ライフ&キャリアの制作現場

くらし、仕事、生き方のリセット、リメイク、リスタートのヒントになるような、なるべく本音でリアルな話にしたいと思います。

147.数字

2021-03-25 21:21:31 | 時代 世の中 人生いろいろ
 「結果を出せ」「目標未達は許されない」「数字を作れ」ーそんなことを日々言われ続けた時期があった。前世紀の終わりから今世紀の初めころがそのピークだった。当時私がいた会社では「お客様第一主義」を謳いながら、こんな言葉が上司や“本部”から飛んでくることは日常茶飯事だった。高圧的に、時に乱暴に、ヒステリックに。営業社員の中には数字至上主義に神経をすり減らし、振り回され、やがて社会の常識や職業倫理からずれて行った者も少なくなかった。そして今では許されないようなコンプライアンスに反する行為も、数字を出すことで上司から黙認された。むしろ賞賛されることすらあった。「営業殊勲賞」などの表彰や、「高いパフォーマンスを出す〇〇方式」なるものが、社内の営業部門を中心にもてはやされた。その後、それらの中には、偽装や虚構が判明したものもあった。数字に追われ、振り回され、人格までも数字で評価されるかのような風潮もあった。
 もちろん、きちんと努力してしっかりと結果を積み重ねていた社員もいた。しかし、そうでない社員も少なくなかったことは、後に会社自体が監督官庁から厳しい行政指導を受けた事実からも明らかだ。私も“そうでない”ことの方が多かった社員の一人だった。ただ、私個人としては、会社の行政処分に伴い一定の処分を正直に受けたのを機に仕事に対する向き合い方を是正し、その後別の事情や思いもあって退職したことで人生を軌道修正できたと思っている。

 数字は、物事の計測や分析などに必要不可欠であることは言うまでもない。統計や調査のデータだけでなく、論理的な思考や客観的な指標やエビデンス評価など、様々な場面で使われる。また、私自身、数字という目標に執着して仕事をした経験の全てを否定しているわけではない。目標達成して評価された時の自己肯定感。逆に達成できなかった時の劣等感など。今の仕事に生かされている部分もある。一方、数字では表せない人の感情や葛藤、計算通りに行かないプロセス、そして結果がすべてではないことを知った。数字は一つの事実を示すものだが、必ずしも現実を表してはいない。状況や捉え方によってその意味が変わってくることを体感した。

 最近、特にメディアの報道などを見聞きしていると、数字の扱いが粗雑で、稚拙で、盲目的と思われることが多い。企業の不祥事や行政処分の要因に、「数字至上主義」の負の側面があったと指摘されることが今だにある。数字を過信したり偽装したりしたことが社会の不安や不信を招く事件も後を絶たない。メディアなどの数字の発信者の偏った思考、利己的な意図、無責任が見え透いて感じられることもある。〇〇者数、〇〇率、〇〇回数・・・など。恣意的に不正確で不公正な数字をさも真実や正論であるかのように乱用している者もいると思われる。社会が混沌とした中ではやむを得ない面もあるが、いつの世にもそういう輩や曲学阿世の徒はいるのだろう。

 とは言え、私のような数字に強くない凡人は、どうしたら今後も数字に振り回されずにすむのか。改めて考えてみた。
 一つは、自分の判断や行動の軸を持つこと。私自身、計数的な思考や論理的な判断より、情緒的な思考や感覚的な判断をする傾向が強いので、現場感覚を大事にするという軸になる。現場感覚とは、仕事の現場や地域の状況に対する感覚だけでなく、周囲の人の様子や話を見聞きして実感するもの。
 もう一つは、数字の持つ意味や影響を冷静に考えること。自分の暮らしや仕事、家族や周囲の人にどんな影響があるのかという視点で考えてみること。メディアやSNSの情報は、発信元を確認して、鵜吞みにしないか無視すること。そして、自治体や一部の公正で客観的なサイトなど信頼できる所が公表している数字をもとに考えてみること。できるだけポジティブな情報も捉えてみること。そして、考えすぎないことと思う。

