かなたんの更年期を楽しむブログ♪

ただいま 更年期真っ最中のアラフィフ女デス
自分のこだわり・思うコトなど
独断と偏見で言いたい放題綴ってマス 

風の谷のナウシカ

2019年12月06日 17時57分51秒 | 思い出話

風の谷のナウシカが歌舞伎になったようです(*'▽'

歌舞伎は 我が日本国が

世界に誇れる総合芸術の一つでありますが

ワタシは観た事がありません

バレエの方が好きです・・・(;^ω^)

風の谷のナウシカ

これ・・ワタクシが最も愛する作品の一つであります

中学を卒業した春

初めて1人で映画館(横浜相鉄ムービー)に

観に行った思い出深い映画なのですけど

映画館で この映像を観た時の衝撃は

今でも忘れられません

自分も崖から飛び立ったような錯覚を起こしたりと

まるでジェットコースターに乗っていたかのような時間でした

あんなスピーディーな映像は 当時ディズニーでも

観た事がなかったので

ワタシはすっかり宮崎作品の虜となってしまいました

ナウシカの中でも 特に大好きなシーンが

テトとの出会い

「怖くない 怖くない・・・」

「怯えていただけなんだよね

 あは・・・あははは 

 ユパさま この子わたしにくださいな」

あまりにも有名すぎるあのシーンを

今朝、テレビで

オバサンになったナウシカが

「こわくない」

衝撃が走りました( ゚Д゚)

インパクト強すぎて ヤバいです・・・

演出も とても凝っていて

素晴らしい舞台のようですが

ワタシ的には「・・・」

ナウシカといえば 安田成美の歌も

インパクトありました

本編では一切流れなかった「風の谷のナウシカ」

あの声と歌い方で おおむね合ってはいるんです

なにしろ曲が ものすごく良いので・・

あの 素人的な感じが なんだか素朴で

妙に安らぐんです・・

でも・・・でも

一言言わせて頂くならば

「風の谷のナウシカ 眠る森を飛び越え~

 青空から~ 舞い降り」

たら~

   👆ここです!

ひどすぎる・・・

一気に現実世界へ引き戻されます・・・

「たら」を もう少し上手に歌ってくれたら・・

と、実に思うこと36年のワタシです・・・





米騒動の思い出

2019年07月15日 10時17分19秒 | 思い出話

7月に入って雨ばかりで 全然晴れませんね・・(-_-メ)

ここまでお日様が見れないと さすがにストレスたまってきます・・

暑いのは苦手なので涼しいのは快適なのですけど・・・(-_-メ)

こんなに雨が続くのは1993年以来とのことで

父は 

「昔だったら飢饉だ」

と腕を組みながら外を眺めてつぶやいております( ゚Д゚)

1993年のコメ騒動事件は 今でも忘れず覚えています

1993年の1月に生まれた娘が ちょうど離乳食のもぐもぐ期を迎えたあたりの時期で

0歳児の赤ちゃんにタイ米を食べさせるのはちょっと・・というか

タイ米でおかゆ・・・(-_-メ) マジで無理・・

と・・かなり個人的に困った経験があるのです

しかも ワタシは0歳児の育児に追われ 全くの無収入時期でして

ダンナ様の安ーいお給料で10キロ1万円を軽く超すお米を買うのが 

なかなかツラく・・・ 

7000円の100%タイ米を購入してみたものの

口に入れた瞬間 食べたことのない長細いコメが口の中でバラバラと踊る食感に

「なんじゃこりゃ! 

   絶対飲み込めないし!

と、驚愕したものでした

7000円しても このタイ米を10キロ完食することは出来ませんでした

そのうちテレビで

「タイ米の美味しい食べ方」とかいう特集がしょっちゅう流れ

ピラフにしましょう とか リゾットで とか いろいろ紹介されるのですが

ジャポニカ米で育ったお口は ピラフだろうがリゾットだろうが

米はジャポニカがいいんだよーーーっ!!

