり軽重があります。
しかし簡単に申し上げますと、完全な意志の承諾をもって行った場合それは大罪だと思います。私達にはいくらか理性があります。罪悪感というものが存在します。理性の光に照らし合わせてもその度合いもいくらか参考になるでしょう。しかし聖書にあるとおり、主が最も嫌う罪は一貫して主(聖霊)を侮辱することです。それは肉欲の罪をもって主を侮辱することだと聖書を通して読んで取れるかと思います。


②プロテスタントの時は祈祷会があって、信者同士お互い祈りあいましたが、カトリック教会はこういった交わりがあるのですか?

 プロテスタントのような祈祷会なるものは基本ございません―最も重要な祈りはミサです―お互いのために祈ると言う意味では、みなで同じ意向をもって祈るためにミサの前にロザリオなどを唱える事はあります。この時期(ロザリオの月)ですと、ミサ前にロザリオを信者皆さんで唱える教会は多いと思います。教会内でまたはご家庭で特定の人のために祈ることはとても大切ですし、勧められています。祈ることはもちろん祈ってもらうこともとても大切です。私がこのブログを始めたきっかけは私のために祈って下さる人を増やすためです。そのくらい祈りはとても大切です。臨終の時に祈りの大切さに気がつくよりも今この瞬間祈ることの大切さに気がつく事が何よりなのです。


③ジュゼッペさんがカトリック教徒となって最も幸せな事は何ですか?やはり、ミサの聖体拝領の時なのでしょうか?私は、プロテスタント出身の為か、以前の教会では説教に大きな恩恵をもらい毎礼拝に幸せを感じていたのですが、カトリックでは説教があっさりしていてあまり得られていませんでした。ただしばらくして聖体拝領の深い意味が分かってくると、その瞬間の幸せは、何ものにも代え難いものになりました。

 もちろんです。仰るとおりです。聖体拝領は幸せです。ナポレオンが死ぬ前に人生を振り返って、人生で最も幸せだったときは初聖体の時だった、と言っています。
聖体拝領は準備が必要です。受ける前の心構えそして、大罪を持ったままで受けることは出来ないのです。そしてたとえ大罪がなくとも人間として聖体を受けることにたいして恐れ多く感じることもあります。それを踏まえるとカトリック信者として私が最も幸せに感じる瞬間は、告解で赦される時です。これは本当に幸せです。ここまで分かりやすく罪が赦されるという宗教は他にはありません。よく告解はなんでも赦されておかしいという人もいますが、告解する方も完全な痛悔が必要になります。
ミサでのお説教ですが、人間ですので上手に話せる方、話せない方はいらっしゃいます。しかし司祭の目的は秘跡を執行することです。つまりミサで大切なのは司祭の手を通して生贄(聖変化)を捧げることです。教会では御聖体が中心で御聖体に向かっています。カトリックの教えは何も変わっていません。それを司祭は繰り返して話すだけです。

④貧しい人を大事にすると公言するバチカンが贅沢なものに囲まれているように感じていますが、ジュゼッペさんはどう思われていますか?

 これはバチカンにある文化的あるいは芸術の装飾品などのことだと思いますが、私はこう考えています。例えば聖変化に使われるカリスは金(ゴールド)を使います。それは金は人間にとってもっとも贅沢なもので美しい物の一つです。極端な話ホスチアが御聖体に変化するとき、安っぽいプラスチックの入れ物やビニールみたいなものに入れるのを想像して下さい。これで御聖体が大切にされてると感じますか?
そして神の家として相応しい物を人間が作ろうと思ったときのことを考えて下さい。または国王陛下や天皇陛下の住む建物を作ろうと思ったとき、どういう家を作ろうと思いますか?馬小屋を作る人はいませんよね?大抵この人たちの建物はすごく豪華です。太古の昔の神殿をご覧ください。異教徒でさえ豪華に自分たちの神様や王のために素晴らしく立派な建物を持っています。ましてやカトリック教会の三位一体の神様のためにいくら豪華に作ってお迎えしようとしても足らないくらいです。そしてバチカンにある《贅沢なもの》のほとんどは敬虔な信者からの寄贈品がほとんどです。信仰心は心だけで納め得るものではありません。それは形となって時代を超えて私達に訴えています。大きな綺麗な教会に行くときその荘厳さに私達は、心を打たれます。人間として神様に対する愛と畏怖の念そして、崇拝と祈りの形が現在のバチカンを形作っていると私は考えています。

以上やや急ぎ足気味ではありましたが、あくまでも一カトリック信者の私個人の考え方としてのお返事とします。ありがとうございました。

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