  私のこの春は、新年度の仕事の予定も立ってきた。心機一転。心や行動をポジティブに転じるには、できるだけ多く「人に会い、本を読み、旅に出る(=現場に行く)」こと(出口治朗さん)を心がけたいと思う。その中で、身近な数字を仕事やくらしを見直し、より良くする目安として役立てたいと思う。自分の軸と倫理観をもって働くことが仕事へのプライドにつながるし、人と関わりながら暮らすことが人生をリアルにすると思う。
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146.笑顔のリアリスト

2021-03-19 19:38:17 | 時代 世の中 人生いろいろ
  ヨガ教室が再開した。ヨガと言っても、呼吸や体の状態に意識を向けながら無理せず心身をほぐすような内容だ。座った前屈がほぼ直角の私でも、マインドフルネスの感覚で時々参加している。昨年に続き、2度目の休止期間が明けて、少人数で再開された。

 教室では、終盤に瞑想の時間がある。先生から、瞑想の間自分にとって神聖なものを思い浮かべるようにと言われる。雑念が沸いたら、それを脇に置いて、何も考えずゆっくり呼吸に集中するようアドバイスされる。

 私が、およそ2か月ぶりの瞑想で心に思い浮かべた、というより浮かんできたものは、身近な人の笑顔だった。行動の自粛を強いられていた間にも、食事、雑談、仕事など、日常のひと時に見せた笑顔だ。不安や迷いの中で、少しぎこちない笑顔、相手を気遣う笑顔、自然とこぼれた笑顔など。呵々大笑とか満面の笑みというものではない。そして、そのような笑顔を見せた相手に、私自身はどんな顔をしていたのだろうと振り返ってみる。固い表情が緩んだこともあれば、渋面のままのこともあった。こちらの笑いにつられて、相手も笑ったのかと思うこともある。

 リアリストとは、現実主義者という意味だ。どこかクールで冷徹。感情に左右されず、良くも悪くも理論的で計算高く、完璧主義のイメージもある。政治家や官僚、ビジネスマンなど、現実社会の中で葛藤しながら働いている人間もいれば、メディアやネットの中の「専門家」や訳知り顔の正体不明の者など。悲観論や批判ばかりだったり、虚栄心や自己顕示欲だけが見え透いていたり…。その実態は、有象無象の輩もいて、まさに玉石混交だろう。

 実際のリアリストは、現実の事態に即して物事を考え、対処をする。悲観も楽観もしない。まじめで計画性が高いという特徴があるらしい。そう考えると、混沌とした重苦しい空気の中でも、笑顔という他者への気遣いや心の余裕を忘れず、何気ない日々をまじめに粛々と生きている人。良い時も苦しい時も、なるべく右往左往したり人のせいにすることなく、自分が今できることを懸命にする人。先が見通せなければ、今日するべきことを計画的にする。起床、睡眠、食事、あいさつ、仕事、家事。あたりまえのことをあたり前にする。自身の弱さや痛みだけでなく、周りの人にも心の揺れや痛みがあるという事実に目を向けられる人。時には笑顔という心の手を差し伸べられる人。現実にただ追随するだけでなく、現実と折り合いをつけながら生きている。そんな人こそが、くらしや仕事を支えているリアリストではないかと思う。

 「笑顔のリアリスト」は、知恵も感情も、強さも弱さもある生身の人間。
瞑想しながら、そんな身近な人の笑顔がいくつも思い浮かんでくると、呼吸が暖かく軽くなった。そして、リアルな明日に意識が向いた。
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145.働く意味に思いをはせる

2021-03-08 11:01:29 | 仕事 キャリア ライフキャリア
  「おつかれさまでした」と、私は思わずなじみの居酒屋店主をねぎらいました。時短営業期間が終了した直後に、久しぶりに訪れて帰る時のことです。客がほぼいなくなった店で、店主はこう言って苦笑しました。「十年分休みましたからね。やる事がないから、おかげで家中がきれいに片付きましたよ。」
 お店を始めて20年。家族経営の小さな店は、ほぼ年中無休でした。しかし、店を開けても客が来ない、そうなると仕入れが難しいと、店を閉めることにしたのです。店主は疲れた目でこう続けました。「休業の補償金はもらったけど、仕事ができないことがこんなにしんどいとは思わなかった。」と。