と、叫びたくなるほどストレスはMAXに達してしまいました・・・

ジャポニカ100%米を求めて 日本国民(特に都会人)が右往左往し

お得意のコメ屋さんがない人は早々にジャポニカ米を入手する手段を失いました

 👆ワタシ

そのうち 日本米のおかゆの缶詰やレトルトもなくなり 

「パン食べてればいいよね」という順応性あふれる方々も出現し・・

ワタシもパンは大好きではありましたが 

3食パンは いくらなんでも無理でした 

しかも 日本人である娘の離乳には どうしたってコメを・・・と思ってしまうし

いやはや あの年は ホントーに困りましたです

タイ米100%は どうにも食べれませんでしたが

混合米というコメが市場に出回るようになると まあ何とか食べれるレベルの配合でしたので

混合米を買って その年はしのぎました(それでも10キロ1万円前後しました)

3月ころになってニュースで 

なんと国の米倉にコメが余ってるとかいう仰天ニュースを目にし

これまた驚いたことも記憶にしっかり残ってますが・・・(-_-メ)

コメは1万円くらいで購入するのが当たり前の価格という意識が定着したころ

翌年の秋には一気に半額以下まで下がり 値段をみて

「大安売り?!

と、飛びついてしまったのも 今となっては懐かしい思い出です

米がないって ホントに大変です 

お百姓さんには 毎年感謝しなくては・・とつくづく感じたのも

1993年の出来事からです

日本産の日本米が5000円以下で買えてしまう幸せを改めて思い出しました

あの頃は 今よりもっと家計が苦しかったのに

1万円以上のコメを仕方なくですが買っていて

今1万円出したら一流ブランド米が買えるわけだから

そうよ!買ってしまおうかしら!と思いそうになるものの

やっぱり あの時は背に腹は代えられぬ思いで買っていたわけですから

毎日食べる米に1万円は さすがに払えないかなぁ・・ 

よく生活できたな・・と若き日の自分を褒めたいかも・・

と、いう話をバイト先でしたところ

その日のシフトに1993年に主婦だった人が1人もいなくて 

全く共感を得られず これまたビックリしてしまったワタシなのでした 





 




デービット

2019年06月16日 08時59分35秒 | 思い出話

昨日 娘が友達の結婚式に出席したのですが

式が終わった後で 

「デービットがいたの!」

というLINEが入りました

デービット(。´・ω・)? 

そんな芸人いたっけ(・・?

「デービットって誰?」と尋ねると

「ECC!」

(・・? 「イーシーシージュニア!」のあのCMに出てる人?

すっかり忘れ果てていた記憶がよみがえりました

小学校5年生の1年間だけ 誘われて子供達をECCに通わせてたことを!

ワタシは基本的に学校で習うものは わざわざお金を出して習う必要はない!

という考え方でして

芸事というか、学校で習えないものをやるのは賛成ですが

勉強系の習い事に対しては 大変消極的でした

長姉が しつこく誘ってくるので しぶしぶ行かせたわけなのですが

毎週土曜日に 娘(5年)・甥(4年)・息子(3年)の3人組は 

家を出ていく瞬間から もう既にふざけまくっており

案の定 先生の新築のリビングの壁に穴をあけるわ 騒ぐわで

毎週帰ってくるたびに

3人が「〇〇がふざけて先生に怒られたんだよ」と言い合い

    👆全員が違う名前を言うという不思議

成績表にも「もう少し真面目にやりましょう」などと書かれ

堪忍袋の緒が切れたワタシは

わずか1年で辞めさせてしまったというわけなのですが

ECCのお教室は4人1組のレッスンで

そもそも この3人が一緒のクラスだったのが間違いだったのですけど

それよりなにより 

この3人と同じクラスになってしまったお気の毒な生徒さん・・・ 

それがデービットでした

クラスでは自分の好きな英語の名前を名乗ることになっており

彼はデービット、娘はミッフィー、息子はステファン、甥はマーク

といった感じで呼び合っておりました

(この呼び名も ふざけてしまう原因になるんですけど)

