「結果を出せ」「目標未達は許されない」「数字を作れ」ーそんなことを日々言われ続けた時期があった。前世紀の終わりから今世紀の初めころがそのピークだった。当時私がいた会社では「お客様第一主義」を謳いながら、こんな言葉が上司や“本部”から飛んでくることは日常茶飯事だった。高圧的に、時に乱暴に、ヒステリックに。営業社員の中には数字至上主義に神経をすり減らし、振り回され、やがて社会の常識や職業倫理からずれて行った者も少なくなかった。そして今では許されないようなコンプライアンスに反する行為も、数字を出すことで上司から黙認された。むしろ賞賛されることすらあった。「営業殊勲賞」などの表彰や、「高いパフォーマンスを出す〇〇方式」なるものが、社内の営業部門を中心にもてはやされた。その後、それらの中には、偽装や虚構が判明したものもあった。数字に追われ、振り回され、人格までも数字で評価されるかのような風潮もあった。
もちろん、きちんと努力してしっかりと結果を積み重ねていた社員もいた。しかし、そうでない社員も少なくなかったことは、後に会社自体が監督官庁から厳しい行政指導を受けた事実からも明らかだ。私も“そうでない”ことの方が多かった社員の一人だった。ただ、私個人としては、会社の行政処分に伴い一定の処分を正直に受けたのを機に仕事に対する向き合い方を是正し、その後別の事情や思いもあって退職したことで人生を軌道修正できたと思っている。
数字は、物事の計測や分析などに必要不可欠であることは言うまでもない。統計や調査のデータだけでなく、論理的な思考や客観的な指標やエビデンス評価など、様々な場面で使われる。また、私自身、数字という目標に執着して仕事をした経験の全てを否定しているわけではない。目標達成して評価された時の自己肯定感。逆に達成できなかった時の劣等感など。今の仕事に生かされている部分もある。一方、数字では表せない人の感情や葛藤、計算通りに行かないプロセス、そして結果がすべてではないことを知った。数字は一つの事実を示すものだが、必ずしも現実を表してはいない。状況や捉え方によってその意味が変わってくることを体感した。
最近、特にメディアの報道などを見聞きしていると、数字の扱いが粗雑で、稚拙で、盲目的と思われることが多い。企業の不祥事や行政処分の要因に、「数字至上主義」の負の側面があったと指摘されることが今だにある。数字を過信したり偽装したりしたことが社会の不安や不信を招く事件も後を絶たない。メディアなどの数字の発信者の偏った思考、利己的な意図、無責任が見え透いて感じられることもある。〇〇者数、〇〇率、〇〇回数・・・など。恣意的に不正確で不公正な数字をさも真実や正論であるかのように乱用している者もいると思われる。社会が混沌とした中ではやむを得ない面もあるが、いつの世にもそういう輩や曲学阿世の徒はいるのだろう。
とは言え、私のような数字に強くない凡人は、どうしたら今後も数字に振り回されずにすむのか。改めて考えてみた。
一つは、自分の判断や行動の軸を持つこと。私自身、計数的な思考や論理的な判断より、情緒的な思考や感覚的な判断をする傾向が強いので、現場感覚を大事にするという軸になる。現場感覚とは、仕事の現場や地域の状況に対する感覚だけでなく、周囲の人の様子や話を見聞きして実感するもの。
もう一つは、数字の持つ意味や影響を冷静に考えること。自分の暮らしや仕事、家族や周囲の人にどんな影響があるのかという視点で考えてみること。メディアやSNSの情報は、発信元を確認して、鵜吞みにしないか無視すること。そして、自治体や一部の公正で客観的なサイトなど信頼できる所が公表している数字をもとに考えてみること。できるだけポジティブな情報も捉えてみること。そして、考えすぎないことと思う。
私のこの春は、新年度の仕事の予定も立ってきた。心機一転。心や行動をポジティブに転じるには、できるだけ多く「人に会い、本を読み、旅に出る(=現場に行く)」こと(出口治朗さん)を心がけたいと思う。その中で、身近な数字を仕事やくらしを見直し、より良くする目安として役立てたいと思う。自分の軸と倫理観をもって働くことが仕事へのプライドにつながるし、人と関わりながら暮らすことが人生をリアルにすると思う。