 内閣府の「国民生活に関する世論調査」によると、働く目的の一番は、「お金を得るため」です。次に大きいのが「生きがいを見つけるため」となっています。仕事や働き方に対する思いや考え方は人それぞれです。仕事内容や職場環境、年齢や経験年数等によっても違います。
 私は、この店主にとって仕事は生きがいで、お金を得て家族と生きて行くためだけではなく、仕事を通じて自分を活かすために働いているのだろうと感じました。
 この春から新しい環境の中で仕事をスタートする人、心機一転して仕事探しを始める方。そのような方々は、この機会に「何のために働くのか」ということに思いをはせてみましょう。もし働く目的が分からなければ、やりたい仕事を探すより、できる仕事を始めてできるだけ続けてみましょう。困難や不安なことがあっても、そうする事で働く目的や自分が活かせる仕事が見えてくることもあるのです。仕事のやりがいや生きがいは、与えられるものではなく自分で見つけるか、時間をかけて気づくものだろうと思います。

 その後再びその店を訪れた時の帰り際です。座敷からお会計を頼むと、8席ほどのカウンターに並ぶお客さんに出す料理を作る手を止めて店主が言いました。「20年この仕事が続いたのは、若い時たまたまこの業界に入って修行して、これしかできないと思って独立して店持ってやっているうちに、好きな仕事になったからなんでしょうね。」勘定を渡す時、マスクの上の店主の目には力が戻っていました。私はいつものように「ごちそうさま」と、店を出ました。「ありがとございましたー。」と、大きな声が背中に響きました。

 多くの人は、生きるために働くだけでなく、働くために生きているのだろうと感じ、胸が熱くなりました。
 在宅ワークの長い友人が言いました。「人と会うストレスよりも、人に会わないストレスの方が大きくなった。」と。


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144.歩力(ふりょく)

2021-02-21 18:19:16 | 時代 世の中 人生いろいろ
 「歩」という文字には、読み方によって次のような意味がある。
  

 この1年を振り返って、これから大切に思うことの一つに「歩力」(ふりょく)がある。「ほりょく」と発音すれば、文字どおり「歩く力」の意味。「脚力」の方がわかりやすいかもしれないが、介護の分野で使われているようだ。

 「ふりょく」と発音する「歩力」という言葉は辞書にはない。自主企画のセミナーのテーマを考えていた時に、私の知人が思い付きから造った言葉である。その意味を、辞書の解説をもとにイメージしてみた。

ー先走ったり、浮足立ったり、右往左往することなく、一歩ずつ前へ歩く力。時につまづいたり、逆風に立ち止まったりすることはあっても、足元を見ながら一歩ずつ進む力。ー

  周囲の状況を見ながら、他者への配慮をしつつ、自身の判断で淡々と、粛々と、平然と歩く。美空ひばりの「川の流れのように」の歌詞の一節にもあるような凸凹道や曲がりくねった道、地図さえない道でも、歩けない(できない)理由をもっともらしく語るより、どうすれば歩けるか(できるか)を考える。赤信号では立ち止まる。黄色なら注意する、雨が降れば傘をさし、靴を履き替える。そうした、あたりまえのこと、できることをしながら歩く。
 
 でも、それは一人ではなかなかできない。やはり伴走者ならぬ「伴歩者」がいてほしい。共に歩いてくれる者が一人でも多くいれば、共に歩き抜くこともできる。そして、時には伴歩者に手を差し伸べる。たとえ途中で方向が違ってきたとしても、一時期でも共に歩いてくれる人を大切にする。そんな姿勢が大切に思える。

 世の動きの先頭を走っているつもりの者や、周囲に同調しているつもりの者が、気づいたら牛歩に追い抜かれていて、大きな潮目の変化からも取り残されていることもある。ウサギと亀の話しの教訓は「ウサギはカメを見て、カメはゴールを見ていた」ということらしい。つまり、油断したり周囲に惑わされたりすることなく、自分の目標に向かって着実に前に進んだ者が、結局早くゴールにたどり着くということ。

 将棋の駒の「歩」は、前に一歩づつしか進めないが、敵陣に入ると「金」に成る。「歩力」とは、そんなイメージの力とも感じられる。
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143.元気な高齢者