デービットは隣りの学区の男の子で娘と同じ学年でした

細くて物静かで穏やかな男の子だったので

うちのうるさい3人組に巻き込まれて 

さぞかし迷惑であったろうと今でも申し訳ない気持ちになりますが

そのデービットが 娘の友達の結婚式に

新郎側の職場の同僚として出席していたそうなのです

娘は 「どこかで見たことがある・・・」と思い

席次表の名前を見て 「あ!この名前はデービットだ!」と

鮮明に思い出し 本名で呼べばいいのに

あろうことか 

「デービットですか?」

単刀直入に聞いてしまったそうです

新郎のテーブルが ざわつき 

「いや・・彼はどうみても日本人だろ この女・・大丈夫?」

という空気とともに 誰彼となく

「違いますよ」と答えたすぐ後で

「ミッフィー!」

と、デービットが返してくれたので娘はヘンな人扱いを

なんとか返上出来たそうです

デービットが記憶力の良い人で助かりました(/・ω・)/

それにしても 物凄い偶然です

こんなことってあるんですね

「デービット」があまりにも強烈な印象を周囲に

与えたのか その後、彼はずっと「デービット」と

呼ばれ続けていたそうです

来週から職場で「デービット」決定ですね・・

ホント―にお気の毒です・・・

うちの娘って 

彼にとっては疫病神なのでは・・・








 



病院ギライ

2019年05月30日 07時04分14秒 | 思い出話

先日 お医者さんについて語りましたが

あれから もう少し思い出しまして

腕の脱臼(というか肩関節が外れた)が治せなかったくせに 

6000円も請求された病院もありました

腕を動かせないのに服を脱いで

レントゲン撮ってこいとか言うだけで 

診もしないし触りもしない( ゚Д゚)

やっとのおもいでレントゲンから帰ってきたら

「まだ治らないの?」

これには 開いた口が ホントにホントに塞がりませんでした

町医者さんは 

ホントにマチマチ(☜ちょっとダジャレ)で こわいデス

といっても 大病院には紹介状がなければ行くことは

出来ません

紹介状ナシ初診料はどんどん増額する一方だし・・・

大病院がいいというわけではありませんが

1人の先生の見解で治療方針が決まるわけではない

という所が 町医者より信頼度が上がるかなぁ・・

と思ったりします

論文発表のための研究材料になっていたり 

その病院の派閥とか 大病院なりの特長もありますが

そうそう 本屋で売ってる「町の名医さん」とかいう読本

あれも怪しい(-_-メ) お金払えば載せてもらえるんじゃないの?

と、ちょっとブラックかなたんは思ってます

ついでに もうひとつ

ワタクシが病院ギライになった理由に含まれる

恐ろしかった出来事を綴りたいと思いますです(-_-メ)

あれは忘れもしない平成5年の1月・・

雪がちらつく寒い土曜日でした

ワタシは初めてのお産を控えた臨月の妊婦・・・

予定日を2日前にして 午後15時を回った頃から

「あれ・・なんか ちょっとお腹が痛いかも・・」

という違和感を感じ始めたのでした

なにしろ初めての経験なので よく分からないものの

しばらくすると 先ほどよりも強く長いキューッ・・・とした

腹痛が・・・ 時間にして10秒くらい・・

でもその間、息も出来ないくらい痛い・・・( ゚Д゚)

これは・・ 陣痛では・・と悟り病院に電話をしました

初産婦だったので 病院側は

「もう少し様子みて」といった回答でしたが

やっぱりキューッッとした息も出来ない痛さが

10分後にこみあげ・・・ 

17時半頃に荷物を持って病院に入ることとなりました

ワタシが通院していた産婦人科は

母親教室でも 呼吸法の練習とかは まず皆無でして

赤ちゃんが勝手に出てくるのを待ちなさい という教えでした

だからお産が近づいても赤ちゃんが時を選んで生まれてくるので

絶対に 安静にしていなさい。お産を進めようとして

歩いたりしてはダメ!という方針を貫いておりました

なぜ、ここを選んだかというと 

ズバリ ワタシが生まれた病院だったから・・

その頃は 先生もまだ若くエネルギッシュだったと思うのですが

ワタシ自身が出産を迎えるころには かなりの御高齢になっており

もちろん土曜の夜なんて いるわけもなく(平日夜もいないと思います)