2021-02-15 07:04:21 | シニア 人生100年
Kaさん。60代後半の男性。時々行く日帰り温泉施設でたまに会う。先日、半年ぶりくらいに湯舟で会った。湯気でよく見えなかったのだが、白髪筋で肉質の男性が軽く右手を挙げて「おっ、久しぶり」と声をかけてくれ、湯船に入ってきた。少し離れたところに体を沈め、すぐに目を閉じた。私も目を閉じてしばらくすると、いつの間にか先に出ていた。Kaさんは、確か7,8年前に、設備工事関係の会社を定年退職し、再就職のために職業訓練を受けに来られていた時に、私がその訓練生の就職支援を担当していたことから知り合った方だ。それ以来、会うこともなかったのだが、数年前にソバ屋で偶然声をかけられて以来、時々温泉施設で会う程度だ。風呂の中ではマスクをしないので、今はお互いに気を使って、あいさつ程度で会話はしない。

Naさん。来年から後期高齢者。首都圏在住。サラリーマン時代に世話になった取引先の社長。長く掛けている保険に関しておよそ30年ぶりに電話がかかってきた。声も話し方も変わっていなかった。当時は、気性が激しい面もあったが、いつも前へ前へと、上へ上へと向かおうとされていた記憶がある。かと言って、決して順風満帆だったわけでなく、いろいろな衝突や挫折もあったように思う。ただ、一つ言えることは、今も仕事をしているということだ。そして、Naさんは、いまも勉強してチャレンジしようとしている仕事の話を、あの頃と同じような口ぶりで話してくれた。まさにリカレントだ。そして、「私に言わせりゃ、60、70歳なんて小僧だよ」と喝破して笑った。あの頃の生き方を今も貫いているのかと思うと、胸が熱くなった。

Kuさん。身近なところの後期高齢者の知人Kuさん。大手企業を定年退職した後も、自力で再就職先を次々と見つけ出し、一昨年まで働いていた。そこを辞めるときには、もう仕事は疲れたからしないといって、たまに会うと認知症予防パズルの話などを聞かされたものだった。ところが、最近になって家にいても暇だからと再就職先を探し始め、今度私が講師をする再就職支援のセミナーにも参加されるという。仕事が見つかるかどうかわからないが、それでも何かできる仕事を探そうという心意気には敬服する。

 他にも、おととしこちらに遊びに来られた大都市圏に住む古希を過ぎたMiさん。(当ブログ109.再会)大変な時期なのに、年賀状には「お元気ですか?また行きます。」とひとこと書き。一回り以上も年下の私に、離れて何年たってもこの気遣いだから、若いころは結構モテた。
 Moさんは、60代後半で小さなシステム関係の会社を経営されながら、日本各地を飛び回っておられる。それだけでなく、四国八十八か所巡礼ももう何週も繰り返し、もうすぐ「先達」の資格が得られるそうだ。服装には嫌みのないおしゃれ感がある。
 
 私の年齢で、キャリア支援や研修講師などの現場で仕事をしていると、自分より年下のスタッフや関係者と協働したり連携したりすることが多い。だが、最近、時節柄「特に高齢者に配慮を」と言われていることに、どこか違和感を感じることがあるのは、周囲に元気なシニアが少なくないと感じていたからだろうと思う。確かに、医療・介護や福祉の支えや、自立した生活や経済面での配慮が必要な高齢者は今後も増えるだろうが、「配慮」という点では相手の年齢は本来関係ないはずだ。シニアに「高齢者」というレッテル貼りをして、配慮が遠慮になったり、敬意が敬遠になったりしては、時代の流れに逆行するのではないか。社会が息苦しくなるだけではないかと思う。

 人生の先輩方の中にもいろいろな人がいて、様々な生き方をされている。元気なシニアでも、同じ人間である以上、個人差はあれ誰も老いには逆らえない。若い頃にできたことでも、できなくなることもある。ミスや時間がかかることも増えるだろう。最近のニュースを見て感じたことだが、仮に相手が社会的地位があって嫌いなタイプの高齢者だとしても、本人の悪意や故意がない一部の失言や態度を敵意を持って非難したり、その人格や人生までも容赦なく否定したりするようなことを、それが正義であるかのように振る舞うのはやり過ぎで、誰も何も得るものはない。おそらく、そういうことをする人物の方が、いずれ「迷惑老人」とか「勘違い人間」と批判されるべきはないか。

「多様性」という言葉が注目されつつある現在、高齢者が社会のマイノリティーだった時代は終わっている。日本の高齢化率(65歳以上)は、約28%。地方では3人に一人以上が高齢者という現実もある。サザエさんが生まれた時代、磯野波平は54歳という設定らしいが、現在、54歳で波平のようなキャラクターやイメージ人はどのくらいいるのだろうか。 

 上記の私の周りの人生の先輩方は、今は昔の肩書や地位がなくても、失礼な言い方だが、世間周知の功成り名を遂げたと言われなくても、地に足つけて自分の人生を生きている市井の人々だと思う。皆に共通しているのは、ご苦労を乗り越えられたこと、そして年を重ねることで他者に寛容になったことではないかと思う。お顔にそう書いてある、声にそれがしみ込んで
いるような気がする。

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142.創業62年の店で

2020-11-21 14:31:02 | 仕事 キャリア ライフキャリア
                                           
 創業62年のバーに行った。カウンターのみ10席ほど。細身で寡黙で職人気質に見えるマスターと、小柄で眼鏡をかけた奥様。二人とも白いシャツを着ている。マスターの首には黒い蝶ネクタイ。奥様の顔には人懐っこい笑顔。私が生まれるずっと前から、マスターはこの場所でバーテンダーとして生きてきた。昭和の半ば、戦後20年近くが過ぎ高度成長期の始まるころに、若干二十歳で店を始めたことになる。

 この店のメインはハイボール。「濃いめのハイボール」とか、「伝説のハイボール」とも言われている。10年ほど前に数回行ったことがある程度なので、酒の蘊蓄を語るつもりはないが、久しぶりに飲んでみて「あ~なんだかうまい」というような、深く柔らかい味わいを感じた。普段ハイボールは飲まないせいか、そのイメージや味の記憶とは違っていた。作り方は至ってシンプルに見える。グラスにウイスキーを入れ、氷を入れ、ソーダ水を注いでマドラーで軽く混ぜるだけ。それなのに、一杯のつもりがいつのまにか四杯飲んでいた。つまみはポップコーンだけなのに。

 マスターは62年間ほぼ毎日店を開け、ハイボールやカクテルを客に出し続けてきた。奥様は、人懐っこい笑顔と方言交じりの会話で客の相手をしてきたのだろう。その変わらない姿勢を想うと、癒される思いがした。お二人の姿勢だけでなく、店のたたずまい、一枚板のカウンター、棚に並んだボトル、灯り、程よい柔らかさの椅子、壁の色紙や客の服を掛けるフック、黒電話など。随所にお二人の歴史が染みついているようでいて決して押しつけがましくなく、居心地が良い。また、客も節度を持って、それぞれ楽しみ方で酒と会話と時の流れを味わっている雰囲気がある。

 久しぶりに店をのぞくと、マスターは白いマスクを、奥様は透明のフェイスガードをしていた。席はほぼ満席だったが、丁度3人組の中年客が「私たちもう帰りますから」と席を空けてくれた。少し待って座って「三つください」と注文すると、マスターが黙ってカウンターにグラスを並べて目の前でハイボールを作り始めた。1分もかからなかっただろうか。前にコースターとハイボールが置かれた。乾杯して一口味わったら、すぐに何か温かいものが胸の中に広がる感じがした。初めて来たという連れが、「あ~おいしい。」と言った瞬間、マスターがちらっとこちらを見て満足げな目をした。すると、奥様が「あなた初めてじゃないよね。声でわかるのよ。」と私に声をかけてきた。話してみると本当に覚えていてくれていたことがわかり、今度は少し胸が熱くなった。「男の人のことは良く覚えているのよ。」と奥様が笑った。

 三杯目の頃だったろうか。ふと、また来れるだろうかとの思いが頭をよぎった。その時、出張の一元客らしき男性が店の写真を撮って良いかと尋ねると快く応じていた。こちらも、マスターの手のあいたころを見計らって頼んでみると、お二人がマスクとフェイスガードをはずして並んで写真におさまってくれた。創業半世紀以上のいわゆる老舗に行くことはあっても、その創業者自身の仕事ぶりや人柄に直接触れることなど滅多にないだろう。そう考えると、心から敬服する思いだった。

 帰り際、マスターが顔を上げて「ありがとう」と声をかけてくれた。「久しぶりに来てよかったです。また来ます。」と、自然に言葉が出てきた。Since1958。。」ぼんやりとした温かい光の中にお二人の人生が映し出されているようだった。

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141.人生は勝負?