当直にバイトの先生を頼んでいたようでした

ワタシは病院2階の新生児室のお向かいにある陣痛室に入れられ

そこのベッドで寝かされました

今じゃ考えられませんけど

ダンナ様は陣痛室に入りもせず

さっさと帰ってしまいました(土曜日なのに)

立ち合い分娩などがメジャーになりつつある頃でしたが

なんといっても昭和30年代(それも前半)感が 

そのまま残っているかのようなこの病院・・

「ご主人もご一緒に」・・なんて声をかける気の利いたスタッフは

おりませんでした(-_-メ)

先生が内診をしてくれるものとばかり思っていたのに

一向に現れず・・・ 

なんだかイヤな予感・・・

助産師さんらしい人物もいないし・・・

いるのは不愛想の60歳は余裕で超えていると思われる

看護師さんが3人ほど・・・

初産だから早くても明日の朝でしょ とたかをくくられたのか

様子も見に来てくれません・・・

痛みはどんどん間隔を狭めていき

キュ~という痛みはどんどん長くなっていきました

(我が家は家系的にお産が早いんです!)

この陣痛室 なんと時計もないときてまして

たった1人で時計のない部屋で・・・ 

ワタクシ初めてのお産に怯えながら

いつまでこの部屋にいたらいいの・・・(。´・ω・)?

一体 ワタシのお産は どれくらい進んでいるの?

頭の中は「?」「?」だらけ・・

やっと1人の看護師さんが ようやくやってきたので

「か・・かなり痛いんですけど・・・」と言うと

その看護師さんは 呆れた顔をして首を左右に振り

「あなたの顔には余裕があります!」

と、言い放ち出て行きました( ゚Д゚)

顔の表情じゃなくて

産道の具合などを見ては頂けないものでしょうか・・・

と、思いましたが

「だらしない」みたいに言われた事が ちょっと悲しくて

そうか・・・もっと我慢しないといけないのか・・

なにしろ初めてなので 何も分かりませんから

まだまだなのね・・・と

ひたすら1人で我慢しつづけました

誰も来てくれない 先生も看護師さんも・・・

どれくらい経ったでしょうか・・

のけぞるほどの痛みが ものすごく長くなり 

少し落ち着いたかと思うや否や 間髪入れずに 次の痛みが

襲ってきて これはもうだめだ!と

ここでやっと ワタシはナースコールを押したのです

「・・・・」

誰も来ません( ゚Д゚) 

てか鳴らない?

これは大変だッ!と思い

隣りのベッドのナースコールを押そうと手を伸ばすものの

痛みの緩急の間隔がほぼ無いので

隣りのベッドが果てしなく遠い(/・ω・)/

やっとの思いで 隣りのベッドに乗り移り 

ブザーを力の限り何度も押しました

「・・・・・」

まさかの応答ナシ!!( ゚Д゚) ブザー切れてます!(/・ω・)/

これはアカーン!!

「誰か!誰か来てくださいーーーッ!!」

声の限りに叫びまくったものの

お向かいの新生児室の赤ちゃん達の泣き声が

ギャーギャーやかましく

痛みを堪えて絞り出すワタシの金切り声は

かき消されていくばかり・・

と、突然! お腹の底で ゾンビのようなもの(☜娘)が

私の骨盤をギギギギィーっと押し開き 

さらには背骨から尾てい骨をギュムムムムーーーッと強烈に押しながら

這い出てくるような感覚が!!

「やばい!!出てくる!!」

と思った瞬間

「うるさーいッ!!」

と怒鳴りながら看護師さんが現れました

ワタシは

「生まれちゃう!生まれちゃう!」と叫びながら

ズボンとパンツを自分で下ろしました

「なにやってんの!アンタはー!」

と怒った看護師さんに

ワタシは必死に

「出ちゃう出ちゃう!!」と叫びまくりました

パンッ と何かがはじけたかと思うと

何かが産道から流れ出るのが分かりました

看護師さんが

「あっ!破水だわ!!」

そこで やっと事態を飲みこんで

ワタシ以上に慌てはじめ

「なんで 

もっと早く呼ばないのツ!」

     は?( ゚Д゚)

ブザーの

スイッチ切ってて言います?ソレ・・

と、思う余裕もないワタシ

とにかく この人にすがるしかありません!!