2020-11-05 16:28:56 | 時代 世の中 人生いろいろ
 「勝ち組 負け組という言葉がある。私はこの言葉が大嫌いだ」 TVドラマ「半沢直樹」の中で、主人公の半沢が言い放ったセリフだ。「どんな会社にいても、どんな仕事をしていても、自分の仕事にプライドを持って日々奮闘し、達成感を得ている人のことを、本当の『勝ち組』というんじゃないかと俺は思う。」私も共感したセリフの一つである。

 世間には、勝ち負け、優劣、白黒等、勝手に二分したがる者がいる。「勝ち組、負け組」「幸せか、不幸か」など、雑誌やネットメディアなどでもよく見かけるレッテル貼りのタイトルだ。だが、中身は陳腐で、日々の仕事や暮らしを地道に紡いでいる多くの人々には無意味な内容がほとんどだ。こんなコンテンツに金を使うくらいなら、目の前のことや周りの人を大切にすることを考えた方が良い。

 勝負事をすべて否定するつもりもなければ、幸福追求や金儲も人それぞれの生き方だから、どうしようと個人の自由と責任だと思っている。ただ、そもそも勝負に参加していない者まで巻き込むような偏見やレッテル貼りには嫌悪感を持つ人々もいる。これは、私のようなコンサルティングや講師を仕事としている者も心掛けた方がよいことだと思う。「勝ち組になる戦術」とか「幸せになる方法」とか、講師の自己満足にすぎないような話も、関心ある人は聞いてもいいだろうが、仕事も人生もそんな簡単なものではないだろう。私も、勝ち組とか負け組とか、幸せとか不幸とか、自分の人生に関係のない他人に言われたくはない。

 先日、首都圏の終電の時間が30分程度早まるというニュースがあった。都心の駅近くの飲食店などは影響があるのかもしれないが、世の中の変化に合わせて商売をして行くしかないだろう。一方、滑稽に思えたのが、一部のサラリーマン。仕事が終わってから飲む時間が減るとコミュニケーションが取りにくくなるとか。終電は早まったとはいえ午前零時頃。30分早く仕事を終わらせるとか、家の近くで飲むとか、それくらいの‘発想の転換’はできないものか。これも時代錯誤のマスコミが大げさに取り上げただけのこととは思うが。

 昨年の「老後2000万円問題」もそうだ。マスコミの問題の本質を外した煽り報道によって右往左往した人も都会では少なくなかったようだが、地方にいるとしらけた目で見ていた。もちろん、老後のお金はあった方が良いし、若い人なら早くから計画的に資産形成しても良いだろう。ただし、忘れてはいけないのは、お金は普通働くことで得られるということ。資産運用の基本は、長期、分散、積立という三原則があるということ。誰しもお金は大事だからこそ、自分や家族が得られるお金の範囲で日々を大切に暮らして行けばいいと思えば、大方気が楽になると思うのだが。実際、2000万円無くても心豊かに暮らしている人もいる。
 
 最近メディアで、「アフターコロ〇の生き残り~」「金持ち老人、貧乏老人」のようなタイトルを見た。まだこんな発想で記事を書いてる者に、私はどこか悲哀すら感じる。「生き残り」とか「金持ち」とか、仮に自分がそう思えたとしても、それは社会を支えてくれているエッセンシャルワーカーと言われる人々や、周囲の人々のおかげなのだ。自分だけが金を手にして生き残る社会など非現実的であるし、そこに人としての生きがいなどないと思う。

 仕事や人生においても、勝負をかける場面はあるだろう。ただ、人生は長いか短いか、いつ終わるかわからない。常に勝ち続ける者、逆に負け続ける者などいるのか。そもそも勝敗はいつ誰が決めるものなのか。他人との無用な“試合”に巻き込まれずに、自分が決めること。そして、もし勝ったと思った時は足元を、負けたと思ったら前を向く。できるだけ多くの人を信じ、手を差し延べられたら恩返しを忘れないことだ。

 この1年、いろいろな事に過敏になり窮屈な思いもした中で、見えてきたこともある。それは、仕事には結果に至るプロセスがあって、プロセスにこそプライドの種があること。長い人生の色彩には、濃淡やグラデーションもあるということ。そして、これからは「競争」より「共創」ということを考えて行きたい。競争は線、共創は面のイメージくらいしかないのだが。まずは今までよりも周りに目配り気配りを心がけてみようと思う。
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140.冷静な頭と温かい心