看護師さんは 

「分娩台に行くわよ!」

破水も終わって もう子供が旋回を始めてるのに

ワタクシ 立てるハズがありません!

「立てません!」

「キィー!!だらしない!

 歩くったら歩くのよッ!!」

と、担ぎ起こされ 約5メートル先の分娩室へむりくり歩かされ

「しっかりしなさいよ!母親になるんでしょッ!!」

と、さんざん怒鳴られながら分娩室に入ると 

分娩台は高すぎて

「乗れません!」

「キィーッッ! 

 乗りなさいィィィ!」

と、ものすごい勢いで分娩台の上に転がされました

「先生先生先生は

  まだなのぉ?!!!」

2,3人の看護師さんがバタバタと走り回って

ワタシは もう何が何だか ただただ怖くて

出したくないのに勝手に悲鳴が出る状態・・

やっと当直の見たこともない先生がやってきて

「なんでもっと早く呼ばないの?」

・・だから

  呼びましたから!!( ゚Д゚)

「あーあーあーあー

 この人 へんにイキんじゃったねェ 中がビリビリだ」

 👆いや・・歩かされたからでは・・・

恐ろしい体験後の興奮とパニックで 悲鳴を上げてしまうワタシに

「うるさい人だねぇ」

「だらしないねぇ」とさんざん怒られ

「すみません」「すみません」をなぜか連発するワタシ・・

分娩台にのって わずか数分で娘は無事に生まれました

が・・その後、ビリビリになった産道を縫うのに約1時間以上かかり

その間ワタシは先生にずっと怒られまくり・・・

「次、叫んだら もうやめるからな!!」

痛いから叫んでるんじゃないんですよ ホントに

恐怖を味わった後って パニクってしまうものなんですよ・・・

勝手に声が出てしまうんですよ・・・

前代未聞のだらしない妊婦というレッテルを貼られ

ワタシの初産は終わりました

これ・・

ワタシが悪いと思います?( ゚Д゚)

 

2年後、ワタシがここではない病院

長男を出産したことは言うまでもありません・・・

それはそれは 手厚いサポートをして頂き

「ヒーヒーフーよ」「そうそうその調子!」と

先生が来るまで助産師さんがずっとそばで待機してくれました

お腹に赤ちゃんの心音が聴ける装置までつけてくれて・・当たり前?

見事なまでのスムーズなお産をさせて頂くことが出来た上

その場にいた看護師さん助産師さん全員の拍手まで頂き

(夕方の交代時で2倍の数の看護師さん達がいました)

とっても幸せな気持ちで

ワタシは息子と対面できたのでした


娘の出産を思い返すたび 

なんで あの時ワタシは謝り続けたんだろう・・

と、 今でも釈然としない気持ちがこみあげますが

ワタシの産道がビリビリになったとしても

娘自身は何事もなく生まれてこれたので(☜ここが一番大事)

まあ 今となっては いいネタ話(。´・ω・)?

てか 

今の時代だったら

 アウトでしょ!この病院

  (もうありません・・)












 






 

 


お医者さん

2019年05月29日 06時47分55秒 | 思い出話

昨日から風は強いし雨はヒドイし

川崎の事件報道に驚くしで・・・

なんだか気分が思いっきりブルー・・・

暗いと気分も暗くなってなんだか不安になったりしますよね

姪っ子の赤ちゃん(来月1歳)が2日ほど前から40度の高熱に

うなされているとのことで 突発性発疹かな? 