2020-10-19 12:09:20 | 仕事 キャリア ライフキャリア
「Cool Head ,but Warm Heart」-多分学生の頃に聞いた言葉で、何か問題にぶつかっている時に思い出すことがある。気になって調べてみたら、マーシャルという経済学者の言葉で、「冷静な頭脳と温かい心を持とう」という意味だ。意味は合っていたが、経済学者の言葉とは知らなかった。

 現在、私の仕事のおよそ半分はキャリアコンサルタントの仕事である。就職や就労、転職や再就職という人生の転機にある人や、そのような状況の中で迷ったりもがいたりしている人を対象に、セミナー講師や個別相談等の仕事を通じて支援する対人援助の仕事である。この仕事の基本的な作法と型は、このブログの80回目「キャリアコンサルティングの作法と型」に書いた通り、「傾聴」と「6ステップ」。その土台となるのが、理論と倫理だ。

 私はこの仕事を10年近く続けていて、講師や相談の様々な現場経験も積んでいる方だと思う。どんな仕事でも、それに真摯に向き合い続けてこそわかってくることや悩ましく思うことがあるし、上っ面だけなぞって自己満足したり面倒なことから逃げてばかりでは見えてこないこともあるのだろう。キャリアコンサルティングの仕事もそうだ。

 対人援助の仕事は、本来手間暇かかるし面倒なことも多い。時にはリスクもある。それは、人には様々な事情、置かれた環境、個性、欲求、価値観などがあって、こちらの思い通りには動かない事の方が多いからだ。また、キャリアコンサルティングは、対人援助の中でもいわゆるメンタルカウンセリングのような「治療モデル」ではなく、転機を乗り越え自分らしい生き方を選択できるように促すという意味で「成長モデル」と考えられている。こちらのアドバイスに従わせることが目的ではなく、あくまで自己決定を促すことが原則なのだ。人の人生に最期まで責任を持てるのは本人であり、キャリアコンサルタントの仕事は一期一会がよい。「(相談者を)変えようとするな、わかろうとせよ」。キャリアコンサルタントの基本姿勢を表す言葉の一つである。
 
 とは言え、特に相談の現場では、一定の期間にある程度の前進や結果も求められる。いつまでも相談に乗っているだけでは、支援とは言えない場合もあるからだ。ましてや、有料相談の場合は必要以上の負担を相談者にかけられない。そうすると、相談者の言動からの見立てや支援の進め方は、経験値や勘だけでなく理論や型に基づいて冷静に考える必要がある。一方、実際に相談者に接する時の態度や支援の中味は、共感的理解や人間尊重の倫理観など温かい心が求められる。これらのバランスが難しい。難しいのは、相談者にとってより良い自己決定を共に見出そうとするからであり、その答えがあるとすればそれは相談者の中にあるからだ。だから、やりがいもある。

 「智に働けば角が立つ 情に竿指せば流される 意地を通せば窮屈だ」
とかくに人にかかわる仕事は難しい。されど奥深い。改めて冒頭の言葉をかみしめるような思いがすることが増えたこの頃だ。
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139.レジリエンス

2020-10-03 10:41:51 | 時代 世の中 人生いろいろ
 「レジリエンス」には、回復する力、再起する力、逆境に向き合う力などの意味がある。「しなやかに立ち直る力」と考えられる。

 今、日本の経済や社会は、多少の波はありつつも徐々に回復に向かっていると考えられている。私の仕事も周囲の人々も、用心は続けながらも概ね通常業務や日常に戻っている。以前のような緊張感や不安感は和らいでいる。人間は緊張感ばかりが続いて限度を超えると、心身の故障につながる。また、社会や人間関係に支障が生じるような不安感はメディアの煽り過ぎによると感じているので、私は今の地域の落ち着いた状況に安堵している。

 では、今の状況は、今年の始まりの頃と同様の仕事や暮らしかというとそうではない面もある。リモートワークの導入や新しい生活様式など、仕事や暮らしの中で変わりつつある部分もあって、変わりながら回復している様子だ。
        

 そう考えると、回復力のベクトルは、「元に戻る」のではなく、新たな方向や価値に向かうイメージと思えてくる。約8か月前の経済や社会の状況に戻ったか否かが問題ではなく、一人一人がこれからの仕事や暮らしの中で守りたいことや成し遂げたいことを見出して行くことが課題になってくる。「もう少しこう変えたい」「もっとこうしたい」、または「このままでいい」とか。難しく考える必要はなく、すぐに解決しなくてもいい。意識や姿勢が、これまでより大切になってくるだろう。

 一方で、レジリエンスを弱めてしまうクセがある。自分にも心当たりがあるものもある。
(レジリエンス入門 ちくまプリマ―新書 参照)
・否定的側面の拡大(肯定的側面の否定 メディアやSNSの偏った情報に煽られて)
・二分化思想(少なすぎる判断基準 勝ち負け思考 白黒思考 グレーが許せない)
・「当然」「べき」「ねばならない」思考(自分だけでなく他者に対してこうだときつくなる)
・過剰な一般化(みんなこうだ、世の中全部がそうだと思いこむ そして悲観する)
・結論の飛躍(根拠のない思い込み、支離滅裂、差別や偏見にもつながりかねない)
・劣等比較(自分より劣っていると思う者と比較して優越感や自己肯定感 これは続かない)
・他者評価の全面的な受け入れ(人の言うことを鵜呑みにしたり惑わされたりでしんどくなる)

 私なりのレジリエンスを強める心がけは、以前から現実を踏まえた楽観主義かと思っている。つまり、状況や情報を見聞きしながらも、そのうち何とかできると考える事かと。そうは言っても、私もいつもそんなに強くはないから、謙虚に人の支えや助け、知恵も借りる姿勢も心がけたい。そして、この8ヶ月で特に感じたことは、人や情報や社会の動きについて、自分にとって大事なことを、惑わされずに冷静に考えてみる姿勢の大切さである。 
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138.人力車

2020-09-26 09:59:14 | 仕事 キャリア ライフキャリア
 夏が過ぎ、キャンペーンが始まり、連休中は本県の観光地も大分賑わっていた。つい最近まで観光スポットに並べて展示されているかのようだった人力車も出払っていた。半纏に地下足袋姿の車夫の中には女性もいる。赤いひざ掛けをした客を載せて、そぞろ歩く人々の中をゆっくりと進み、坂道では上りも下りもしっかりと舵棒を握り足を踏ん張っている。客や周囲の安全に目配りしているのだろう。もちろん、屋外での仕事だから冷暖房など無い。

 車夫は、ただ人力車に客を載せて引いているだけではないようだ。引きながら客と会話をしている。周回コースの説明だろうか。客に合わせた雑談だろうか。時折、観光スポットでは車を止めてその魅力や歴史のガイドもしている。写真撮影にも応じる。言葉づかいも態度も丁寧だ。前を向いてマスクもしているので、声の大きさにも気を使っている。やはり、客に快い思い出を作ってもらいたいのだろう。

 こうして見ると、車夫の仕事は肉体労働であり、運転手であり、接客・サービス業でもある。体と頭を使って、安全で快適なサービスを限られた時間の中で一人の力で実現しようとしている。「おもてなし」をしていると言っても良い。客に対して、ほとんど背中や後頭部を見せたままのおもてなしというのも珍しいと思うが。

 人力車は、客を載せて動き始める時や一度止まってまた動き出す時に最も力がいる。昔、物理の授業で習った最大摩擦力のせいだ。しばらく停滞していた経済・社会活動も動き出しの時は様々な反発や摩擦もあったが、ようやく動き始めた。さらに加速させるために、来月から各種キャンペーンも始まるようだ。動いている時でも、摩擦力はかかるのだから、動かせる時は動かしたらいいと思う。これまでの経済・社会の安全や快適な暮らしについても、十分ではなくとも動きながら考えて、できることからしてきたこともあるのだから。

 一見単純に見える仕事の方が、実は奥が深いし必要なこともある。久しぶりに動いている人力車を見ていて、人が人にサービスをする光景はあたりまえではなかったと思いながらも心温まった。そして、時が来たら動かせるように経済や社会を支えてきたエッセンシャルワーカーと呼ばれる人々のことを想うと、胸が熱くなった。
 
 固い地面を踏み締める車夫の足袋を見ていて、地に足をつけた仕事やくらしの大切さに思いを馳せることができた。
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