と、様子を見ているところだそうです

ワタシは娘が とにかく体が弱く 大変病弱だったので

40度の熱は大人になった今でさえも ちょこちょこ出しておりますが

どれだけ経験しても40度超えはやっぱりコワい・・

慣れません・・(--〆)

娘は突発性発疹に 生後4か月でかかりました( ゚Д゚)

高熱で一番コワかった思い出は 

娘が3歳前に喘息から肺炎(☜いつもですが・・)を起こし

さらにインフルエンザ(・・?の疑いもあるとかないとかで

(四半世紀前はインフルエンザの検査って まだ出来なかったんだなぁ

 と、今さらながら思いますが・・・)

入院したものの

インフルエンザは抗生剤が効かない、と言われまして

とにかく 40度の熱が下がらない状態が2週間以上続いたのです

食欲もないので 体はどんどんやせ細り(もともと細いのに)

3歳直前でMのオムツがゆるゆるで漏れてしまうほどになった時には 

本気でヤバい・・と思いました

家に帰っても 電話が鳴るたび、

「病院からかもしれない( ゚Д゚)」と思ったり

もーいつ呼び出されるかと思うと眠れぬ日々でした

担当医の先生に

「こんなに痩せちゃって・・熱も下がらないし

 死なないでしょうか・・」とダイレクトに聞いてしまいましたが

「点滴してますから 死にはしないと思いますけど・・・」

などと言われ

・・点滴してれば死なないの(・・? 

・・そういうものなの?

・・どうなのよ( ゚Д゚)

と、心の叫びは徐々に増し

ワタシの精神状態も かなりヤバい感じに仕上がって行きました

そんなころ、病棟の夕食にミカンが出されました

全然食べれない娘には

離乳食もどきの超不味そうなメニューが続いており

ミカンはつきませんでした

オレンジ色のミカンをみて 食べたそうにする娘をみて

隣りのベッドのお子様のお母さまが気の毒がって下さり

「食べて。私、実は今みかん持ってるの」と

バッグからミカンを差し出してくれました

小児病棟ですから これは絶対に禁止されていることで

病棟食以外のものを食べさせるのはご法度でした

それは分かっていたものの そのお母さまのご厚意を

無にするのも申し訳なく・・

そして何より娘がとても喜んでミカンを受け取り 

なんと!ぺろっと笑顔で「おいしい」「おいしい」といいながら

食べたので

「食べた!食べれた・・・」

と、ワタシは不覚にも涙が出てしまいました(/ω\)しくしく

とりあえず 口から水分をとれた・・ 良かった(>_<)・・・

と、喜んだのもつかの間

翌日、とってもコワい男の看護師さんが

超コワい睨み顔で

「娘さん 昨夜ミカン吐きました」

・・・・・

ワタシと看護師さんとの間に寒すぎる空気が漂ったのは

言うまでもありません

さて・・一向に下がらない40度の高熱・・・

娘の体力も限界に近い状態で 

ワタシの気分も超絶お先真っ暗状態がさらに突き進んだある日・・

担当医の先生がお休みし、代わりの先生がたまたま代診で

娘を診てくれることになりました

先生はカルテをみるなり

「ん?こんなに長く熱が下がらないの? 

 薬変えなきゃダメじゃないか!!」と言い放ち

「お母さん 薬変えましたから」

と、面会時にやって来て

一言、言うや否やさっさと去って行きました

そして その翌日 たった1日で娘は一気に解熱しました

熱が下がったことはとっても嬉しかったんですけど

どういうこと?( ゚Д゚)

 

と、心で叫んでしまったことは言うまでもありません

娘は喘息にアトピーに中耳炎に結膜炎に近視に・・と

いろんな病院にお世話になって育ちまして

いろんな先生に診てもらってきましたが

ホントーに いろーーーーんな先生がおりました!!

耳鼻科のくせに中耳炎が分からなかった先生もいますし

👆別の病院に終了間際に滑り込んで診てもらい

 鼓膜切開したら40度の熱が一気に解熱しました

(先生の見立てに見切りをつけるもの結構勇気がいるものです)

いらないような薬まで、これでもかってくらい

たくさん処方する先生もいますし

ろくに聴診器も当てずにうんちくだけ語る先生もいました

そういう経験が 

んどんどんどん

ワタシを病院ギライにさせていきました

そして独自の健康法を追究し続ける今の暮らしが確立していったのでした

         👆てか それ一番ダメなヤツですけど・・・